派遣国の横顔~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[スリランカ]

民族融和を図り、人を育てる

長期にわたって続いた紛争後の平和復興には、少なからず協力隊員らの活動もかかわっている。心の教育を行ってきた3人のOVを紹介する。

内戦下に始まったスリランカ野球の歴史

植田一久さん
植田一久さん
野球/2002年度1次隊・大阪府出身

PROFILE

日本・スリランカ野球友好協会理事長。2016年に同団体を設立。明徳義塾中高等学校での勤務時代には野球部副部長として甲子園を何度も経験。02年に協力隊に参加し、監督としてチームをアテネ五輪予選出場に導いた。帰国後は地元大阪で学習塾を開塾し、子どもたちの夢を後押ししている。

丸太をプレートに見立てたピッチング指導

拾ってきた丸太をプレートに見立ててピッチング指導。野球道具が不足していたため、植田さんは勤務先だった明徳義塾中高などに中古道具の支援を募った

協力隊のスリランカ派遣が始まって今年で40年。その特徴の一つに、26年間続いた内戦下においても隊員の派遣が継続され、内戦終結後も民族融和や紛争影響地の復興にかかわってきたことが挙げられる。

「町中には機関銃を持った兵士が警備に立ち、任期中にも自爆テロがありました。地方に移動する列車は特に危ないということで、JICAから乗車禁止となっていました」と振り返るのは、2002年に初代野球隊員として赴任した植田一久さんだ。その年2月に一旦は政府と反政府組織の間で停戦合意がなされたものの、内戦は再燃し09年まで続くことになる。そんな時代にスリランカでの野球の普及は始まった。

現在、スリランカは西アジアカップで優勝を収めるなど野球強豪国である。しかし植田さんの派遣当時、野球はクリケットやバレーボールの人気に到底及ばない「〝超〟がつくマイナースポーツ」。植田さんは野球チームがある学校8校(コロンボ4校、キャンディ、ゴール各2校)で主に高校生を対象に巡回指導を行ったが、「用具はボロボロで、ボールは1校に1つか2つある程度。やっている内容も遊びの延長のような状態でした」。

日本からの支援で用具を調達し、準備運動やキャッチボールのやり方から少しずつ技術指導を始めた植田さんだが、特に力を入れたのが「心の面の指導」だった。

「野球はチームメイトがいて、相手チームがいて、審判員がいて成り立つスポーツです。あらゆる人に対するリスペクトが大切だということを最初に伝えました」

巡回指導に加えて野球の普及にも注力し、地方での野球教室キャラバンを企画・実施。指導者・審判員育成のための講習会の開催にも取り組んだ。

「野球の認知度を上げるため、ユニフォームを着て、グローブとボールを持ち、バットを担いで町中を歩いたこともありました」と笑う植田さん。派遣期間の終わりには、野球チームのある学校は約30校に増え、大学にも1チームできていた。

スリランカ・日本フレンドシップ野球場

2012年12月23日には「スリランカ・日本フレンドシップ野球場」が完成。この写真を提供してくれたスジーワ・ウィジャヤナーヤカさんは、植田さんの教え子で、日本で審判の資格を取得した

その後、現在まで野球隊員の派遣は継続されており、09年のアジアカップでナショナルチームが銅メダルを獲得し、16年には西アジアカップで初優勝。その間の12年にはスリランカ初の野球専用球場が外務省・草の根文化無償資金協力とJICA寄付金を利用して建設され、この球場で19年に開催された西アジアカップでも再び優勝を手にした。また、1校から始まった大学野球も現在はリーグ戦が行われるようになり、社会人リーグでは陸海空軍のチームが活躍している。協力隊の野球隊員が種をまき、育ててきたスリランカ野球は大きく花を咲かせた。

「赴任期間中はまだ内戦下でしたが、チームにはシンハラ人もタミル人もおり、子どもたちの間に民族による対立は感じませんでした。『野球の好きなところは、公平に打順が回ってくるし、誰でもヒーローになるチャンスがあるところ。野球はみんなに平等だから』という子どもたちの言葉が印象に残っています」

活動の舞台裏

物を大切にする精神
野球をするスリランカの人々

コロンボ県から始まったスリランカ野球の歴史は、現在地方へも広がり、スリランカの野球人口は増え続けている(写真は2015年)

野球の技術指導とともに植田さんが生徒たちに伝えてきたのは、物を大切にする精神だ。「野球道具は丁寧に扱い、使ったら片づける」と繰り返し伝えた。ある日、1個しかないボール がジャングルに入ってしまい、生徒たちが必死で探したが、見つからない。そこで植田さんは新しいボールを渡して帰った。

ところが、次に植田さんが指導に行くと、先日渡した新しいボールがボロボロになっていた。 生徒の一人がうなだれながら「毎日洗っていたら革がポロポロ剥げてきて......」と報告にきた。 硬式ボールは革製品だから、水で洗わずにタオルなどで拭いて手入れをするが、植田さんはそれを伝え忘れていたのだ。「僕の失敗でしたが、生徒たちが物を大切にしようとしてくれていたことがわかり、うれしい記憶として残っています」。

2つの民族をつないだ音楽の絆

林 加菜さん
林 加菜さん
音楽/2014年度1次隊・北海道出身

PROFILE

大学卒業後、民間企業勤務を経て、2014年に協力隊に参加。中学から社会人まで吹奏楽を続けてきた経験を生かし、音楽隊員としてスリランカのNGO団体で子どもたちへの音楽指導に尽力した。帰国後は5年間、JICA北海道センター (帯広)にて市民参加事業担当として勤務。

音楽を通し、子どもたちの心のケアを行う林さん

音楽を通し、子どもたちの心のケアを行った林さん。活動先のNGOでは、シンハラ人とタミル人が参加する交流合宿も行った

09年の内戦終結後には、長年対立してきたシンハラ人とタミル人の「民族融和」が大きな課題になった。協力隊もスポーツや音楽を通してその支援に取り組んできた。その一例が、現地で民族融和を念頭においた音楽交流プロジェクトを行うNGO「The Music Project」に派遣された音楽隊員の活動だ。

「シンハラ人が多く住む南部のクルネーガラ県の3校と、タミル人が住む北部のムライティブ県の2校、計5校の11~14歳の生徒を対象に、各校週2回、放課後の音楽指導を行うとともに、学校の長期休暇を利用して南部と北部の学校の交流プログラムを実施しました」と話すのは、14年に同NGOに着任した林加菜さん。放課後の音楽指導では、他の職員とともにリコーダーや管楽器、ピアニカ、バイオリン、打楽器などの演奏と合奏の指導に取り組んだ。

「派遣当時、子どもたちはリコーダーで簡単な曲が吹けていましたが、楽譜を読むのはまだ難しい様子でした。そこで次の段階として、楽譜が読めるようになることを目標にしました」と話す林さん。伝統音楽が主流のスリランカでは、五線譜を使う西洋音楽の基礎がなく、苦労も多かったというが、「子どもたちに興味をもって楽しんでもらうために、スリランカ音楽を五線譜に起こして取り入れるなど工夫をしました」という。

こうした各校での指導をベースに実施されたのが、南部と北部の子どもたちの交流合宿プログラムだ。内戦終結から間もない派遣当初、反政府勢力の拠点だった北部に外国人が入るにはパスポートが必要で、内戦で親や親戚を亡くしたり、手足を失った親を持つ子どもも少なくなかった。そうした状況下で年2回、シンハラ、タミル両民族の子どもと保護者が150〜200名程参加して行われた交流合宿では、合奏の練習と成果発表のコンサートを通して交流を深めることが目的だった。

「しかし、シンハラ人とタミル人は、シンハラ語とタミル語という別の言語を使用しています。学校では習うので、お互いの言語が全く理解できないという訳ではないようでしたが、民族的なことだけでなく思春期特有の照れもあってか、あまり積極的にコミュニケーションしない面がありました。親同士もお互いによそよそしい雰囲気がありました」

それが、交流合宿の回を重ねるごとに、少しずつ変わっていったと振り返る。「劇的な変化とは言えませんが、合宿中の練習や遊びを通して子供たち同士が楽しそうに笑い合う姿も増え、両民族の親同士の間の空気が柔らかくなっている感じがありました」

こうした活動の意味について、前出のクマーラ名誉教授は次のように評価する。

「反政府組織のテロ活動が活発だった時期には、テロを警戒して人を集めた催しなどできませんでした。実際、コンサート会場が爆破されるテロも起きました。そういうことを恐れず、音楽を楽しめたことは、参加者の心を癒やし、安心感を与えることにつながったように思います」

活動の舞台裏

あげる精神
スリランカの仏教徒

スリランカでは人口の約7割が仏教徒とされている

林さんが活動していたころ、かかわっていた生徒の家庭のほとんどは裕福とはいえなかった。母親が中東諸国に出稼ぎに出ているといった家庭も多く、子どもたちは年に数回しかない母親の帰国を心待ちにしていた。そうしたなかでもスリランカの人々は宗教、民族、老若男女問わず「あげる精神」が根づいているように感じ、驚いたという。

「仏教の影響もあってか、特に食べ物に関してはどこにいっても大変豪快に振る舞われました。巡回先の学校の子どもたちも、木の実やアメ、シールや髪飾りなど、さまざまなものをくれます。独り占めをする様子もあまり見たことがありません。それは一朝一夕で身につくような姿勢ではなく、その精神は人とかかわるうえで大切にしたい姿勢だと感じました」。

長年にわたり積み重ねられた草の根からの人づくり

馬場繁子さん
馬場繁子さん
幼稚園教諭/1986年度3次隊・東京都出身

PROFILE

NGOスランガニ代表。幼稚園教諭としてネパールでボランティアに携わった後、1987年に協力隊に参加し、スリランカで幼児教育活動に従事。帰国後、92年にNGOスランガニを設立。現在スリランカに在住し、障がいを持つ子どもたちや貧困家庭の子どもたちへの教育支援などの活動を行う。

スリランカの子どもたちと手を繋ぐ馬場さん

スランガニでは、歴代の協力隊員たちも活動している。同NGOでは、スリランカの貧困地区の幼児教育や健康診断にも力を入れている

これまで紹介してきたスポーツ隊員や音楽隊員の活動には、それぞれの時代や分野で求められた現地のニーズがあるが、より大きな目で見れば「人づくり」とくくることができるだろう。クマーラ名誉教授も協力隊に期待することのひとつに「技術的なことはもちろん、仕事に対する責任感、人権や他者を尊重する姿勢など、日本人の良い面を伝えること」を挙げる。

スリランカで「人づくり」に取り組んできたOVの一人が、NGO「スランガニ」を設立して、30年間、幼児教育の支援活動を続けてきた馬場繁子さんだ。もともと幼稚園教諭だった馬場さんは、個人ボランティアとしてネパールで幼児教育に取り組んだ後、1987年に協力隊の幼稚園教諭隊員としてスリランカに赴任した。コロンボ近郊の幼稚園で、延長を含め3年半活動するなかで、馬場さんはスリランカの幼児教育の課題に気づくことになる。

「当時のスリランカの幼稚園では、歌や踊り、遊びを通じて学びの基礎をつくるという幼児教育に対する理解がありませんでした。幼稚園でも〝勉強〟が中心で、体罰も珍しくありませんでした」

そんなときに馬場さんが出会ったのが、低所得者層の居住区で自宅を開放し、無料で子どもたちに読み書きを教えていた女性スランガニさんだった。

「子どもと向き合う姿勢がまっすぐで、実直な先生でした。これが私のやりたかった活動だと感じ、地域で意欲のある幼稚園の先生達を対象に、派遣先の幼稚園で教育実習のような支援を始めました」

そして帰国後の92年、スリランカでの幼児教育支援を続けるために馬場さんが設立したのがNGOスランガニ(設立当時の名称は「スランガニ基金」)だった。

「最初に取り組んだのは幼稚園の先生のネットワークづくり。国の制度としての幼稚園がなかったスリランカでは、先生たちが孤立しがちだったので、スモールグループを各地区につくり、それらを結ぶことで先生同士のネットワークを広げていきました」

そこでは指導法の共有だけでなく、先生同士の〝頼母子講〟(※)的な仕組みづくりや食材の共同購入など、先生自身の生活を支え合う活動にもつながった。

地元の人で賑わう市場

庶民の台所、地元の人で賑わう市場

こうして始まったスランガニの活動は、その後、先生たちのネットワークのなかから浮き彫りになった課題を解決するため、絵本の入った図書箱「アリペンチャ」を配布する絵本箱事業、貧しい家庭の子どもたちへ、毎月一定額の教育費用を送金し、教育資金を支援するプログラム「スマイルズ教育里親事業」、障がい児通所センター「リトル・トゥリー」の設立、落花生を使ったスナックを製造する食品加工作業訓練センター「リトル・ティーズ」の開設などに広がっていった。

「学用品が用意できない貧しい家庭の子どもが小学校に通えないという話から始まったのがスマイルズ教育里親事業で、リトル・トゥリーも先生たちからの要望がきっかけでした」

馬場さんは、スランガニの30年間の活動を振り返ってこう話す。

「近年は政府も幼児教育に重きを置き始めており、スリランカの幼児教育はずいぶん発展してきたと感じます。協力隊の幼児教育隊員の活動も、さまざまな地域・行政のレベルに広がり、いろいろな角度から幼児教育に対してアプローチできるようになっています。それはうれしいことですね」

今回紹介できたスリランカでの協力隊の活動は、40年の歴史のほんの一部だが、前出のクマーラ名誉教授は、協力隊の活動を振り返り「一般のスリランカ人が足を踏み入れないような場所にも分け入って、粘り強く住民の状況改善に取り組む隊員の姿には胸を打たれます」と話す。

こうした声に応え続けていくことは、スリランカ派遣隊員だけでなく、すべての協力隊員に求められていることではないだろうか。

※頼母子講(たのもしこう)…地域の人々や仲間内などでお金や米を出し合い、融通し合う民間の互助的金融組織。日本では鎌倉時代からあったとされる。

Text=田端広英(本文)、ホシカワミナコ(コラム)  写真=渡部光哉(林さんの活動時、コラム) 写真提供=アーナンダ・クマーラさん(市場)、植田一久さん、林加菜さん、馬場繁子さん

知られざるストーリー