派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[ザンビア]

生活基盤を整える一助に

畜産振興の底上げにつながった「獣医」と、警察官育成の目的から国民的スポーツにまで広がった「柔道」。尽力した4人のOVを紹介する。

奥村正裕さん
奥村正裕さん
獣医師・1990年度1次隊・大阪府出身

PROFILE

北海道大学大学院獣医学研究院教授。同大学在学中にザンビアでの獣医学教育設立を支援する活動に関心を持ち、大学院を休学して協力隊に参加、復学。1993年より北海道大学に勤務。2012年に北海道大学ザンビア事務所長に就任。21年よりJICA「ザンビア大学獣医学部臨床教育強化プロジェクト」チーフアドバイザー。

兼子千穂さん
兼子千穂さん
獣医・衛生/2011年度1次隊・福島県出身

PROFILE

アフリカの動物や自然への憧れと共に国際協力に貢献したいという動機から、酪農学園大学卒業後、岩手県内の家畜診療所勤務を経て協力隊へ。帰国後は北海道大学大学院(北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター)でのザンビアにおける効果的な犬のワクチン接種を通した狂犬病制御のための調査・研究を経て、2017年より宮崎大学に勤務。現在、同大学産業動物防疫リサーチセンター助教。

松下文治さん
松下文治さん
柔道・1969年度3次隊・愛媛県出身

PROFILE

順天堂大学体育学部卒業後、協力隊に参加。任期後は3年間イギリスに留学し、56カ国を巡って帰国。英語や柔道の塾を経営する傍ら、1983年「郷土愛媛と国際社会を考える会」を設立。2001年に外務大臣表彰、09年にポーランド政府から大統領功労勲章。15年より順天堂大学国際教養学部客員教授。

仲元歩美さん
仲元歩美さん
柔道・2010年度1次隊・大分県出身

PROFILE

中学のときに柔道を始め、就職した航空自衛隊まで打ち込む。大学在学中に留学した中国で、海外で行う柔道の面白さに目覚め、協力隊へ。2018年からパーソナルトレーニングとハワイアンロミロミ(マッサージ)、視覚障害者や健常者へ柔道の指導を行う株式会社KALORを経営。パラリンピック柔道の日本代表選手を指導。

安全な家畜生産のため獣医学部がスタート

ザンビア大学獣医学部での手術研修の様子

奥村さんの活動から、ザンビア大学獣医学部での手術研修の様子(写真提供=奥村正裕さん)

「ザンビア人によるザンビア人のための獣医学部をつくる」という壮大なプロジェクトが始まったのは1983年のことだ。

   ザンビアは独立後、食料自給と輸出促進のための農業開発に重点を置き、特に畜産分野に力を入れようとした。

   しかし、日本の2倍もある広大な国土に対して獣医師は20人ほどしかいなかった。家畜の病気が蔓延し、生産性は低く、食の安全も確保されず、輸出などできる状況ではない。ほかの旧英領と同様に現地の人がその国で獣医師となる教育を受けられなかったため、ザンビア政府は、獣医師を養成する学部の設立支援を日本政府に要請した。

   日本の無償資金協力でザンビア大学内に獣医学部の新校舎が建設されると、85年から北海道大学(以下、北大)獣医学部が中心となって13年にわたる技術協力を行った。専門家と協力隊員合わせて100人以上が派遣されると共に、獣医学部を卒業したザンビア人が日本に留学できるよう取り組んだ。

   90年に獣医師隊員として赴任した奥村正裕さんは、「教科書でしか見たことのない病気のオンパレードでした。日本では見つけたら厳格に制御することが法で定められている伝染病で死んだ動物が運ばれてきて解剖する日々。屠畜場では罹患した食肉が出荷されようとしていましたし、屠畜場を通らない食肉の流通も当たり前でした」と当時の様子を振り返る。

   ザンビア人教官がいないため、専門家が教官となり、将来の獣医学教育の担い手(教員)となる学生に講義をし、奥村さんら隊員は実習などを通じて、学生や実習補助を行う技官の技能を向上させた。

   奥村さんのカウンターパートは、実習を補助する技官たちだった。植民地時代からイギリス人獣医師の下で働き、奥村さんより年上が多かったが、新卒の奥村さんを快く受け入れてくれた。当時、ザンビアの経済状況はとても厳しかった。給料の低い技官は、物不足で入手しづらいものの値段の安い砂糖を飲み物に入れてお昼替わりにし、空腹をしのいだ。「力をつけないと午後の解剖で体が持ちません。解剖を事故なく終わらせるために、お昼を食べによく学生食堂に連れていきました」。

   一方で、モノもお金もない厳しい状況のなかでも、学生の意欲と使命感の強さに奥村さんは心を打たれた。あるとき、専門家に代わって講義をすると、一人の学生が「もっと知りたい。もっともっと教えてくれ」と言ってきた。

   「自分が教えたことが伝わって嬉しいのと同時に、彼が『これから自分たちが新しい大学をつくっていく、自分たちがこの社会をなんとかしなければいけない』という強い思いを持って勉強していることを感じました」

   学生と協力隊員は年齢も近く、学校外でも時間を共にし、励まし合った。

   ゼロから始まったザンビア大学獣医学部は、卒業生が教授・講師となり、獣医師を自ら輩出できるようになった。これまでに卒業した500人以上のザンビア人獣医師は、政府をはじめ農業・畜産、自然・環境分野で活躍するようになり、同獣医学部はアフリカ有数の獣医学部として高く評価されている。「もっと知りたい」と奥村さんに食らいついてきた学生は学部長になった。

   プロジェクト終了後も獣医学部同士の交流は続き、共同研究はもちろん、北大は現地事務所をザンビア大学内に置くまでになった。いま、北大教授となった奥村さんは北大の現地事務所長を務めている。「ザンビア大は対等な立場に成長し、今では北大の日本人学生を教育してくれるまでになりました。長年の教育協力の醍醐味を感じます」。

畜産業従事者へ実践的に指導

実習で乳牛用の固形飼料の作製を教える兼子さん

実習で乳牛用の固形飼料の作製を教える兼子さん(写真提供=兼子千穂さん)

   より畜産現場に近いところで獣医学を教えた隊員もいる。2011年から活動した兼子千穂さんもその一人だ。畜産が国内で最も盛んな南部州のモンゼにある農業大学校で、家畜の疾病や治療・予防法、家畜福祉などの講義を担当した。

   実践的な知識と技術を求めて集まるのは、高校を卒業したばかりの人から、働いて学費をためてきた人、勤務先に学費を援助してもらっている人までさまざまだった。「私よりずっと年上の生徒も珍しくなく、教室に60人ぐらいがぎっしり入って学んでいました」。

   協力隊に参加する前は、産業動物の獣医師として畜産農家の動物の健康状態を診て回る仕事をしていた兼子さんは、ザンビアで初めて教壇に立った。校内は停電が頻繁に起こるため、講義にパワーポイントを使うことができず、毎回板書だった。さらに、切り詰めた生活で教科書を買えない生徒が多いため、講義ごと内容をまとめた資料も配布しなければならず、「英語で専門的な内容を説明することにも苦労し、いつも講義の準備に追われていました」。

   兼子さんは、家畜への注射の仕方、その際の家畜の押さえ方、薬の飲ませ方など、農場での実習も担当した。

「自分の限られた語彙力でより正確に伝えるために、画用紙に説明用のイラストを描いて持っていきました。学外の農場での住み込み実習から帰ってきた生徒たちに、『マダムに習った保定法や投薬法がとても役に立ったよ』と言われ、工夫してよかったなと思いました」。卒業生は今、地方の農業局や大小さまざまな農場などで働いている。

「ザンビアでは食の安全が大きく進みました」と奥村さんは30年余りの変化を評価し解説する。「家畜の疾病管理に加え、畜産物の物流も国際化され、ザンビア生産の牛肉が『ザンビーフ』のブランドで10カ国以上に輸出されています。柔らかくておいしく、日本人も安心して食べられるお肉です」。

柔道が国民的スポーツに広がった理由

警察学校の授業風景

警察学校の授業風景 ※松下さん著書『ムリバンジ!太陽の国-730日の青春』(三友社出版)より

   1970年4月、ザンビアに初代柔道隊員が渡った。配属先は警察官養成学校。前出のザンビア事務所長の徳橋さんによると、「独立当時、ザンビアは財政的に苦しく、警察官全員に拳銃などの武器を持たせることができず、それに代わるものとして導入されたのが日本の柔道でした。いかにも平和を愛するザンビアの人たちのアイデアだと思います」。

   その一人、松下文治さんは、大学時代柔道部で主将を務め、恩師から「自他共栄(※1)の精神で海外で柔道を教え世界の平和に貢献しなさい」と説かれ、新卒で協力隊に参加した。ほかの5人は警察官の現職参加だった。

「一人として正座ができない。上半身は筋肉が発達していて100キロぐらいのバーベルでも軽々と持ち上げるし、脚力が素晴らしく、ジャンプすると驚くほど高く跳び上がる。でも、関節が信じられないほど硬い。これでは危険で受け身さえ教えられないと感じました」と、松下さんは警察学校の道場で初めて生徒たちと向き合った印象を語る。

   隊員たちは、生徒たちに手足の爪切りや道着の着方などの身だしなみ、礼儀作法、柔軟体操から始め、技を根気強く教えていった。

「受け身に失敗して目を回しても、悪びれずニコニコ笑いだすおおらかで憎めない生徒たちが多かった。高い身体能力を生かして、一生懸命、練習してくれました」

   赴任して迎えた最初の卒業式では、隊員と卒業生による柔道のデモンストレーションを求められた。成功すると、カウンダ大統領をはじめ3万人の国民が集まる独立記念式典でも演武することになった。柔道を初めて目にした観衆は隊員たちの演武に魅了され、技のたびに大歓声が起きた。

   大統領も感激し、隊員たちに握手を求めてくると、「我々の国に来てくれたことを非常に喜んでいる。肌の色は違っても、日本とザンビアは兄弟だ」と感謝の意を表した。この様子はザンビア国内で大きく報道され、柔道が一般の人に知られるきっかけとなった。

   警察学校にはイギリス製のマット畳があったものの、地方の機動隊訓練所に畳はなかった。隊員たちは、コンクリートの地面の上におがくずを敷き詰め、ドラム缶で押し固めた上にキャンバス地を張って畳代わりにするなど、工夫を重ねた。

柔道を楽しみ   世界を広げていく子どもたち

南部アフリカ大会でメダルを獲得して喜ぶ教え子たちと仲元さん(写真提供=仲元歩美さん)

南部アフリカ大会でメダルを獲得して喜ぶ教え子たちと仲元さん(写真提供=仲元歩美さん)

   それから40年、隊員たちによって柔道はザンビア各地に普及していく。男子のオリンピック選手が育ち、子どもや女性も行うスポーツとなり、競技人口は約3000人まで増えた。

   仲元歩美さんは、2010年、地方にあるムルングシ大学で3代目の柔道隊員として派遣された。

「想像していたよりも日本の伝統的な柔道がきちんと行われていて、協力隊の先輩方が基礎からしっかりと指導していたことを実感しました」と振り返る。

   仲元さんは地方にあるムルングシ大学のクラブと女子代表チームを指導した。12年に南部アフリカ12カ国が参加してザンビアで開かれた国際スポーツ大会では、代表チームの教え子が金メダルを5つ取った。

   そうした成果も嬉しい出来事だったが、仲元さんの印象に残っているのは、貧しくとも柔道を楽しみながら成長していく子どもたちの姿だという。

「大学クラブには小学生から40代までが入っていて、大学が予算を出していたため貧しい家庭の子どもでも通えました。遠征試合のメンバーに選ばれれば、都会に連れて行ってもらえて、ご飯も食べさせてもらえます。同じクラブから代表チームに選ばれる選手も多くいたため、柔道を頑張ることで夢や世界が広がることを知り、より豊かな生活を送ることができると、柔道を習うことを楽しみに通ってくれました」

   仲元さんの下で柔道を始めて2年で国際大会に出るまでに急成長した少年は、大人の月収に当たるほどの賞金を得て、「お母さんにシマ(※2)を買ってあげる」と喜んだ。保守的で男女格差が残り、スポーツをすること、ましてや格闘技に打ち込む女性の少ない地方部ながら、のちにザンビアで初めて世界選手権に出場する女子選手も育った。

「子どもたちが勉強や家の手伝いと両立させながら柔道を続ける方法や、一人ひとりを強くするための身体の使い方や練習法について真剣に考えました。ザンビアでの体験は私に指導者の道に進む力を授けてくれました」

   帰国後、仲元さんは、ザンビアでの経験を買われ、視覚障害者柔道の日本代表選手のコーチを務めるようになり、現在は2024年パリパラリンピック出場を目指す日本の選手たちを指導している。そして、パリのあとは、ザンビアで初のオリンピック女子選手の育成に携わりたいと考えている。

   初代柔道隊員の松下さんは帰国後もアフリカを中心に柔道を広めながらザンビアとの交流を続けた。ザンビアにまかれた柔道の種は、各地で芽吹き、さまざまな花を咲かせようとしている。

※1「自他共栄」…相手を敬い、感謝をすることで信頼し合い、助け合う心を育み、他人と共に栄えある世の中にしようとすること。柔道創設者・嘉納治五郎が講道館を創設した際に、掲げた理念の一つ。
※2シマ…ザンビアの主食で、製粉したメイズ粉(白トウモロコシの粉)をお湯で練って作るもの。

活動の舞台裏①

「本当にモノがなかった」
約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓 約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓

2022年のルサカの街並み(写真提供=塚越貴子さん)

   2020年、隊員時代から30年ぶりにザンビアに赴任した徳橋さんは、首都ルサカの発展ぶりに驚いたという。「南アフリカ資本のショッピングモールができ、買い物に不自由しません。人口が3倍以上に増え交通渋滞が起きるほど。子どもたちは、はだしが当たり前だったのに今はほとんど見かけません」。

   1980年代から90年代、銅の国際価格下落を原因にザンビア経済は低迷。さらに反アパルトヘイト政策により南アフリカ共和国からの輸入も制限され、生活物資の確保にも苦労したからだ。

「せっけんや砂糖をはじめ国営スーパーの棚には商品がない。パンが入荷したと聞いたら職場を抜け出して買いに行った。免税店で塩やせっけんを買っていた」(徳橋さん)。「大けがをして南アまで治療を受けに行くことになったときには、ほかの隊員からたくさんの買い物を頼まれた」(奥村さん)というほど。

   その後、銅価格の上昇、アパルトヘイト撤廃以降の南ア企業の投資拡大などで20世紀に入ってから2010年代の半ばまでザンビアは高度成長を実現しルサカも発展していく。

活動の舞台裏②

「ヒーロー」として教科書に載った協力隊員
約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓

カウンダ元大統領との一枚(2003年に撮影)

約1200人が勇壮に演奏した移住100周年記念の千人太鼓

バヌアツで小学校を訪問し、柔道の講義をする松下さん(2019年に撮影)(上下写真提供=松下文治さん)

「マイ・ブラザー、ブンジ」と呼び懇意にしてくれたカウンダ大統領をはじめ、温かく受け入れてくれたザンビアの人たち。濃密な隊員生活は、松下さんの目をより世界へと向けさせた。任期終了後、松下さんはイギリスへの語学留学を経て、地元・松山市で国際交流事業を行うようになる。

「郷土愛媛と国際社会を考える会」を設立すると、松山市の子どもたちに英語や柔道、芸術や日本文化も指導、留学生と一緒に学ぶサマーキャンプや子どもたちの海外派遣を行ってきた。また、愛媛県に来た留学生を国籍や分野を問わず支援。もちろん柔道を学びに来た若者もいる。彼らのなかから、ロンドン五輪の男子ザンビア代表やモザンビークでの指導者が生まれた。

   ザンビアとの交流も続け、2000年には現地に小学校を設立。留学時代に知り合った妻の母国・ポーランドの医療人材の育成支援も続ける。

   こうした活躍から、20年、小学5年の英語教科書(開隆堂出版)に歴史上の人物・西郷隆盛らと共に「さまざまなジャンルのヒーローたち」の一人として紹介された。

Text&photo(松下さん顔写真)=工藤美和 写真提供(プロフィール)=奥村正裕さん、兼子千穂さん、仲元歩美さん

知られざるストーリー