派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[パラオ]

かつて日本の統治下にあった国への派遣で思うこと

「パラオの人たちは明るくて優しい。隣に住んでいた部族の長と仲良しで、家族でその家に行ってはみんなでご飯を食べたんだよ」

ペリリュー島最南端の「西太平洋戦没者の碑」 (宮崎聡美さん パラオ/小学校教諭/2011年度1次隊・大分県出身提供)

ペリリュー島最南端の「西太平洋戦没者の碑」 (宮崎聡美さん パラオ/小学校教諭/2011年度1次隊・大分県出身提供)

   廣瀬さんの母親は、パラオ生まれで4歳まで現地で過ごした。母や母方家族からその思い出を聞いてきた廣瀬さんが、パラオを派遣先に希望したのは自然な成り行きだった。赴任してからの廣瀬さんは、毎日のように散歩をし、村の人たちに話しかけた。人々の暮らしや小学校の生徒たちのことを知るため、そして、母たちが話していた日本統治時代のことを聞いてみたかったからだ。

   そんなとき、ある女性から突然、「ここで日本が何をしたのか知っているのか」と怒りを込めた言葉をぶつけられた。

   パラオの人は親日と思い込んでいた廣瀬さんは驚き、「何をしたのか」を知らない自分を恥ずかしく感じた。以降、廣瀬さんは「日本人が統治時代にしてきたこと」を図書館で調べたり、人々に聞いたりして学んでいった。

   そして、統治時代、日本は一等国民である日本人と二等国民である沖縄人、そしてそれ以下の階級にパラオ人を置いていたこと、日本の学校教育が厳しく、時には体罰もあるという印象が受け継がれていることを知った。

「二重三重のショックでした。日本人がパラオ人を差別したことは、関東にいた学生時代にバイトの面接で、私が沖縄県出身と知ると、『日本語話せる?』と言われたことを思い出させました。また、私の父は沖縄戦で家族を失い一人だけになりました。私は差別や戦争に対するつらい思いを知っているはずなのに、『日本から教えに来た』と上から目線で話していた。活動のいろいろなことがうまくいかない違和感の正体でした」

   ちょうど赴任して半年の頃で、授業に行き詰まり、ホームステイ先家族との溝も深まっていた。配属先は地方の伝統的な生活を送る村で、廣瀬さんは戦後初めて住んだ日本人だった。

ママさんが大好きなみそ汁を一緒に作る廣瀬さん。

ママさんが大好きなみそ汁を一緒に作る廣瀬さん

「村には日本統治時代に嫌な思いをした方もいるなかで、ホストファミリーは私を受け入れてくれたのに、私はパラオ語を話せず、生活スタイルも違ってかみ合わなくて。結果、『出て行ってほしい』と言われてしまいました」

   思い詰めていた廣瀬さんを救ったのが、日本語が堪能な高齢のパラオ人女性だった。ホームステイを快く引き受けてくれた。

「ママさん」と廣瀬さんが呼んだその女性は、統治時代に日本語教育を5年受けただけだが、毎日、NHKを見て、食事はご飯とみそ汁。日本語の本を読み、健康のために畑作りをするほど生活に日本を取り入れていた。

「日本人と結婚する話があったけれど、戦争でかなわなかったそうです。普段は日本への強い思いを周囲のパラオ人には話せない。唯一話せたのが私だったのでしょう、いろいろな話をしてくれました」

   ママさんは、廣瀬さんに日本語でパラオ語や生活について教え、活動の悩みを聞き、大きな支えとなってくれた。廣瀬さんは地域の文化・歴史的背景を学びながら、人々や子どもたちに溶け込む努力を続け、任期終了後は、パラオをフィールドに研究を行うまでになった。

Text=工藤美和

知られざるストーリー