[特集]巻き込み力
-仲間を増やして社会課題に挑むOVたち-

医療通訳で在住外国人を支援
▼在住外国人への医療支援 ▼兵庫県神戸市

村松紀子さん
村松紀子さん
パラグアイ/野菜/1988年度1次隊・兵庫県出身

PROFILE

1988年に八ヶ岳中央農業実践大学校を卒業後、協力隊に参加。野菜栽培を通して、女性の社会参加のための仕組みをつくる。帰国後、JICA国内協力員を経て、93年から兵庫県国際交流協会スペイン語通訳相談員を務める。02年に医療通訳研究会を設立。共著に『実践医療通訳』『あなたにもできる外国人へのこころの支援』など。

一歩踏み出したい人へのメッセージ:
協力隊で使った現地語は、日本では希少で貴重です。さびつかせずにいてください
村松さんにとって巻き込み力とは?:
同じ目標・志を持ち、 考え方や得意分野が 異なる人を仲間にすること

言葉の壁で医療が受けられない人々

 医療通訳研究会(MEDINTメディント)は、すべての外国人に医療現場で質の高い通訳を提供することを目的に、医療通訳者や医療従事者のための研修やネットワークづくりを行っている。扱う言語は、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、タイ語の5言語。2002年の設立から関わってきたのが、協力隊OGの村松紀子さんだ。

言語分科会の様子

言語分科会の様子。現在は5言語(英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、タイ語)で、それぞれ年に4回開催。会員にはベトナム語や手話ができる方もいる

   村松さんが派遣国であるパラグアイから帰国したのは91年。前年の90年に日本の入管法(出国管理及び難民認定法)が改正されたため、南米から多くの日系人が出稼ぎのためにやって来るようになっていた。村松さんが暮らす兵庫県でも、県が在住外国人のために英語、スペイン語、ポルトガル語、中国語による相談窓口を設置。村松さんは兵庫県国際交流協会スペイン語担当の相談員に応募し、93年4月に相談員の仕事に就いた。

   村松さんが相談員として困り事を抱えている在住外国人と関わっていくなかで感じたのは、医療現場での通訳は特別だということ。きっかけの一つが、95年の阪神淡路大震災だった。被災した在住外国人に結核や精神疾患を患う人が急増し、休日を利用して診察に同行したが、医療の通訳は想像以上に難しいものだった。

「忘れられないのが、髄膜炎の子どもの通訳を頼まれたときのこと。私は医療の専門用語がわからなくて、結局、お母さんとお医者さんが片言の英語を交えて話し始めました。スペイン語の通訳として来てほしいと頼まれたのに、何もできなかったことが非常に悔しく、申し訳なく感じました」

   医療通訳は、語学が堪能であればできるというものではない。医療の専門知識はもちろんのこと、病院のシステムや保険制度の知識は必須で、インフォームドコンセント(※)に立ち会うこともあるため、心理的な負担も大きい。一方で、当時は「医療通訳」という言葉もない時代で、社会的認識は低く、多くがボランティアに頼っている状況だった。報酬が支払われることもほとんどないため、優秀な人材は報酬の高い会議通訳やガイド通訳に就いているのが現状だった。

「優秀な人材を集めるためには、医療通訳を専門職として確立し、魅力的な存在にしなくてはいけない。専門知識を学ぶとともに、働く環境を整え、当事者の声を発信することも必要」と、考えた村松さんは、同じ思いを抱えていた医療通訳者や医療従事者を巻き込み、MEDINTを設立した。立ち上げにあたっては、同じ志を持つ少人数で活動を始めることを決めた。

「私が苦手としていることができる人に集まっていただきました。結果、立場も考え方も違う人間の集まりですが、みな共通の目的を持った仲間です」

   仲間たちに共通するのは「言葉のせいで医療が受けられないということはあってはならない」という思い。村松さん自身、パラグアイに赴任してすぐ病気になり、言葉もわからず心細い思いをした経験がある。だからこそ、「病気になったときくらいは、自分の国の言葉で話せるような日本社会であってほしい」という強い思いがある。

   設立から19年。医療通訳を取り巻く環境は大きく変わった。11年に始まったメディカルツーリズムにより、日本の医療を受けるために来日する外国人が増えたことで、支援する外国人の数が急増。コロナ禍の今は、オンラインによる通訳も増えた。「日本にいても、仕事を通じて南米の人たちと関わることができています。協力隊の活動が、今なお続いているような感覚です」。


※患者が、病状や治療方針について、医師や看護師から十分な説明を受け、内容を理解し納得したうえで、治療を受けることに同意すること。


Text=油科真弓 写真提供=村松紀子さん

ブラジル人学校で日本語をサポート
▼在住外国人への日本語支援 ▼愛知県豊田市

神谷樹さん
神谷 樹さん
日系JV/ブラジル/日本語教育/2019年度1次隊・愛知県出身

PROFILE

大学在学中に協力隊の説明会に参加し、協力隊を目指すことを決意。大学に通いながら日本語教師養成学校にて資格を取得し、卒業後、日本語学校などの非常勤講師を経て協力隊員としてブラジルへ派遣された。新型コロナウイルス感染拡大のため、一時帰国後、特別登録を選択し、現在JICA中部に勤務。

一歩踏み出したい人へのメッセージ:
協力隊OVとの関わりを大切に。僕自身、それがきっかけで、活動が広がりました
神谷さんにとって巻き込み力とは?:
新たな夢、目標が 生まれるきっかけを つくること

今後の日本に大切な外国人の目線

   愛知県豊田市には日系ブラジル人やブラジル国籍の外国人が多く暮らし、市内にはブラジル人学校もある。神谷樹さんは、その一つである「エスコーラ・ネクター」で、今年4月から日本語を教えている。

   きっかけは、JICA中部が同校から日本語教育のやり方について相談を受けたことだ。両親が日本に定住し、日本で生まれ育つ子どもが増えているが、日本語をうまく話せない子どもも少なくない。そこで、日本語教育のスキルを持つ神谷さんたち協力隊のOVに声がかかった。日本語を教える活動を「ソーニョ(ポルトガル語で夢の意味)・プロジェクト」と命名し、月曜日と木曜日の週2回、OV2人が交替で授業を行っている。

   神谷さんは日系社会青年海外協力隊として、2019年7月からブラジルに赴任。新型コロナの感染拡大に伴い、20年3月に一時帰国し、渡航の再開を待っていた。声がかかったのは、そんなときだった。「帰国して半年たっても状況は落ち着かず、再開は難しいかもしれないと感じ始めていました。ブラジル人学校に関わることで、ブラジルでの経験を生かせるし、この経験がいつか再びブラジルに戻ったときにも生きるはずと思い、決めました」

ブラジル人学校で週に2回行う「ソーニョ・プロジェクト」

   ブラジル人学校で週に2回行う「ソーニョ・プロジェクト」。教材はお手製だ

   ブラジル人学校に通う生徒たちのバックグラウンドはさまざまだ。日本の公立学校になじめず転校してきたケースもあれば、ブラジルに帰国後のことを考えて通うケースや、ブラジル人のアイデンティティを忘れずにいてほしいという両親の希望で通うケースもある。そのバックグラウンドによって、日本語のレベルも違う。日本で生まれ育っているのでヒアリングは問題ないが、話せない、書けないという生徒もいれば、ほとんど話せないという生徒もいる。神谷さんが担当する中高生クラスの生徒数は5人だが、彼らのレベルもそれぞれ違う。

「レベルの違いに、僕も最初は驚きました。でも、少人数なので細やかに指導できるのは利点です。もう1人の協力隊OGの先生と情報を共有しながら、授業を進めています」

   ブラジル人学校向けの日本語教育の教材はないので、教材は神谷さんたち自作のプリントを使用。レベルが違っても生徒全員が授業に参加できるように、例えば「ルールとマナー」とテーマを決め、日本とブラジルの文化の違いについて、日々感じていることを話し合ったりすることもある。

   緊急事態宣言下ではオンライン授業が中心で対面での授業ができないため、もどかしい思いもある。しかし、それを逆手に取り、JICA横浜にある海外移住資料館とオンラインでつなぎ、展示物を見せてもらう特別授業を行うなど、新たな試みにチャレンジしている。限られた環境のなかで、今できることを模索しながら授業を続けている。

   神谷さんは、将来的に再渡航する機会を待つ「特別登録」でブラジルに戻りたいという思いもあるが、今は日本にいるブラジル人の日本語教育にもやりがいを感じている。「在住ブラジル人の子どもたちは僕たちとは違う目線で日本社会を見ています。その目線は、必ずこれからの日本の多文化共生社会の強みになるはずです。できることなら日本語をマスターし、彼らにしか見えないこと、感じられないことを、発信してほしいと思っています」。

   在住ブラジル人たちが、彼らならではの目線と日本語を強みに、いつか日本社会にうねりを起こすかもしれない。生徒たちの可能性は無限に広がっている。そのスタート地点に、神谷さんは立っている。

Text=油科真弓 写真提供=神谷 樹さん

知られざるストーリー