派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[ブラジル]

日系の人々に「寄り添う力」

ブラジルへのボランティア派遣は、日系社会のみ。「ブラジルのなかの日本」で活動した4人のOVに、活動と胸に残る思いを聞いた。

宮澤之祐さん
宮澤之祐さん
日系JV/企画・編集・広報/1998年度・京都府出身

PROFILE

京都府内で中学校教諭(社会)を3年間務めたのち、神戸新聞社入社。社会部記者として、在日コリアンや戦争の問題、阪神・淡路大震災などを取材。休職してボランティアに参加した。復職後、記者として活動を続けるが、京都府の教員採用試験を受け、再び中学校教諭に。部活動では野球部の部長も務める。

水野晴佳さん
水野晴佳さん
日系JV/青少年活動/2018年度3次隊・宮城県出身

PROFILE

JICA横浜 総務課 専門嘱託(海外移住資料館担当)。小学校時代、JICAの仕事をしていた父を訪ね、中南米へ。優しい人たちが厳しい生活を送っていることに衝撃を受ける。大学卒業後、中高一貫校で11年間、指導。「生徒たちに夢に挑戦することを話すには、まず自分から」と、ボランティアに応募した。

伊牟田浩子さん
伊牟田浩子さん
日系SV/高齢者介護/2016年度1次隊・神奈川県出身

PROFILE

通所介護(デイサービス)勤務後、介護支援専門員(ケアマネージャー)として、居宅で暮らす高齢者が介護保険を利用するときに必要なケアプラン作成に従事。2014年、社会福祉振興・試験センター主催のスウェーデン現地研修に参加。福祉先進国派遣と日本での介護経験を生かしたいとボランティアへ応募。

蓑輪敏泰さん

写真提供:久野真一/JICA

蓑輪敏泰さん
日系SV/文化(和太鼓指導)/2007年度、2011年度、2014年度・宮崎県出身

PROFILE

東京でサラリーマン生活を送ったのち、帰郷。塾経営、中学校講師、農業を続けるかたわら、町おこしの一環として立ち上げた和太鼓チームを指導。チームの青年らとともに台湾やシンガポールで和太鼓を演奏したところ、外国人が興味をもつことに手応えを感じ、海外での和太鼓の普及・指導の道へ。

若い三世にどう接するか   日本語教師の悩みもサポート

宮澤さんが在任中に創刊したブラジリア日本語普及協会の協会誌「ブラジリア 実践!日本語教育」

宮澤さんが在任中に創刊したブラジリア日本語普及協会の協会誌「ブラジリア 実践!日本語教育」。当初は日本語のみで、両面コピーで制作。現在は日本語とポルトガル語が半々、カラー印刷で発行が続いている(宮澤さん提供)

   サンパウロ人文科学研究所の1988年の調査によれば、推計されるブラジルの日系人口は128万人で、うち一世が13%、二世が31%、三世が41%、四世が13%だった。世代別の混血割合は二世が6%、三世が42%、四世が62%だった。現在は、日系六世もいるが、「自分を日系人と認識していない人もいる」(松阪さん)ということもあり、近年は、同様の調査はない。

   JICAによるボランティア派遣のルーツは、移住に関心を持つ青年を3年間派遣する海外開発青年事業だった。90年には移住シニア専門家事業が開始され、96年には両事業を前身として、日系社会青年ボランティア事業と日系社会・シニアボランティア事業が始まった。当初のボランティア活動の中心は日本語教育。しかし、現場で活動する隊員たちは戸惑っていた。

   ブラジルの学校は半日授業で、そのあと、日本語学校に生徒が来る。生徒のほとんどが普段ポルトガル語で生活している日系三世で、祖父母が日本語習得を望んでも、本人の意思ではないこともあった。「派遣された日本語教師は、欧米人に日本語を教えたことはあっても、子どもに教えたことや、日本で日系人と接した経験はほとんどない人が多かった。そのため日本語を学ぶ意味がわからない子どもにどう接したらいいかと悩んでいるようでした」と話すのは、宮澤之祐さん。99年、日本語教育の支援や広報活動のため、ブラジリア日本語普及協会に派遣されていた。

   日本で中学校教諭を経験し、新聞社を休職して協力隊に参加した宮澤さんは、経験を生かし、任地で発刊した協会機関誌「ブラジリア 実践 日本語教育」で、「叱り方」や「学習の動機づけ」を取り上げた。日系社会の日本語教師のうまくいった活動や、悩みを紹介するルポを書き、一世や二世の日本語教師たちの作文指導もした。

日本語学校でのかるたを使った日本語学習

日本語学校でのかるたを使った日本語学習。混血の生徒も増えていた=2000年ごろ(宮澤さん提供)

「移住した欧米人はまず教会を造ったが、日本人は最初に学校を造った。教育熱心だったのは、ブラジルで成功してから帰国して、故郷に錦を飾る日のためと聞きました」(宮澤さん)

   その後も隊員たちの派遣は続いているものの、時代が下ると共に、ブラジルの日系人が日本語を学ぶ意義やメリットはさらに見えにくくなっている。

しかしその一方で、非日系人も含めて「日本文化に関心のある人に、日本文化とともに日本語を教える」というニーズが生まれている。

   2018年にサンパウロ州西部のリンス市に青少年活動隊員として派遣された水野晴佳さんは、同地の日本人会館を拠点に日本文化や日本語を教えた。

日本文化の授業で切り花に取り組む受講生たち

日本文化の授業で切り花に取り組む受講生たち(水野さん提供)

   リンス市は日本人移民がつくった町で、日系人が多い地域にある。そのため、日本語学校には日系人の生徒が通っていると思っていたが、赴任してみると、クラスの半分は、日本の文化に関心を持つ非日系のブラジル人で、非日系人の彼らのほうが学習意欲も高かった。クラスは月曜日から土曜日まで、連日、朝、昼、夜と開講。生徒は週に2回受講していて、1回は日本文化、もう1回は日本語を教えた。

「日本文化の授業で一番盛り上がったのは、人気アニメ『鬼滅の刃』に絡めて〝武士道〟を紹介した回です。日系人にも非日系人にも、同伴で来ていた大人にも好評でした」(水野さん)

日本語が通じるなかで老後を過ごす喜びを

   地域性を加味する必要はあるが、水野さんの例でもわかるように、時代と共にブラジル日系社会の日本語のニーズが変わり、協力隊員への要請にも変化が起きている。

   近年増えているのが、福祉分野のボランティアだ。一世、二世の高齢化に伴い、日本人の介護士やソーシャルワーカーなどの要請だ。

移民歴史資料館で古い道具を懐かしそうに見つめるお年寄りたち

移民歴史資料館で古い道具を懐かしそうに見つめるお年寄りたち(伊牟田さん提供)

   高齢者介護職種で赴任した伊牟田浩子さんは、16年からサンパウロ州スザノ市の養護老人ホームで活動した。初めてホームを訪れたときの印象を伊牟田さんは「昭和の日本にタイムスリップしたような懐かしい雰囲気がした」と話す。

   入居者は約35人で、8割が女性。90代の一世が多く、100歳を迎えた人もいた。ホーム長からは「活動はゆっくり始めたらいい」と言われたが、入居者たちが「ボランティアが来た!」と集まってきた。

   一世たちは移住後もほとんど日本語のなかで生きてきたが、ホームの職員の多くは非日系のブラジル人だ。「『寒い』などの日本語は理解できますが、複雑なことはわかりません。お年寄りも『これがほしい』『これをやって』くらいのポルトガル語は使えますが、なぜ、どうしてといった説明まではできません。だから日本語が話せる介護者の存在を待ちわびていたのだと思います」(伊牟田さん)。

   お年寄りのなかには、認知症の症状が見られる人もいる。「物がなくなった」と思い込んでも、実は初めからなかったり、自分でしまい込んでいたりということもある。そんなとき、日本語がわかる伊牟田さんなら、「どうしたの?」と声を掛け、話を聞き、「明日また一緒に捜そうね」と納得してもらうことができる。

老人ホームでお年寄りと一緒に活動する伊牟田さん

老人ホームでお年寄りと一緒に活動する伊牟田さん(伊牟田さん提供)

「介護では、その人の状態の背景に何があるのかを知ることが大切」と伊牟田さん。言葉が通じなければ、それは、なかなか難しい。

   ブラジルでは介護の仕組も確立していない。職員の多くは准看護師で、医療的な目で入居者を見ていた。伊牟田さんは「ここは、この人たちの家。私たちがおじゃましている立場」「自分のお父さんやお母さんを見るつもりで介護する」と心得を伝えたという。

   入居を嫌がっていたあるおばあさんは、来るなり、「あぁ、ここ、日本語通じる」と元気になった。地域の日系社会のカラオケ大会に利用者みんなで出場し、1曲ずつ歌ったことがあった。何の曲を歌うか、どんな服を着て歌うかの相談も盛り上がったそうだ。

和太鼓指導のため7年半かけブラジル各地へ

   協力隊への要請のなかには、野球や剣道、相撲といったスポーツのほか、和太鼓のような伝統文化もある。

   蓑輪敏泰さんが和太鼓指導のため、日系社会シニアボランティアとして初めてブラジル太鼓協会に着任したのは、2007年。赴任して最初に取り掛かった大きな仕事は、日本人の集団移住から100年の節目となる08年の記念の祭典で披露する「千人太鼓」の指導だった。

ブラジルで和太鼓を指導する蓑輪さん

ブラジルで和太鼓を指導する蓑輪さん(右から2人目)(写真提供:久野真一/JICA)

   ブラジルで最初の和太鼓チームができてから10年もたっていない時期だったが、和太鼓の人気は日系社会に広がっていた。式典での千人太鼓への参加を希望したのは、約70チーム・約1200人にも上ったという。チームは日本の20倍以上の広さがあるブラジル各地にちらばっていたため、蓑輪さんは協会の役員に「1カ所に複数のチームを集めてください。そこに指導に行きます」と伝えた。場所によっては一度に200人以上が集まることもあった。各チームのリーダーに「私は全体を見るので、自分のチームでうまく打てない人を見つけて指導してください」と指示し、やり切ったという。

   その後も蓑輪さんは和太鼓チームの青少年に指導を重ね、活動期間は実に7年半に及んだ。ノリのいいサンバのテンポに流れがちなため、テンポをそろえるため、目をつぶって60数えることも取り入れた。

「和太鼓の普及のため、指導の要請があれば、どこへでも行きました」(蓑輪さん)。意欲を高めるため、交通費や宿泊費は原則、指導を受けるチームの負担とした。負担を抑えようと、1000キロ以内であれば移動はバス。16時間をかけて移動したこともある。総移動距離は日本との行き来を除けば40万キロ以上、地球と月との距離を超えた。教えた若者や子どもは3000人以上だったという。16年には、ブラジル代表として「第18回日本太鼓ジュニアコンクール」(公益財団法人日本太鼓財団が日本太鼓の後継者育成を図るために毎年日本国内で開催)に出場したチームが3位に入賞し、ルーツの国に錦を飾った。

開発途上国の支援と異なる   日系隊員ならではの役割

   ブラジル日系社会のボランティアの活動は何を残し、何につながっているのか。それぞれの思いを聞いた。

   蓑輪さんが和太鼓の指導と共に重視したのが、「和の心」。挨拶などの礼儀や、使った道具の片づけなどの指示を徹底した。対して若者たち、特に非日系のブラジル人ははじめ戸惑ったという。ブラジルでは学校で生徒が掃除をする習慣もなかったためだ。しかし、苦情が寄せられるようなことはなく、挨拶や片づけの習慣がだんだんと広がっていった。「和太鼓指導より、こっちのほうが仕事だったかもしれません」と蓑輪さんは笑う。

   水野さんと伊牟田さんは「日系社会ボランティアは途上国支援とは少し違う」という。それは「日系人の心に寄り添う支援」と同じ思いを口にする。

   伊牟田さんには、忘れられない光景がある。外出レクリエーションで移民歴史資料館に行ったときのことだ。お年寄りたちは、旧式のはかりやミシンを見て、「これ、うちにあった」「お姉ちゃんがお嫁に行くとき、持ってった」などと目を輝かせ、記憶をたどる会話が続いた。「ここで日本と同じように暮らそうとした人たちがいた。それがここにいるおばあさん、おじいさんたちなんだ」と心から思ったという。

   帰国時、伊牟田さんは持ち運べるサイズの「日本語会話集」を作り、ブラジルの養護老人ホームに勤める非日系人の職員らに贈った。「一世の高齢者が何を言っているのかを理解してあげてほしい」との願いを込めて。

   日本での活動に変化があった隊員もいる。宮澤さんは帰国後、新聞社に復職したが、その後再び中学校教諭になった。授業を通じて、生徒たちに日本で暮らす外国人にも、外国で暮らす日本人にも目を向けてほしいとの思いもあった。地域にブラジル人はほとんどいないが、朝鮮・韓国にルーツを持つ人たちが暮らしている。

「在日コリアンの人たちは、自分たちのルーツを大切にしながら、日本語を話し、日本社会で生活している。それはブラジル社会の一員として暮らす日系人と同じだと感じます。隊員としてブラジルの日系社会を見てきたからこそ、異なる文化の橋渡しをしていきたいと思います」

活動の舞台裏

東日本大震災の被災者を思って
水野さんは折り鶴をプレゼントした

2020年の3月11日に合わせ、激励のメッセージを書いてくれた人に、水野さんは折り鶴をプレゼントした(水野さん提供)

   2011年3月11日、東日本大震災が起きた際は、サンパウロ州西部のリンス市からも義援金が日本に送られた。

水野晴佳さんがリンスに赴任したのは震災から8年が過ぎた2019年1月だったが、赴任2年目の2020年の3・11が近づいたとき、日本語学校の先生たちから声を掛けられた。

「学校で震災のことを話してほしい」
「その後、どうなったのか知りたい」

   水野さんは、震災の被害の大きかった宮城県の出身ではあるものの、津波に遭ったわけではない。そのため、自分には震災について話す資格がないのではとの思いがあったが、声に押されて話をした。

   大勢の人が亡くなったこと、しかし世界中から多くの支援で学校なども再建されたこと、月日と共に日本国内でも震災を忘れている人が増えていること…。

   聞いていた人たちからは「絶対に忘れることなんてない」と声が上がり、津波の映像を見て涙を流す人もいた。多くの市民が「皆さんのことを忘れない」「平和が訪れますように」と被災地に向け、メッセージをつづった。

   メッセージは水野さんの帰国後、同県七ヶ浜町の「七ヶ浜国際村」で展示・紹介された。

活動の舞台裏

「千人太鼓」にもにじむ   皇室・皇族への深い敬愛
約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓

約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓=2008年 (写真提供:久野真一/JICA)

   ブラジル日系社会の日本の皇室・皇族への敬愛ぶりには、非常に深いものがある。年頭に邦字紙は、宮内庁提供の天皇家の写真と共に、「新年に皇室の弥栄を祈る!」の記事を載せるのが慣例。天皇誕生日には、日系団体による祝賀会も行われ、日本大使館は日系社会に向けた祝賀会の動画を制作・配信する。

   皇族のブラジル来訪も多く、「千人太鼓」が披露された2008年の移住100周年の祭典には、皇太子殿下(当時。現在の天皇陛下)が臨席された。
しかし、皇室・皇族への思いは、和太鼓指導で派遣されていた蓑輪敏泰さんの悩みを深くすることにもなった。

   千人太鼓では、約1200人が太鼓を打つ。長細いステージを15の区画に分けて、参加者の配置を考えた。

「自分の子どもは皇太子殿下のお近くで演奏させたい」「何千キロも移動してサンパウロに来るのに、中央から離れた場所では皇太子殿下の目にも留まらない」などの声が上がり、調整に苦慮したという。

Text=三澤一孔 Photo=ホシカワミナコ(本誌 水野さんプロフィール)

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