派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[エルサルバドル]

支え合う人々と共に歩む支援

体育職種から始まった協力隊派遣は、やがて障害者スポーツの支援へ。自然災害の多いエルサルバドルで日本の教訓を生かす防災職種の隊員と共に紹介します。

髙梨俊行さん
髙梨俊行さん
養護/1995年度3次隊・群馬県出身

PROFILE
大学卒業後、民間企業に勤務。阪神・淡路大震災をきっかけに進路を再考し、協力隊へ。JICA国内協力員などを経て、現在は飲食業に従事。東京2020パラリンピックでは、エルサルバドル選手のための寄付集めや強化合宿にも協力。来日したエルサルバドルパラリンピック委員会委員長で派遣当時のカウンターパートと、30年ぶりに再会した。

三上るり香さん
三上るり香さん
体育/2015年度2次隊・神奈川県出身

PROFILE
体育大学在学中の教育実習をきっかけに教育への関心が高まる。高校時代からやっていたダンスやカナダ留学で、異なる背景の人と接することに楽しさを感じ、海外の教育への興味も出てきたことから協力隊に応募。帰国後、埼玉県で1年間の小学校教員を経て現在は神奈川県内の高校で体育を教える。

中野元太さん
中野元太さん
村落開発普及員/2010年度1次隊・兵庫県出身

PROFILE
阪神・淡路大震災をきっかけに設置された兵庫県立舞子高校環境防災科の2回生。高校在学中からネパールを訪問するなど海外で防災に関わる活動を続け、大学在学中にはスリランカ、インドネシアでも活動した。JICA企画調査員(防災案件実施監理)、NPOスタッフなどを経て、京都大学防災研究所巨大災害研究センター助教。

     
山口まどかさん
山口まどかさん
防災・災害対策/2014年度1次隊・兵庫県出身

PROFILE

大学卒業後、企業に勤務するが、「人の役に立つ仕事がしたい」と転職。消防士として8年間働く。海外への興味に加え、「防災」の職種があることを知り、協力隊に応募した。現地の人たちから学んだ生き方を、多様な人が自分らしく暮らせる社会のヒントにしたいと、NPO法人多言語センターFACILのスタッフとして働く。

猛特訓の成果を、スポーツの楽しさに

   協力隊派遣の始まった頃、エルサルバドルで初めての車いすバスケットボールが行われたという。内戦中には車いすの陸上競技も始まり、1994年にはエルサルバドル車いすスポーツ協会が設立された。選手強化に向け、96年4月、同協会に派遣されたのが、髙梨俊行さんだ。

車いすマラソンの選手たちと髙梨さん(左から2人目、髙梨さん提供)

車いすマラソンの選手たちと髙梨さん(左から2人目、髙梨さん提供)

   髙梨さんがまず期待されたのは、半年後に迫った車いすバスケットボールの中北米カリブ地域のシドニーパラリンピック1次予選突破だった。

   指導を始めると、髙梨さんはすぐに一目置かれる存在となった。「実際に競技用車いすに乗り、パスやシュート、ディフェンスをやって見せることができたから」。それは、派遣前に日本で行った3カ月間の猛特訓の成果だった。

   バスケットの経験もなかった髙梨さんは、技術補完研修(※現在は「課題別派遣前訓練」になりました)として東京都多摩障害者スポーツセンターで、厳しい指導を受けた。全日本チームの指導経験もある職員につき、障害者選手と普通にプレーができるレベルを目指し、日中はもちろん、「朝錬」「夜錬」もこなした。この間、体重は5キロ減った。

   厳しい練習に耐えて渡航した髙梨さんだが、指導で心がけたのは「楽しくやること」だった。「人が集まらないことには、スポーツの面白さは伝えられない。そもそも練習会場に足を運べる限られた人しか競技ができない。内戦や病気で障害を負った人が、そのときだけでも嫌なことを忘れて夢中になることを考えました」。練習はゲームやシュートを中心にした。シュートが連続10本入るまで繰り返し、達成したチームは練習を終えて打ち上げへ。楽しくボールを追ううち、体力や技術は自然に向上、半年間で地域の2番手クラスの国々と対抗できるレベルに達した。

運動会で、トロフィーを手に、参加者に囲まれる三上さん(三上さん提供)

運動会で、トロフィーを手に、参加者に囲まれる三上さん(三上さん提供)

   迎えた予選。キューバには惜しくも敗れたが、髙梨さんが指揮をしたプエルトリコ戦は勝利した。得失点差で惜しくも2次予選には進めなかったが、髙梨さんの評価は高く、グアテマラから講演を依頼されるほどだった。

   髙梨さんは、車いすの陸上競技も指導した。日曜は1週おきのペースでマラソンや陸上の遠征に行った。また、「世界最大、最高レベル」ともいわれる「大分国際車いすマラソン」に選手を参加させたいと準備を進め、97年の大会に、内戦で地雷のために両足を失った選手がエントリー。さらに翌年は2人の選手が出場した。選手たちは日本での取材を受け、組織だった大会運営などに驚いた様子だった。さまざまな体験をした選手たちは帰国後、仕事を探し、就職することもできた。

障害のある人とない人が合同で大運動会

   髙梨さんの派遣から約20年後の2015年、体育の職種でエルサルバドルのスポーツ庁に派遣され、障害のある人もない人も一緒に楽しむスポーツを実践したのが、三上るり香さんだ。

   三上さんは、体育大学で学んだ知識を生かし、首都サンサルバドル市内の特別支援学校で知的障害などの子どもたちを対象に体育の授業を行った。そのなかで陸上競技の指導も行い、ラテンアメリカ国際大会の障害者陸上競技部門の予選に出る選手を選出。その結果、4人が大会に出ることができた。

   その三上さんが任期後半、半年がかりで準備したのが、障害のある人とない人、各150人が一緒に参加する運動会だった。それまでに関わった団体や学校にも呼びかけ、玉入れをはじめ、障害のある人が主役になれるような新たな競技を企画。すべての種目で、障害のある人とない人が共に楽しめるようにペアやチームを組んで行った。

障害のある人もない人も共に参加する運動会。視覚障害者と一緒に楽しめるように目隠しリレーの競技も行った(三上さん提供)

障害のある人もない人も共に参加する運動会。視覚障害者と一緒に楽しめるように目隠しリレーの競技も行った(三上さん提供)

   三上さんも障害者や障害者スポーツを取り巻く環境の厳しさを実感していた。多くの国民が貧困で余裕がないなか、「障害者は特に、食事か軽食が出るなら練習に来る、そうでないなら来ないという状況でした。交通費も負担になるため、練習に誘うと、送り迎えの車を出してくれるかと聞かれました」。

   障害者スポーツの拡大に向けた予算も少なく、三上さんは「そのために障害のない人の理解を広げることが大切」と考えるようになっていた。だからこそ、この運動会には、そうした状況を変えたいという思いを込めた。「障害のない参加者から『すごく楽しかったよ、ルリカ』という声が返ってきたときには、嬉しかったです」。一緒に取り組んできた人たちからは「10点満点の10点!」と評価された。

   「16年のリオパラリンピックに、パワーリフティングの選手が出場したことで、支援が動き始めた」と三上さん。2020東京パラリンピックには3人が出場し、1人がエルサルバドル初のメダルとなる銅メダルを獲得した。

地域防災委員会の設立で洪水の被害を回避

   2011年10月、熱帯暴風雨12-Eがエルサルバドルを襲い、全土に非常事態が宣言された。同国中部のサンペドロ・マサウア市では、市内を流れる三つの川が決壊し、市南部全域が水没した。雨は10日間降り続き、過去、洪水で大きな被害を出してきただけに懸念が高まった。

   避難者数や浸水面積では国内で最も被害が深刻な地域の一つとなったものの、同市では一人の死者も出なかった。その背景にはコミュニティごとに設立された地域防災委員会の活動があった。この設立を進める活動に関わったのが、10年6月から同市危機管理課に配属されていた中野元太さんだ。

「ぼうさいダック」のカードを使って災害時の適切な対応を伝える。(右から2人目、中野さん提供)

「ぼうさいダック」のカードを使って災害時の適切な対応を伝える。(右から2人目、中野さん提供)

   中野さんは神戸市の出身。1995年1月、小学1年で阪神・淡路大震災を体験した。家族や自宅に被害はなかったが、地震で崩れる家と地震に遭っても崩れない家の差に関心を持つようになり、兵庫県立舞子高校環境防災科に進学、その後、途上国で防災教育を実践したいと協力隊に応募した。

   たびたび洪水被害を受けてきたサンペドロ・マサウア市は、防災力を高めるため、国内初の危機管理課を設置。要請を受けて派遣された中野さんは、同課の職員と共に地域を回り、地域防災委員会の設立を進めた。地域のリーダーと話し、委員集めを依頼した。

   過去、洪水の被害が少ない地域では委員候補が3人しか集まらないようなこともあった。中野さんは、委員会がなければ被災しても支援が受けられないことなどを説明し、「次回、知り合いの方をそれぞれ1人連れてきてください」と伝えた。これを繰り返すことで、十数人のメンバーを集め、委員会をつくっていった。防災委員会を拠点に、防災訓練や防災マップ作成も進めた。

2011年の熱帯暴風雨12-Eで全域が浸水したサンペドロ・マサウア市(中野さん提供)

2011年の熱帯暴風雨12-Eで全域が浸水したサンペドロ・マサウア市(中野さん提供)

   学校の防災教育では、阪神・淡路大震災をきっかけにできた教材をもとに、文化や習慣に合わせた現地版をつくった。それが、片面には地震や火災などの災害の絵、裏面に頭を守るアヒルの絵などが描かれた「ぼうさいダック」。日本版では、地震を表す絵としてナマズが描かれているが、現地の人がナマズから連想するのは「スープ」。そこで現地版は、大地が怒っている顔にした。火災の対応を示す絵は、現地で親しみのないタヌキの絵から、カメがマスクをしている絵に替えた。日本版にない「野良犬と遭遇」のカードも追加した。

   2011年10月の熱帯暴風雨12-Eでは、中野さんたちが設置を進めてきた地域防災委員会が、早い段階から住民に避難を呼びかけ、取り残された住民の救助活動や避難所の運営などにあたった。中野さんは10日間ほとんど家には帰らず、活動を共にした。「体力的にすごくハードでした。しかし、地域の人が主体的に対応してくれたことで被害を抑えることができました。やってきたことが無駄ではなかったと思いました」。

人と人をつなぎ成果を拡大

「8年間の消防士としての経験を生かすには、ぴったりの活動」と応募し、2014年7月から中部のサンビセンテ市などで活動した山口まどかさん。しかし、活動は予想とはかなり違った。

「当初は、活動のほとんどがごみ拾い。ときどきが山火事の消火活動への同行でした」。現地で防ぎたい「災害」が、日本とは異なっていた。大きな課題の一つが、蚊が媒介するデング熱。水がたまる場所を少なくし、蚊の発生を抑制するため、排水路に投げ捨てられたごみを拾うことが同市危機管理課の重要な活動で、住民の要望も強かったのだ。

サンビセンテ市防災課の重要な活動だったごみの撤去・回収(山口さん提供)

サンビセンテ市防災課の重要な活動だったごみの撤去・回収(山口さん提供)

   日本の防災の経験を生かせないことに焦りも感じた山口さんだが、同課の仕事を続けるなかで自然と知り合いが増えていった。そして人と人をつなぐことを意識して活動を続けるようになると、「学校で防災の研修をやってほしい」と頼まれることも増えた。身近なもので担架を作ったり、バケツリレーをしたりする「カエルキャラバン」を、月1回程度のペースで実施した。

   別の市の医療機関に派遣されていた協力隊員から「うちのスタッフに防災訓練をやってほしい」と聞くと、危機管理課の職員と一緒に出かけた。国の出先機関として各県に設置されている市民防災局との連携をJICAに提案。新たな隊員が同局に派遣されると、同局によるカエルキャラバンが年間50~60回、開かれるようになった。

地域と共に生きる人々。信頼の大切さを知る

   それぞれの防災活動を進めてきた中野さんと山口さんが、共通して感じたのは、住民同士の助け合いの強さだ。

   山口さんによると、火事で消防に連絡しても、応答がないこともある。日本なら大問題になりそうだが、住民たちは「今日は留守番電話で消防は来ない」とつぶやき、平然と消火活動を始める。誰かがけがをしたとき、救急車が来なければ、通りかかった車で病院へ連れていく。「不安になりそうですが、周りの人や近所の人が必ず助けてくれるので、不安はないんです」(山口さん)。

   中野さんは、地域を回って地域の人にあいさつすることや、地域のリーダーを尊重することを大事にした。そのうえで、「身を守るためには、こういう方法もありますよ」と話すと、「じゃあ、やってみよう」という反応が返ってきた。「自分たちの地域は自分たちで守るという意識が強かった。内戦中、反政府勢力が強い地域だったことも影響しているかもしれません」(中野さん)

    時を経て、山口さんは今、日本に暮らす外国人と地域をつなぐ仕事をしている。協力隊時代に現地で支えてもらった安心感を、今度は自分が提供することで、誰もが自分らしく暮らせる日本社会になれば、との思いを込めて。

活動の舞台裏

ニッポン柔道、一足早く再開

   エルサルバドルに柔道隊員が初めて派遣されたのは、派遣開始翌年の1969年だった。内戦が始まった79年から93年まで協力隊の派遣自体が休止され、障害者スポーツに取り組んだ髙梨俊行さんが派遣された96年4月は、現地に柔道隊員はいなかった。ところが、その間に日本人による柔道の指導が始まっていたという。

   舞台となったのは、首都サンサルバドルの柔道道場。指導者は、92年のバルセロナオリンピックで古賀稔彦選手と対戦したフアン・バルガス氏だった。髙梨さんはそこにいた日本人のコーチと同期の隊員を通じて知り合った。聞けば、この日本人コーチ、「自分は柔道ができる」と在日エルサルバドル大使館に売り込み、渡航してきたという。

エルサルバドルの柔道の様子(NPO法人柔道教育ソリダリティーがエルサルバドル柔道連盟に中古畳400枚を贈ったときの写真=2018年、写真提供=在エルサルバドル日本大使館)

エルサルバドルの柔道の様子(NPO法人柔道教育ソリダリティーがエルサルバドル柔道連盟に中古畳400枚を贈ったときの写真=2018年、写真提供=在エルサルバドル日本大使館)

   学生時代、柔道に打ち込んだ髙梨さんは「フアン・バルガス選手がどれほど強いかやってみよう」と道場に乗り込み、久しぶりの柔道を楽しんだ。現地の柔道には、ブラジリアン柔術などの影響もあったようで、受講生たちから「日本流の柔道を見せてほしい」などと声をかけられた。結果、髙梨さんは自由な出入りが許され、活動の合間にときどき道場を訪れ、受講生たちと汗を流すことになった。やがて、同様に柔道経験のある後輩隊員も道場に足を運ぶようになったという。

   柔道隊員の派遣は97年に再開。その後も継続的に派遣され、何人もの教え子がオリンピックに出場している。

活動の舞台裏

何ものに代えがたい絶品マンゴー

   エルサルバドルは、野菜や果物に恵まれた国。特に南国系のフルーツが豊富だ。そのなかでも、防災・災害対策で活動した山口まどかさんのイチオシは、マンゴーだ。

山火事の消火活動の合間に、野生のマンゴーで喉を潤す山口さん(右)と同僚たち(山口さん提供)

山火事の消火活動の合間に、野生のマンゴーで喉を潤す山口さん(右)と同僚たち(山口さん提供)

   エルサルバドルでは10種類以上のマンゴーがあり、できる時季が異なれば、味も異なる。黄色く熟したマンゴーがなるのは3~5月ごろだが、青いマンゴーは年中なっていて、これも食べることができる。野生のものも、庭に植えられているものもあり、庭にあるものは、「このマンゴー、取ってもいいですか」と声をかけ、熟した実をもいで、そのまま食べる。知り合いから、おすそ分けとしてマンゴーをもらうこともよくあるそうだ。

   山火事の消火活動に同行すれば、周囲に食事ができる場所はない。そんなときに空腹と喉の渇きを癒やすのは、野生のマンゴー。消火活動の合間に、1人10個くらい食べたという。マンゴーが大好きな山口さんは、帰宅後におすそ分けでもらったマンゴーを、さらに五つほどぺろりと食べることもあった。

   マンゴーはウルシ科の植物で、皮や果肉にかぶれ(接触皮膚炎)を引き起こす成分が含まれている。実は山口さん、マンゴーのかぶれが出やすい体質で、マンゴーを食べると口の周りがかぶれて切れてしまうことも。それでもマンゴーの魅力には勝てず、かぶれたときは薬を塗りながらも、またマンゴーを食べていたという。

Text=三澤一孔 プロフィール写真提供=ご本人

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