派遣国の横顔~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[サモア]

フィラリア症撲滅を目指して

サモアに協力隊派遣が始まった1970年代からフィラリア症対策に関わった2人のOVと、近年サッカー隊員として活躍したOVを紹介する。

一盛和世さん
一盛和世さん
公衆衛生/1976年度3次隊・東京都出身

PROFILE

協力隊参加後、ロンドン大学衛生熱帯医学校で博士号取得。その後、熱帯病対策に取り組む。WHO職員として太平洋島しょ国に14年間滞在し、太平洋リンパ系フィラリア症対策(PacELF)を立ち上げ、本部で世界リンパ系フィラリア症制圧計画責任統括官に。現在、長崎大学客員教授、ジェームスクック大学シニアフェロー、太平洋同好会代表。

土屋雅人さん
土屋雅人さん
サッカー/2015年度4次隊・埼玉県出身

PROFILE

大学時代に協力隊に興味を持ち、会社員のかたわらサッカーのライセンスランクアップに努める。協力隊参加後はJICA埼玉デスク、2019年、日本開催のラグビーW杯でアシスタントリエゾンオフィサーを務めたのち、アフリカでサッカー教室などを展開するSOLTILOに就職、コーチとしてケニア、ウガンダ、ルワンダを巡回中。

自らの血を吸わせた隊員、顕微鏡を覗き続けた隊員

フィラリアの幼虫

フィラリアの幼虫。血液中を動き回っているところを蚊が吸血し、他の人などに感染させる

 サモアが抱えていた課題の一つが、リンパ系フィラリア症(以下、フィラリア症)である。フィラリア症は、世界保健機関(WHO)が「人類のなかで制圧しなければならない熱帯病」と定義している20の「顧みられない熱帯病」(Neglected Tropical Diseases=NTD)の一つで、小さな寄生虫(フィラリア)が蚊を媒介として人のリンパ系に寄生することで発症する。リンパ機能が低下し、リンパ節や生殖器に浮腫(むくみ)ができたり、進行して下肢の皮膚・皮下組織が象の皮のように厚く硬くなる象皮病になったりする。象皮病になると強い痛みや熱、悪寒も伴う。

 サモアでは1960年代後半からフィラリア対策が進められた。77年、WHOのフィラリア症対策プロジェクトに協力するため派遣されたのが、一盛和世さんだった。フィラリア対策に関わる隊員の派遣は、協力隊として初めてだった。

 「フィラリア症という不幸をなくすには、どうしたらいいか。研究だけではなくならない。政策やプログラムがなければいけない。サモアで患者と現地の状況を見よう、研究を実際に使えるものにしようとの思いだった」と一盛さんは振り返る。

 サモアで活動を始めたころ、研究環境はほとんど整っていなかった。83年出版の著書『6色クレヨンの島―サモアの蚊日記』に、その様子がある。

フィラリア症対策プロジェクトのメンバー

住民から採った血液を検査するフィラリア症対策プロジェクトのメンバー。手前から2人目が才田さん=1980年ごろ

 「保健省のフィラリア・クリニックの昆虫部には何もなかった。こわれたピペットが一本に、プラスチックの小さな瓶が数個だけ」「空の倉庫同然のオフィースの中には机さえない。窓際の台に単眼の顕微鏡が一台あるきり。これでボウフラの種類を調べていた」(原文ママ)

 一盛さんは保健省の大臣に直接手紙を書き、車と運転手の使用、病院の検査室の機器の使用などを認めてもらい、村々を回って、蚊の生息場所を確認した。家の庭先では、古タイヤやココナツの殻にたまった水のなかに、蚊の幼虫ボウフラがいた。サモア人の主食、タロイモの葉のつけ根にわずかにたまった水にも、海岸のカニが出入りする穴の水にもボウフラがいた。

研究用の蚊を育てるため、飼育ケージの製作を手配し、成長させるために自分の腕をケージに入れて、血を吸わせることもあった。

 一盛さんのあと、79年からフィラリア対策のために着任したのが、前出の才田春夫さんだ。チームは、一盛さんのときと同様、蚊の調査や感染防止対策を検討するチームと、採血や血液検査をするチームに分かれ、一盛さんが「蚊チーム」だったのに対し、才田さんは「採血のチーム」だった。

 両チームは一緒に村々を回り、採血チームは各村で住民の80% 以上、200人前後から血液を採る。血液中にフィラリアの幼虫がいるかどうかを調べるために指先や耳たぶから採血し、どれくらいの数の幼虫がいるのかを調べるために指先や肘の静脈から採血した。サモアのフィラリアは夕方から夜にかけて末梢血に現れる。そのため、チームは午後に村に入った。

 住民を集めるには、マタイの妻で構成される婦人会の力が大きかった。サモアでは当時から女性の地位が高く、マタイの妻ならさらに影響力があった。

 「あの人は今日、首都のアピアに行っているから採血できないとか、畑にいるから呼んできてなどとなる。それは絶対服従だった」と才田さんはいう。

 2000年、WHOは20年までに全世界でフィラリアを制圧すると宣言した。サモアでは1960年代、フィラリア症にかかっている住民の割合は20%を超えていたが、このころには、フィラリア撲滅が射程に入っていた。

感染者には治療薬を渡し、その場で飲んでもらう

帰宅すると飲まなくなったり規定量を飲まないこともあるため、感染者には治療薬を渡し、その場で飲んでもらう=1980年ごろ

WHOはさらに、「大洋州リンパ系フィラリア症制圧計画」を立ち上げ、大洋州地域では2010年までの制圧を目指した。この計画をリードしたのが、WHOに移っていた一盛さんだった。フィラリア撲滅が間近になった現在までにサモアでフィラリア対策に従事した隊員は12人に上った。

 週に1度程度、村に行く以外、顕微鏡で血液の検査をし続ける生活のなか、才田さんが楽しみにしていたことがある。夕食後、村人たちが通りに出て、おしゃべりをしたり、気の合ったグループで歌ったり、踊ったりする時間。外国人も必ず、お呼びが掛かったという。

 協力隊派遣から20年余りのち、大学で国際ボランティア養成科目を担当するようになった才田さんは、学生を引率してサモアを訪れた。この間、ほとんど連絡を取っていなかったにもかかわらず、かつてのホームステイ先の住民は学生ともども「家族として」受け入れてくれた。しかし、夕食後の通りでの語らいは、なくなっていた。電気が普及し、テレビやゲームなど個人で楽しむものができたからだろうと才田さんは考えている。「すごく残念です」と才田さんは繰り返した。

ラグビー強国でサッカーを教える意味

学校巡回で子どもたちにサッカーの指導をする土屋さん

学校巡回で子どもたちにサッカーの指導をする土屋さん

 2019年秋、ラグビーW杯の日本大会は、ブームを起こした。サモアも出場し、各地を転戦した。通訳や滞在中のサポートをする「リエゾンオフィサー」の一人としてチームに帯同したのが、サモアでサッカー隊員として活動した土屋雅人さんだ。

 サモアのスポーツ人気は、ラグビー、クリケット、バレーボール、このほか女子ならバスケットボールに似たネットボールと続き、サッカーは4~5番手だ。サモアでのサッカーの普及・強化を目指し、国際サッカー連盟もボールや各種の用具などを支援している。
日本は「スポーツ・フォー・トゥモロー」事業を推進するなか、サッカー指導者の要請が出された。

 土屋さんは16年4月、2代目サッカー隊員としてサモアに着任した。協力隊の職種にサッカーがあることはその5年ほど前に知っていたが、「行くなら指導者資格を取って代表チームの指導がしたい」と思い、企業の営業職に従事しながらサッカーコーチの経験を積み、希望の活動に飛び込んだ。

 最初の活動は、17歳以下のサモア男子代表チーム(U -17)のコーチ。前任の隊員と同様、サッカー協会に所属し、指導にあたった。オセアニア地区予選が2週間後に迫っていて、「チームを立ち上げて、強化するぞ」という状況だった。チームは1次予選を突破し、2次予選へ。土屋さんは指導を続けたが、2次予選突破はならなかった。
代表チームの指導は終了し、「グラスルーツ(※)から積み上げていくことが大切」と小学校を巡回してサッカーを教える活動に力を入れた。

 小学校と調整し、体育の時間や昼休みにサッカーを教えた。小学校教員の隊員と協力し、希望を募った。活動を知った近隣の学校からも申し込みがあり、多い時には1日2校、週に10校を回った。代表チームに入っている選手もコーチ役として、一緒に回った。

 「代表チームの選手でも、定職につけている人は少ないので、コーチとして来てもらいました。コーチにも寸志やランチを出すのがサモアの慣習なので、協会の予算から少し出す形にしました」(土屋さん)

 ラグビーの人気は絶大だが、ラグビーの苦手な子どももいる。別の競技をやることで、そうした子どもにもチャンスが生まれた。タックルがないサッカーは、男女が一緒に楽しむこともできた。

 「失敗したらどうしようと考える日本と違って、子どもたちは失敗を恐れない。なんでもやってみようとチャレンジしてくれました」

 土屋さんにはサッカー以外にも伝えたかったことがあった。それは、「ルールをちゃんと守ることと、ものを大切にすること」。グループのなかで数人でも率先して片づけてくれるようになるのが、嬉しかったという。

厳しい経済状況さえ包み込む サモアの大家族主義

サモアの民族衣装、ラヴァラヴァ

サモアの民族衣装、ラヴァラヴァ。男女共通で腰に巻く

 サモアの経済は厳しい。人口が非常に少ないため、国内で生産・消費のサイクルを構築することが難しい。土屋さんの活動もその影響を受けていた。
地区予選敗退後、U -17チームの指導が継続されなかった理由の一つが、練習場が限られていることだった。大会や予選が迫っているチームが優先され、順に使うためだ。

 サモア国内では仕事がなかなか見つからないため、多くのサモア人がニュージーランドやオーストラリア、アメリカで働いている。「そうした人たちからの送金がサモアの家族や経済を支えている」(髙橋さん)とも言われる。それでも、厳しい現実を包み込むサモアならではの家族の形や暮らし方がある。

 「親がニュージーランドやアメリカで働いていても、子どもはサモアで祖父母に面倒を見てもらう人が多い。親族のつながりは続き、伝統や言葉も受け継がれています」(才田さん)

 さらにサモアでは親戚の子どもを見ることもごく普通で、外国人との結婚やシングルマザーも障壁にはならない。
他国では奇異な目で見られがちな象皮病の患者も、地域の一員として普通に暮らす。フィラリア症の根絶を願ってサモアに来た一盛さんが、著書(『6色クレヨンの島―サモアの蚊日記」』)にこう書いたほどだ。

 「サモアの村を訪れ、フィラリアの検査をしていると、象のようにガサガサの皮膚をもった大きな太い足の人がやって来る。肉の厚いやつでの葉っぱのような手の人も堂々と、ごく普通にやって来る。写真を撮らせてほしい、とおずおずと申し出たのに対して、むしろ自慢するように見せてくれる」

 「フィラリアは死ぬ病ではない。ケンカするより少々ゆずっても仲よくできるのなら、それにこしたことはないということなのか」(原文ママ)

 サモアへの協力隊員の派遣は、健康を守る活動をはじめ、農業や漁業、教育などで続き、スポーツ分野にも広がった。プライドが高く、人口20万人の国で、派遣者数は680人を超える。

 「協力隊員の多くは現地の人たちの考え方を尊重し、その生活に入っていった。だから日本人は受け入れてもいい人たちだと受け止められた」(才田さん)

 活動した隊員の心にも大きなものが残った。才田さんは学生を連れて再訪を果たし、土屋さんも旅行で再訪した。
土屋さんは「サモアの人々に対等に受け入れてもらった経験があるからこそ、僕は異文化や多様性を受け入れる気持ちになりました。それが現在のアフリカの子どもたちにサッカーを教える仕事にもつながっています。でもいつかはサモアに帰りたいですね」と話している。

※グラスルーツ…草の根。サッカーにおいては、性別や年齢や人種や障害の有無などにかかわらず、誰もがいつでもサッカーを楽しめるようにしようとする活動

活動の舞台裏

20年後のミニ協力隊
富山国際大学の学生たちが実施した調理・製菓プロジェクト

富山国際大学の学生たちが実施した調理・製菓プロジェクト

 派遣から約20年後、才田さんは富山国際大学の教壇に立った。学長の佐々学さんはフィラリア症などの研究者で、協力隊時代にも接点があった。学長と相談し、海外ボランティアに関する授業を開設。「“ ミニ協力隊” 体験をさせたい」と、サモアでの2週間余りの実習を始めた。

 協力隊時代、自分で課題を見つけて活動する大切さを知った才田さんは、活動のテーマを学生たち自身に考えさせた。そうして始まったのが、女性が手に職をつけ、現金収入を得ることを目指すプロジェクトだ。

 初めの3年間は業務用ミシンを使った洋裁に取り組んだ。反響は大きかったが、「より学生が関われる取り組みにしたい」という思いから、その後調理や菓子作りなどに変更した。タロイモコロッケなど新たなメニューも開発した。

 参加者からは、協力隊への応募者や生徒の海外派遣プログラムを企画する高校教師も出て、サモアでまかれた種が次世代にもつながっている。

活動の舞台裏

カカオ・ココサモア・チョコレート
スリランカの仏教徒

ココサモアを飲むため、カカオを炒る

 サモアの特産の一つに、カカオがある。あるとき、カカオ畑で蚊の採集をしていた一盛さんは「おなかがすいた」とつぶやいた。地元の少年が採ってくれたのがカカオ。熟れる前のカカオは、種が甘いゼラチン質に覆われている。

 カカオの種を干して炒り、石でたたいてペースト状にし、コンロにかけたやかんに、砂糖と共に入れて煮詰めるのが、サモア流のココア、ココサモアだ。ペーストを固化させたものも売られている。

 ラグビーW杯日本大会の折、サモア代表チームから「ココサモアを飲みたいからお湯を持ってきて」と依頼があったとき、ほかのスタッフは日本で一般的な粉末のココアとお湯の用意を考えた。現地で活動した土屋さんだけが、固形のココサモアを加熱しながら溶かすためのやかんとコンロが必要だとわかった。信頼が高まったのは、言うまでもない。

 このカカオはチョコレートとしても輸出され、日本でも販売されている。「爽やかな酸味と程よい苦味」と高評価だという。

Text=三澤一孔 写真提供=才田春夫さん、一盛和世さん、土屋雅人さん

知られざるストーリー