派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[東ティモール]

新しい国づくりへ
平和構築から始まった支援

心の復興から産業復興や健康面の支援へ。東ティモールでの協力隊の活動の重点も変わった。
3人の経験者に取り組みと思いを聞いた。

矢加部 咲さん
矢加部 咲さん
写真/2011年度1次隊・熊本県出身

PROFILE

熊本市現代美術館で市民参加型のプロジェクトなどを担当後、アートと社会との関係に興味を持ち、協力隊へ。2014年から認定NPO法人「JHP・学校をつくる会」カンボジア・プノンペン事務所で、芸術教育支援事業に取り組む。2018年より所長。祖母の兄は第2次世界大戦中、ティモール島に駐留していた。

石山俊太郎さん
石山俊太郎さん
コミュニティ開発/2014年度2次隊・東京都出身

PROFILE

大学で経済学や会計、マーケティングを学んだのち、広告代理店に3年間勤務。「スペシャルティコーヒー」に魅了され、将来の起業を決意。経験を生かすと共に、コーヒー産地の状況を学ぶため、協力隊に参加した。2016年、コーヒー製造のBUCKLE COFFEEを設立。東ティモール産のコーヒーも扱う。

富田裕美さん
富田裕美さん
コンピュータ技術/2017年度2次隊・埼玉県出身

PROFILE

大学在学中の2012年、外務省の21世紀東アジア青少年大交流計画(JENESYSプログラム)で東ティモールを訪問。システムエンジニアとして勤務後、協力隊に参加した。現在は、(財)日本国際交流センターの同国駐在スタッフとして、行政官の日本留学を支援する「人材育成奨学計画」(JDS)を担当。

思いを表現する青少年向け写真講座

矢加部さんが担当した写真講座

矢加部さんが担当した写真講座で、子どもたちの写真を撮る受講生たち。当時はカメラに触れるのが初めてという人もいたという=2012年(矢加部さん提供)

   独立10年目の2011年、東ティモールへの長期隊員の派遣が始まった。占領や混乱の傷が懸念されていた時期でもあり、平和構築や青少年活動に取り組む東ティモールのNGO Ba Futuru(以下、バフトゥル)に複数の隊員が派遣された。その一人が写真職種の矢加部 咲さんだ。

   バフトゥルは、語学やアート、スポーツなどの活動を行うピースセンターを運営し、青少年に広く開放していた。矢加部さんは着任後、センターの活動の一つ、写真講座を担当した。回ごとに、人、子ども、スポーツなどとテーマを決め、デジタルカメラで自由に撮影し、撮影した写真を発表して、みんなで意見を言い合ったり、矢加部さんが講評したりした。参加者の多くは15~20歳。スマートフォンが普及する前で、初めてカメラに触る受講生もいた。時には写真に2~3分の音声をつけた作品を制作した。誰にインタビューをするかはグループで話し合って決めた。「海岸沿いで水やジュースを売っている男の子」「市場で働いている女の子」などが目立った。

   市場で働いていた13歳ほどと思われる女の子は、インタビューで、自分の学費を自分で稼いでいると話した。「どんなことをしたい?」との質問に、「勉強したい」「少しだけ遊びたい」と答えた。「ぐっとくるものがあった」と振り返る矢加部さんは「自分たちの抱えている問題を伝えたいという受講生の思いを感じた」という。

   半年後、今度は、地域コミュニティ向けのプロジェクトの一環として写真講座を担当することになった。対象は、過去に問題行動があるなど「将来的なリスク」を抱えた18~25歳の青少年。そうした青少年に「平和をつくりだす心」を持ってもらうのが狙いだった。写真の基礎を学んだあとで作品づくりに取り組み、半年後、地元コミュニティで行うピースフェスティバルで作品を発表するという計画だった。「最初は誰も笑わず、にらんでくる子もいた。ギャング団と接点のある子もいて、どんなことになるのかと不安でした」(矢加部さん)。しかし、講座を始めると印象はすぐに変わった。「みんな、すごくまっすぐでした」。

   写真を撮り、メッセージを書き込んでもらうと、思いがあふれた。ある受講生は、手の写真を撮り、小指に「過去」、中指に「現在」、突き立てた親指に「未来」の文字を重ね、「あなたの人生を前に動かそう」と記した。矢加部さんは「自分たちが国をつくっていくという思いを感じました」と話す。

   講座の途中で顔を出さなくなり、家庭訪問をして話し合ったあと、講座に戻った少年がいた。過去に問題行動などもあったその少年は、最後の発表会で涙ながらに、思いを語った。「今までお母さんにつらい思いをさせて、ごめんなさい」。

   講座を通じて、矢加部さんは、アートの意味を感じたという。「アートには自分を表現すること、自分を見直す効果、心に直接アプローチする効果があります。周りの人と話すきっかけにもなり、話し合いで問題を解決しようというメッセージになったと思います」。

女性生産者の馬力を引き出し収益アップ

   心の復興と共に、産業の復興・開発も欠かせない。主要産業の農業で、「イノベーション」を起こしたのが、女性を中心とする生産者グループを支援するNGO「CDC」に2014年に派遣された石山俊太郎さんだ。

バウカウ地方の市場

さまざまな野菜が並ぶバウカウ地方の市場=2015年(石山さん提供)

   CDCは、東ティモール第2の町、バウカウを拠点に、約15の生産者グループを支援、特産品の栽培や商品開発、販売をサポートしていた。着任早々、CDCの全スタッフが2週間出張に出てしまい、石山さん一人が取り残されるという予想外の事態に直面したが、この期間を使って、石山さんは全グループの報告書を通して読んだ。

   すると、ある疑問が浮かんできた。活動自体が止まっているところもあるように見えたのだ。実際に村を訪ねて生産者に話を聞くと、やはり活動を停止しているグループがあった。「成果が出ていないということは、生産者のためになっていないし、生産者のためを思ってNGOを支援したドナーの気持ちにも応えられていない」と石山さんは考えた。そして、CDCのスタッフがもっとしっかり状況をフォローし、生産者たちを支えていかなければならない、そのためには、スタッフも変わらなければならないと考え、指摘した。

   しかし、それは反発を招いた。地元出身で国立大学を卒業したスタッフは「来たばかりで地元のことを知らないおまえに何ができる」と口にした。そこで、石山さんが取ったアプローチが、「やってみせる」だった。石山さんは「1カ月間、どちらが多くピーナツを販売できるか勝負しよう」とスタッフに持ち掛けた。「負けたら自分は日本に帰る」と覚悟も伝えた。

   石山さんはバウカウ市内の小売店を回り、ピーナツを売ってくれるように話をした。結果は、石山さんが圧倒した。スタッフたちは、生産や販売について頭で分かっていても、商品を置いてくれるように実際に店と交渉した経験はほとんどなかった。

   売り上げが伸びなかった背景には、CDCのスタッフの問題のほかに、生産者グループの女性たちの基礎的なスキルの不足もあった。原材料や包装資材にかかっている費用より安い価格で卸す約束をしてしまうこともあった。集金を担当する人が計算できず、売上金が正しく回収できていないこともあった。独立前の混乱で、教育の機会を奪われたことによる影響と思われた。

   生産量を増やす余地も、販売量を増やす可能性も十分にあった。一つの試みとして、バウカウだけでも何十とある小売店で、小学生向けの菓子を売る戦略を立てた。「子どもたちは毎日、25~50セントを渡されて学校に行き、校内のキオスク(販売所)でインドネシア製のお菓子を買っていました。同じ価格帯の菓子を作って販売すれば、商品も売れ、お金は地域で循環すると考えました」(石山さん)。

美しい東ティモールの海

美しい東ティモールの海=2015年(石山さん提供)

   グループごとに、ピーナツに卵を絡めた「エッグピーナツ」や、トウモロコシが原料の「コーンクッキー」などの菓子を作って売ったところ、この戦略は成功した。グループによっては、1カ月に1~3ドルだった女性生産者たちの給料が10倍以上になったところもあり、女性たちは「お米が買える!」と喜んだ。生産量を増やし、首都の小売店に販売するグループも出てきた。

   邁進する石山さんを見て、距離を置いていた同僚からも石山さんと一緒に動く者が増えていった。活動がうまくいっていないグループについての情報や相談も寄せられるようになった。

命を支える医薬品倉庫で管理能力を引き上げる

各国から東ティモールに提供された多くの医薬品を一元的に管理し、各地の病院や保健所などに配布する保健省の機関「医薬・医療用品サービスセンター」(以下、SAMES)。その巨大倉庫の運営をコンピュータを使った在庫管理で支えるため、2017年10月に派遣されたのが、コンピュータ技術職種の富田裕美さんだ。

医薬品倉庫の整理を進める富田さんとSAMESスタッフ

医薬品倉庫の整理を進める富田さんとSAMESスタッフ(富田さん提供)

   SAMESでの在庫管理は機能していなかった。「配属先には在庫管理システムが導入されていましたが、省庁の方針によって突如システムが変更されたり、使用停止になったりすることもありました。管理が行き届かないために、消費期限が切れるなどして廃棄される医薬品もありました」と富田さんは振り返る。

   コンピュータを使うためのインターネット環境も整っておらず、時々停電も発生する状況。「このままでは、いつになっても管理は改善しない」と考えた富田さんは、コンピュータによる在庫管理を断念し、日本の「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)カイゼン」手法による管理を取り入れることにした。「5S・カイゼンには、取り巻く環境に左右されず、お金をかけず、誰でもできる、というメリットがあり、これこそが重要だと考えました」(富田さん)。

   大規模なSAMESの倉庫全体で、一気に整理整頓を進めるのは難しいと考えた富田さんは「まずは机の上から始めましょう」と声をかけて、片づけの意識付けから進めることにした。新たに立ち上げる地域事務所がうまく運営されるように、異動していく職員へのトレーニングに力を入れた。

次代を担う人材
刺激を受けて次々に

   富田さんの派遣中、配属先のSAMESの職員が、JICAが実施する日本での医療関係の研修に参加したことがあった。「職員は別人のようになって帰ってきました。カイゼンの取り組みに否定的だったのに、研修から帰国した後は、中心となって動いてくれるようになりました」。富田さんは「人を育てる支援は、その人も、その人の所属する組織も変える可能性があると実感した」と話す。

スタッフに説明する富田さん(中央)(富田さん提供)

スタッフに説明する富田さん(中央)(富田さん提供)

   石山さんは派遣中、農業学校でマーケティングについての講義もしていた。10~20代の受講者に毎回、「将来、何をやりたいか」を書いてもらっていたが、「九割九分、無回答。つまり将来が考えられない状態でした」。一方、石山さんが指導し、農作物の生産や商品販売で成功を味わった生産者グループの女性たちには大きな変化があった。「首都のディリに行って経験談を話してもらうと、実に堂々とプレゼンテーションをする。成功が非常に大きな自信になったのがわかりました」(石山さん)。

   矢加部さんの写真講座でメッセージ性の高い作品を発表していた元受講生から数年前に、矢加部さんにメッセージが届いた。「今は、新聞社に勤めています」。矢加部さんは「講座がすべてではなく、本人の努力が大きいのですが、表現することの意味を確信できました」と話す。

   3人が口をそろえることがある。それは東ティモールの人たちが支配された過去を語る際の淡々とした語り口だ。多くの場合、過去の話に怒りや恨みは感じられず、未来への前向きな思いが伝わってくるのだという。

活動の舞台裏①

祭りのごちそうはヤギ

   東ティモールのお祭りでは、牛や豚、ヤギを用意し、丸焼きにしたあと解体し、みんなで食べるのが習わしだ。コミュニティ開発で派遣された石山俊太郎さんは任地に入ってすぐ、この「儀式」に参加することになった。

   その日、多くの住民が集まり、女性たちを中心にご飯の用意が進められていた。石山さんも料理の手伝いを促され、回ってきた役目が、豚の下半身の運搬。まだ生温かい肉塊を恐る恐る運んでいると、住民たちから笑いが起きた。

祭りの準備でご飯を炊く女性

祭りの準備でご飯を炊く女性。欠かせないのが、牛や豚、ヤギなどの丸焼き=2014年(石山さん提供)

   地元ならではの祭りに加えてもらった経験から、石山さんは、ヤギを育てて売ることで収益を上げられるのでは、と考えた。「ヤギは年に2回、2~3頭出産します。雑草を食べるのでエサもいらず、約1年間で販売できるくらいに成長する。お祝いや送別会などでもヤギは人気で、贈り合う習慣もあるので、需要も見込めました」。

   試験的に飼育に取り組んだところ、最初は順調だったが、一度は伝染病で大きな被害が出てしまい、一度はつないでいたひもが外れ、隣のオーガニック栽培のトマトを食べてしまった。再起を期したいところだったが、残念ながら任期中には果たせなかった。上手くいっていれば、今ごろはヤギが、バウカウ地方の特産品になっていたかもしれない。

活動の舞台裏②

テトゥン語・インドネシア語・ポルトガル語

   東ティモールの言語を巡る状況は複雑だ。現在、多くの住民が使うのは地元の言葉で、公用語でもあるテトゥン語だが、学校授業はもう一つの公用語であるポルトガル語で行われている。しかし、年代によって使用する言語が異なり、インドネシアが侵攻していた時代はテトゥン語の使用が禁じられ、教育現場や役所などではインドネシア語が使われた。

東ティモールの子どもたち。日常生活ではテトゥン語を使うことが多いが、学校の授業はポルトガル語で行われている=2015年(石山さん提供)

東ティモールの子どもたち。日常生活ではテトゥン語を使うことが多いが、学校の授業はポルトガル語で行われている=2015年(石山さん提供)

   独立後の2011年、最初の長期派遣で活動した矢加部咲さんは、訓練所でインドネシア語を学び、テトゥン語は東ティモールに入ってから学んだ。現地でのテトゥン語の研修では、外国人講師から英語で学んだ。写真を教える生徒とのやりとりもテトゥン語だった。

   14年度派遣の石山俊太郎さんの場合も、訓練所でインドネシア語を学び、現地入りしてからテトゥン語を学んだ。しかし、石山さんは「赴任後、会話する人の多くは30代以上だから、インドネシア語が通じるはず」とテトゥン語の学習に時間を割くのはやめにしたという。「実際、住民が15~20人集まっても、インドネシア語が通じない人は1人か2人で、ほかの人を介せばコミュニケーションができました。ただし、私が小~中学校で教える職種だったら、若い人はインドネシア語が話せないので、テトゥン語を学ぶ必要があったと思います」。

   訓練所での語学研修は2018年度からテトゥン語になった。

Text=三澤一孔 プロフィール写真提供=ご本人

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