派遣国の横顔~知っていますか? 派遣地域の歴史とこれから[マラウイ]

1971年の派遣に始まり、今年で協力隊派遣50周年を迎えるマラウイ。このページで、まずはマラウイについてご紹介します。

マラウイの基礎知識

  • 面積:11.8万平方キロメートル(日本の約1/3)
  • 人口:1,862万人(2019年:世界銀行)
  • 首都:リロングウェ
  • 民族:バンツー系(主要民族はチェワ、トゥンブーカ、ンゴニ、ヤオ)
  • 言語:チェワ語(国語)、英語(公用語)、各民族語
  • 宗教:人口の約75%がキリスト教 (その他イスラム教、伝統宗教)

※2020年7月28日現在 出典:外務省ホームページ

派遣実績

  • 派遣締結日:1971年7月2日
  • 派遣締結地:ブランタイア
  • 派遣開始:1971年8月
  • 派遣隊員累計:1,895人

※2021年8月31日現在 出典:国際協力機構(JICA)

帰国後もかかわり続けたくなるマラウイの魅力とは?

歴代派遣隊員数が最も多く、協力隊員にはなじみのあるマラウイ。帰国隊員でもあるお二人からマラウイの歴史や文化を教えていただきました。

水谷恭二さん
水谷恭二さん/森林経営・1981年度1次隊・福岡県出身

日本マラウイ協会理事。協力隊参加後、1988年に国際協力事業団に入団。青年海外協力隊事務局やマラウイ事務所長としての勤務、四国支部での勤務を経て2018年5月に退職。

草刈康子さん
草苅康子さん/村落開発普及員・1997年度3次隊・山形県出身

日本マラウイ協会理事。協力隊参加後、JICA海外長期研修・米国大学院を経て、主にアフリカ諸国にてJICA専門家として、またUNDP(※1)、国連大学、世界銀行、東京大学などで勤務。現SATREPS(※2)長期研究員。

※1 UNDP-国連開発計画

※2 SATREPS-国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)並びに国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)と独立行政法人国際協力機構 (JICA)が共同で実施している、開発途上国の研究者が共同で研究を行う3~5年間の研究プログラム。出典:科学技術振興機構(JST)ホームページより

世界遺産の「マラウイ湖国立公園」

世界遺産の「マラウイ湖国立公園」(写真提供:草苅康子さん)

アフリカ南東部のマラウイ共和国(以下、マラウイ)は、タンザニア、モザンビーク、ザンビアと国境を接し、国土の5分の1をマラウイ湖が占める。主要産業はたばこ、砂糖、紅茶、ナッツなどで、国民のおよそ8割が農業に従事する農業国だ。一人あたりの所得は低く、世界最貧国の一つとされている。

1964年にイギリスから独立したマラウイは、独立の2年後にはバンダ初代大統領が権力を掌握。30年もの間、一党独裁制が敷かれた。一方で、自分への反発が起きることを恐れたバンダ大統領は人々の生活を大きく制限していたとされている。

しかし、1994年には独立後初めての大統領・議会選挙が行われ、ムルジ大統領政権が誕生した。初等教育の無償化政策が導入され、より多くの子どもたちに教育の機会が与えられた。

「これまで革命や内戦を経験しなかったマラウイは、アフリカでは平和な国といわれています」と話すのは、日本マラウイ協会理事の水谷恭二さん。1981年度1次隊で森林経営隊員としてマラウイに赴任。2005年からはJICAマラウイ事務所長を務めた。

「マラウイの主食は粉末状の白トウモロコシをお湯と練って作る『シマ』。台湾の農耕隊による稲作の普及で米の入手も容易で、協力隊員にとって食事も口に合うため、食生活の苦労は少ないのではないでしょうか」(水谷さん)

マラウイは「The Warm Heart of Africa(アフリカの温かい心)」との別名を持ち、これは明るく親しみやすいマラウイ人の性格を例えている。外に出れば、知らない人とでもすぐに仲良くなれるのがマラウイ人。困ったときには救いの手を差し伸べてくれる優しい国民だ。

同じくマラウイ協会理事であり、1997年度3次隊・初代村落開発普及隊員としてマラウイに赴任し、現在はSATREPS研究員としてマラウイで研究に励む草苅康子さんはこう話す。

「マラウイは『最貧国』の一つであり、都市を離れると電気や水道の整っていない地域も多く、生活面で苦労の多い派遣国かもしれませんが、対人関係でのストレスは少ないように感じます。帰国後、再びマラウイにかかわる活動を続けたいという人は多いと思います」

技術移転を託された協力隊派遣

協力隊派遣40周年記念式典の集合写真

大統領官邸にて行われた協力隊派遣40周年記念式典(写真提供:日本マラウイ協会)

協力隊がマラウイへ最初に派遣されたのは、1965年の協力隊海外初派遣から6年後にあたる、1971年8月のこと。協力隊としては13番目、サブサハラ・アフリカ地域では、ケニア、タンザニア、ザンビアに次ぐ4番目の派遣国だった。

「当時、日本政府は発足間もない協力隊の派遣先拡大に積極的でしたが、マラウイは、まだ日本大使館がなかった国のなかでも比較的早い派遣事例でした」と話す水谷さん。マラウイ協力隊の歴史を研究する草苅さんも、派遣の経緯について「当時、マラウイ大使も兼ねていた駐ケニア大使による働きかけが大きかったようです。交渉文書からは、経済成長をしている日本からの技術移転を期待していた様子がうかがえます」と、話す。

最初の派遣隊員は、漁業統計2名、ラジオ製作2名、測量3名の7名。マラウイの安定した政情を背景に順調に派遣隊員数は増加し、現在は累計1800名を超えている。国別では最多の派遣先となっているが、当初は「協力隊の派遣以前に活動していたイギリスのVSOやアメリカのPeace Corpsなどのボランティア団体が徐々に引き揚げるのと入れ替わりに、協力隊へのニーズが高まっていったのかもしれません」(水谷さん)

マラウイ人の心に刻まれた協力隊

ニンニクの植えつけを行う人々

JOCA農民自立支援プロジェクトの一環で、農家にニンニクの植えつけを指導(2007年ムジンバ県にて。 写真提供:丹羽克介さん)

1800名を超える派遣実績のうち、派遣部門別では、保健医療、教育、農業、保守操作の順に多くなっている。職種別では、理科教育・数学教育、看護師・助産師・保健師、村落開発・コミュニティ開発が上位を占める。

特に理数科分野の教育が多いのは、マラウイの特徴の一つだと水谷さんは言う。

「長い間、理数科教師一本やりで、音楽など情操教育の派遣はなく、体育の要請も遅れてからでした。基礎学力の向上が優先されていたからでしょう。近年はExpressive Arts(情操教育)教科の派遣要請も増えていますが、その背景の一つには、進学率の向上により教育ニーズが高まったことや、民主化といったマラウイ社会の変化があります」(水谷さん)

マラウイ社会で広く知られることになった隊員も多い。例えばマラウイで人気テレビ番組となった国営放送(TVM)の「サイエンスマン」を制作した長谷宏司さん(シニア隊員・プログラムオフィサー・2005年度)、マラウイ人歌手と制作したHIV/AIDS予防啓発ソング「ディマクコンダ(愛している)」が国民的ヒットを記録した山田耕平さん(村落開発普及員・2003年度2次隊)など。

こうした「有名人」に限らず、「隊員の活動が多くのマラウイ人の心に思い出として強く刻まれている」と話すのは草苅さんだ。「町を歩いていると、『もしかして、日本人か? 私は協力隊の誰々から数学を教わったんだ』などと声をかけられることが頻繁にあります」(草苅さん)

「OVOP運動」(※1)の草分け

VOPグループで作られたパームヤシ油せっけん

OVOPグループで地域の人々の収入向上を目指して作ったパームヤシ油せっけん(写真提供:青木道裕さん)

マラウイでは複数の隊員が取り組むプロジェクトも数多く実施されてきた。1974年からのオニテナガエビ養殖プロジェクトに始まり、身障者雇用・訓練を目的としたマゴメロ農場プロジェクト、ムジンバ南部のHIV/AIDSプロジェクトなど活動地域も分野も幅広く、継続的な活動が続けられている。

その一つ、ロビ農業プロジェクトに参加した丹羽克介さん( 野菜・1996年度3次隊)は、現在もJICA技術協力プロジェクト専門家として「MA―SHEP」(※2)に携わり、マラウイに在住。小規模農家の意識を「作って売る」から「売るために作る」に変え、所得向上を目指した支援を行っている。

マラウイ政府が国家プログラムとして推進する「OVOP運動」も、JICAが支援したプロジェクトの一つだ。マラウイは、アフリカ大陸におけるOVOP事業の草分けである。JICAによるマラウイ政府への「OVOP運動」導入の後、2003年に第3回アフリカ開発会議(TICAD III)のために来日したムルジ大統領(当時)が、県を挙げて「OVOP運動」を展開していた大分県を訪問。その取り組みを自国で再現するべく、マラウイにOVOP事務局を設置。国を挙げての取り組みを始めた。JICAマラウイ事務所も同時にプロジェクト支援を開始した。

協力隊員がかかわることで「OVOP運動」は農村部にも広く行き渡り、バオバブオイルや食用油、お米、せっけんなど、地域産品による商品作りと、現地住民の収入向上につながっている。

例えば、青木道裕さん(村落開発普及員・2012年度1次隊)は任地のOVOPグループでパームヤシ油せっけんの制作から販売に携わり、収入向上に貢献した。また、田村美津子さん(幼児教育・2009年度3次隊)は、教育以前にまず収入の向上・安定が欠かせないと感じ、2013年度派遣シニア隊員としてOVOP事務局に再赴任。女性たちに手芸教室で裁縫を指導して収入の向上安定に努めるとともに、10年来の夢であった保育園を立ち上げた。

「隊員の配属先にWFP(国連世界食糧計画)があるのは、協力隊員として国際機関で働ける世界でも珍しい事例です。これまで10名の隊員がWFPで活動してきました」(水谷さん)

派遣職種の多様化や現地住民と深く結びついた活動の広がりは、50年の派遣の歴史のなかで、JICAの国際協力活動とそれにかかわる隊員たち自身が共に成長してきたことを表している。

「足りない穴を埋めるだけでなく、互いに学び合いながら双方が成長できる関係の大切さを、マラウイ側もJICA側も意識するようになっているのではないでしょうか」(草苅さん)

※1 OVOP運動-One Village One Product(一村一品)運動は、1980年に当時の大分県知事であった平松守彦さんの提唱により始まった。各地域でそれぞれ1つの特産品を育てることにより地域の活性化を図るプロジェクト。

※2 MA-SHEP-小規模園芸農家の生産性・マーケティング能力の強化を図ることを目的とした「市場志向型小規模園芸農業推進プロジェクト」

知られざるストーリー