世界最大数の約200万人の日系人が暮らすブラジル。
移住を縁に長く太い絆で結ばれています。
※2021年6月9日現在
出典:外務省ホームページ
※2022年1月末現在
出典:国際協力機構(JICA)
ブラジルにおける、日本にルーツを持つ日系人の数は現在約200万人とされる。JICA横浜・海外移住資料館担当職員でブラジル生まれの日系三世、松阪健児さんに、ブラジル移住と日系社会の歴史について、お話を聞かせていただいた。
PROFILE
JICA横浜 総務課 専門嘱託(海外移住資料館担当)。ブラジル・サンパウロ州生まれの日系三世。ポルトガル語で生活する日系人が多いなか、日本語に囲まれて暮らし、大学進学以降は日常生活で使うのはほぼ日本語だったという。日系人が設立したサンパウロ人文科学研究所で10年間、勤務したのち、2018年に来日。
サンパウロにある「世界最大の日本人街」、リベルダージ地区には鳥居や日本風の街灯もある(写真提供:久野真一/JICA、2011年)
日本人の海外への集団移住は1868年のハワイ渡航から始まり、ハワイやアメリカ本土への移住が続いた。サンパウロ人文科学研究所によれば、背景には、明治以降の近代化による急激な人口増加と経済混乱による農村の荒廃があった。北米などで東洋人の移住への反発が強まるなか、1908年6月18日、ブラジルへの最初の集団移住者781人が、「笠戸丸」からサントス港に降り立った。
15世紀末にポルトガル領になったブラジルには、イタリアやドイツからの移住者も多かった。しかしコーヒー農園での労働の過酷さに加えて欧州の工業化などで移住者は減少。ブラジルは、日本人が移住して農業に従事することを歓迎した。一方で、「逃亡を防ぐため、家族での渡航を奨励した」と松阪健児さんは話す。
1920年代の経済危機を受け、日本政府も渡航費を負担するなど移住を奨励、移住者は急増した。すると今度はブラジルでナショナリズムが高まり、「日本語学校は禁止され、日本人が集まることが制限された」(松阪さん)。第2次世界大戦が始まると両国は国交を断絶、「少数ながら、強制収容所に入れられた移住者もいた」。
戦後、日系社会では、「日本は戦争に負けていない」と考える「勝ち組」と、敗戦を認める「負け組」が対立、暗殺事件にまで発展した。松阪さんは「勝ち組には、やがて日本に帰ろうと考えていた人が多かったが、財を成すことができなかった人も多かった。負け組には、ポルトガル語も覚えて現地に溶け込んでいた人や、指導的な立場に就いている人も多かった」と話す。わだかまりは長く残った。
1908年6月18日、日本からの初の集団移住者を乗せてサンパウロに程近いサントス港に着いた「笠戸丸」。この日は、日本、ブラジル両国で記念日となっている(写真提供:国立国会図書館デジタルコレクション「ブラジルに於ける日本人発展史 上巻」)
1952年、日本からの移住が再開され、満州(中国東北部)などからの引き揚げ者が多数、ブラジルに入った。63年には海外移住事業団が設立された(JICAの前身機関の一つ)。この頃からブラジルで工業化が始まり、日系社会でも、「高収入を目指し、都市部の医療系や技術系の大学に進む人が増えた」(松阪さん)。
高度成長期になると、日本からブラジルへの移住者は減り、逆に日本国籍を持つ移住者の帰国や出稼ぎが多くなった。90年に日系二世や三世、その配偶者の日本国内での定住や就労が認められ、「デカセギ」はさらに増加。日本政府によるブラジルへの集団移住事業は93年に終了し、2005年には、集団移住でブラジルに渡った総数を、日本に渡った日系人の総数が上回るようになった。
Text=三澤一孔