派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[エチオピア]

50年間で変わった要請職種

エチオピアへの協力隊派遣に欠かせない「天然痘」、文化に根差した「コーヒー」、近年の「衛生分野」と、活躍した3人のOVを紹介する。

金子洋三さん
金子洋三さん
天然痘監視員/1972年度1次隊・広島県出身

PROFILE
元JICA青年海外協力隊事務局長。1972年、害虫を研究していた大学院生のときに先輩に勧められ、「面白そう」と協力隊に参加。帰国後は、協力隊の訓練所の国内ボランティアを経て、77年に英国のレディング大学に留学。開発社会学の修士課程を修了後、78年に国際協力事業団(現JICA)に入団。2000年から04年、青年海外協力隊事務局長として協力隊事業を統括。04~14年、青年海外協力協会 (JOCA) 会長。

平山絵梨さん
平山絵梨さん
マーケティング/2013年度2次隊・福岡県出身

PROFILE
大学卒業後、外資系タバコメーカーでマーケティングに約8年従事したのち、協力隊に参加。帰国後、2016年にイケア・ジャパン株式会社に入社。店舗でのマーケティングとマネジメント、マネジメントアシスタントを経て、現在、カントリーサステナビリティマネージャーとして同社のSDGsの取り組みを担当。

川村 幹さん
川村 幹さん
幼児教育/2016年度2次隊・北海道出身

PROFILE
短期大学卒業後、5年の公立幼稚園勤務を経て、協力隊に参加。帰国後は幼児教育について日本と海外との経験をもとに学ぶために大学院へ。JICA「エジプト就学前の教育と保育の質向上プロジェクト」現地調査に携わる。現在、発達障害・学習障害の子ども向け幼児教室・学習支援を行う企業に勤務。

専門技術を持たず奥地へ。天然痘撲滅に貢献

   1972年に始まったエチオピアへの協力隊派遣。第1陣には、世界保健機構(WHO)の天然痘撲滅計画を支援するグループをつくるため、天然痘監視隊員8名、自動車整備隊員4名、無線通信機隊員2名が含まれていた。

約50年前の近代化されたアディスアベバの街並み(金子さん提供、撮影は吉岡逸夫さん/映像/1972年度1次隊)

約50年前の近代化されたアディスアベバの街並み(金子さん提供、撮影は吉岡逸夫さん/映像/1972年度1次隊)

   天然痘は感染力が非常に強く、世界中で死に至る病として昔から人々に恐れられてきたが、ワクチンの普及で予防が可能となり、WHOは67年から開発途上地域での撲滅に乗り出した。結果、60年代末には、アフリカで天然痘の患者発生国はエチオピアだけになった。しかし、エチオピアは広い国土と険しい地形のために保健サービスが行き渡らず、WHOはアメリカのピースコーや日本の協力隊といった、海外の若いボランティアを天然痘監視の中心に据えたいと協力を要請してきたのだった。

   協力隊にとっては前例のないチャレンジでありチャンスだった。国際機関を通じた全人類的な課題への協力であることと、天然痘監視員は「専門的技術を必要としない」とされたため、途上国の役に立ちたくても応募できなかった文系の若者に参加の機会を提供することになったからだ。

   アディスアベバに到着した天然痘監視隊員は、天然痘の診断や種痘の仕方の訓練とアムハラ語の特訓を受け、四つの州に分かれて配置された。そのうちの一人が金子洋三さんだ。

   撲滅活動で取られたのは「監視と封じ込め作戦」。担当の州都を活動のベースとし、州内で患者発生の情報を得たら患者を発見しに行き、天然痘が同定されると周辺の住民すべてに種痘を行う。さらに、感染経路をさかのぼって種痘を行う。

ぬかるみにはまった車を引き上げる金子さんたち。「濁流に車が流されたときは水中に潜って引き上げたことも」(金子さん提供の資料より)

ぬかるみにはまった車を引き上げる金子さんたち。「濁流に車が流されたときは水中に潜って引き上げたことも」(金子さん提供の資料より)

   当時のエチオピアは地図もなく、どのような村に人口がどれだけいるかもわからない状態だった。監視隊員それぞれがエチオピア人学生を助手として雇い、無線機を積んだランドクルーザーを運転し、地図を描きながら村を探していく。橋がなかったり、道が狭かったりして途中までしか車で行けない山奥や谷底の村へはテントや寝袋を背負って歩いて行く。着いた村では一軒一軒、患者を探した。

「突然やって来た外国人にワクチンを腕に刺させろと言われても驚かれてしまう。まず村の長にあいさつに行き、地域で最も影響力を持つエチオピア正教の司教が種痘を受ける写真を見せて、『司教さんまでやっている安全なものですよ』と説明するところから始めました。当初は役人を連れて話してもらっていたけれど種痘をする段階になると村人が逃げてしまうので、司教の写真を使うことを考えたのです」と金子さんは話す。

   フィールドに出ると州都には1、2週間は帰れない。食事や宿泊を村の人に提供してもらうことも大切なことだった。

村人に種痘を受けても らうために持ち歩いた写真 エチオピア正教の司教に種痘を受けるまねをしてもらって撮った。右が金子さん(金子さん提供)

村人に種痘を受けても らうために持ち歩いた写真 エチオピア正教の司教に種痘を受けるまねをしてもらって撮った。右が金子さん(金子さん提供)

「子どもたちと遊んだり、ラジオを聴かせたりして信用してもらってから家に入れてもらうこともありました。ノミやダニがいるので寝袋のなかに殺虫剤のDDTをまいて寝る。食料がなくて生の麦や豆をかじることもあり、体力的にきつかった」

   精神的につらい出来事もあった。近隣地域を担当するエチオピア保健省の監視員が日当を稼ぐために仕事をしたふりをしていたことを知ったのだ。

「種痘を徹底すれば感染者を封じ込められるはずなのに、ある地域でたびたび発症者が出てきた。自分たちは何のために来ているのかと腹が立ったし、サボりを疑うことも嫌で悲しかった。しれっとサボるエチオピア人監視員をおだてて働いてもらう一方で、私たちは『日本人としての責任を果たそう。人が見ていないところでもきちんと仕事をしよう』と励まし合って2年の活動を全うしました」

   天然痘撲滅支援チームは2代4年にわたって活動し、その努力は76年の撲滅宣言に結実する。天然痘は人類が初めて根絶させた感染症となった。

コーヒーとハチミツ、自然と共生する農業

ハチミツを採る巣箱作り。木筒をバナナの皮で包み、わらで縛る(平山さん提供)

ハチミツを採る巣箱作り。木筒をバナナの皮で包み、わらで縛る(平山さん提供)

   金子さんたちが天然痘と闘ってきた頃よりもはるか昔から、貧富の差にかかわらず、エチオピアの人々はコーヒーを愛してきた。それもそのはず、エチオピア南西部カファ県は、コーヒーの発祥地とされる。地名はコーヒーの語源ともされ、原木のある熱帯雨林はユネスコの生物圏保護区にも指定されている。この森の生産物の販売促進をするため、2013年にカファ県農業協同組合にマーケティングの職種で派遣されたのが平山絵梨さんだ。

   コーヒーは、除草や肥料、農薬など人の手が加えられることなく、森で自生を繰り返す木から赤い実だけを一粒ずつ手摘みし、約1週間かけて天日に干し、手作業で一粒ずつ豆をより分けていく。

天日干しした豆を手でより分ける女性たち(平山さん提供)

天日干しした豆を手でより分ける女性たち(平山さん提供)

   ハチミツはコーヒーより昔から採取され、伝統的な採取方法が受け継がれていた。開花時期に合わせ、木を筒状にくりぬきハチの好きな香草をこすりつけた巣箱を作り、大木に登ってくくりつけ、ハチがすみ着くのを祈るというもの。巣を木から降ろすまでどれだけの量が採れているかはわからない。

   どちらも非効率的だが、自然と共生した生産ストーリーに魅力を感じた平山さんは、日本やオーストラリアの商社や国内市場への販路開拓、農家の品質向上のトレーニングなどを行った。

   しかし、行政官である組合長とは『売りたい』という情熱が合致しなかったのか、外国人だから軽く扱われたのか、商社の現場視察という農家にとって大切なイベントへの同行を無断で反故にされたこともあった。

「落ち込んだこともありました。それでも、企業との関係づくりに力を入れ、コーヒー、ハチミツ共に日本への販路を築くことができました」

平山さんが住んでいた教会の100周年のお祝いに集まったコミュニティの人たち。聖歌隊の歌や踊りが続いた(平山さん提供)

平山さんが住んでいた教会の100周年のお祝いに集まったコミュニティの人たち。聖歌隊の歌や踊りが続いた(平山さん提供)

   任地では、山の上にある、100年以上続くカトリック教会の敷地内に住んだ。雨期には1カ月も停電するようなところで、冷蔵庫も洗濯機もない生活だった。週末の土曜は洗濯と街の青空市場への買い出し、日曜は多数の信者と共に教会の行事に参加して一日が終わる。そして、集落には貧しいながらも互いに支え合って暮らす人たちの姿があった。

「貧富の差にかかわらず、皆が家に招き入れてくれて、コーヒーセレモニーをしてくれました」

   協力隊参加前は「洋服を買うことや効率を優先した生活を送っていた」という平山さん。カファでの日々は、「生きることには何が大切なのかを見つめ直す機会になりました」。帰国後、グローバルに展開する企業に就職し、現在は日本でのSDGs部門のマネージャーとして活躍中だ。

手洗いソングを作って「バイバイ、ばい菌!」

   エチオピアは気候変動の影響などにより、安全に管理された水へのアクセス率が世界のなかで低い国だ。衛生環境の悪化も相まって、しばしば感染症が大流行している。

   16年に幼児教育の職種で派遣された川村幹さんは、巡回活動先の一つ、小児がん患者の療養施設で、「エチオピア人は病気の予防よりも、風邪などの症状が出たあとの対応に重点を置いている」ことに気づいた。

「場合によっては風邪が命取りになる疾患を持った子どもたちにとって、大切なのは予防です。配属先の幼稚園を含めて、手洗いはされていても、十分には見えませんでした」

   そんな話を、全土で活動する隊員が年に1度集まり活動発表をする隊員総会で佐賀千紘さん(コミュニティ開発・2017年度2次隊)にすると、「水の防衛隊(※)」として活動中の佐賀さんもちょうど手洗い指導を考えていたところだった。

   そこに、配属先で手洗いの授業をするために紙芝居を準備していた西田香奈子さん(小学校教育・2017年度1次隊)も加わり、エチオピア版の「手洗いソング」を作る計画が始まった。「エチオピアの音階は独特で、エチオピア人が親しみやすい歌にするため、歌はエチオピア人に作ってもらうことにし、たくさんのエチオピアの人や隊員に協力してもらいました」。

子どもたちとジェスチャーを使って手洗いソングを歌う川村さんたち(川村さん提供)

子どもたちとジェスチャーを使って手洗いソングを歌う川村さんたち(川村さん提供)

   せっけんで手を洗おう、バイバイ、ばい菌――手洗い方法を盛り込んだ日本語の歌詞を考え、活動先のエチオピア人教員にアムハラ語に訳してもらった。曲は教員養成校で音楽を教えていたシニア隊員の教え子の学生に依頼し、エチオピアのダンスも加えた。エチオピアの医療文献を使い、子どもたちに伝える内容を裏付けてくれた理数科隊員もいた。

   こうして、歌、紙芝居、ミニゲームをセットにして伝えるプログラムができ、3人はほかの隊員と共に、幼稚園や小学校を巡回して指導した。

「子どもたちが楽しんで手洗いをするようになった」とプログラムは好評で、地方で活動する隊員やエチオピア人教員にも指導活動が広がった。

手洗い啓発のミニゲーム、ばい菌探し。手のひらで細菌が多い箇所を園児と探す佐賀千紘隊員(右)と原さつき隊員(コミュニティ開発/2017年度3次隊)(川村さん提供)

手洗い啓発のミニゲーム、ばい菌探し。手のひらで細菌が多い箇所を園児と探す佐賀千紘隊員(右)と原さつき隊員(コミュニティ開発/2017年度3次隊)(川村さん提供)

   こうした動きをエチオピアの水灌漑電力省も高く評価し、公式ソングにしてくれた。同省開催の国際会議では、川村さんは配属先の教員や園児とプログラムを発表した。さらに、内容を一冊にまとめた絵本の制作にまで発展した。川村さんの帰国後も、西田さんと佐賀さんは国際NGOと共に、隊員が派遣されていない地域でも、手洗い指導を続けた。

   コロナ禍になってすぐ、小児がん療養施設の様子が気になった川村さんは旧知のスタッフに連絡を取った。

「子どもたちが、歌いながら手洗いをしている動画をシェアしてくれて、安心しました」

   活動先も職種も違う隊員が複数集まり、現地の人たちの協力も仰いで一緒に作ったからこそ、広がりを見せた「手洗いソング」。多くの隊員が連絡を取り合うことが容易になった現代だからこその取り組みともいえるだろう。

活動の舞台裏

50年前、父と温泉につかって見上げた星空
ともに約50年前のアディスアベバ「田舎に行くと険しいところが多かった」と金子さん(金子さん提供、撮影:吉岡逸夫さん)

ともに約50年前のアディスアベバ「田舎に行くと険しいところが多かった」と金子さん(金子さん提供、撮影:吉岡逸夫さん)

   1974年、金子洋三さんの過酷な2年間の活動終了に合わせて、金子さんの父親が日本からはるばるエチオピアまで訪ねてきた。短期間で協力隊参加を決め、両親には合格後に報告して参加を認めてもらった。派遣先は、当時干ばつや飢餓のニュースが伝えられたエチオピアであり、活動中は「手紙もろくに書かなかった」(金子さん)というから、親御さんはさぞかし心配だったに違いない。「初めての海外旅行で、よく一人で来てくれました」。

   当時は任期を終えて帰国する際、ほかの国に旅行することが許されていたため、二人は、地球上で最も火山活動が活発なダナキル砂漠などのエチオピアの景色を楽しみ、タンザニアなどを経由して日本に帰国した。ダナキル砂漠に向かう途中のアワシュの国立公園では、天然の温泉につかり、二人で満天の星空を見上げた。「父の嬉しそうな顔が忘れられません」。

   タンザニアを訪ねると、協力隊をテーマにした映画『アサンテ・サーナ わが愛しのタンザニア』(1975年公開 青年海外協力隊発足10周年記念事業として制作)のロケ中で、映画に現地駐在員の妻役として出演していた俳優の故・八千草薫さんと会うチャンスに恵まれた。「感激しました。父はこのときに八千草さんにビールを注いでいただいたことを、懐かしそうに話していました」。

活動の舞台裏

エチオピアのコーヒー道
ポットに入れてコーヒーを煮出す(平山さん提供)

ポットに入れてコーヒーを煮出す(平山さん提供)

   コーヒーは外貨獲得の重要な輸出産品となるため、生産はしても飲まないという国も多いが、エチオピアの国民にとってコーヒーは生活の一部。生産量の半分が国内で消費されるという。家庭で客人をもてなす儀式「コーヒーセレモニー」は、焙煎していない生豆を洗い、その豆を火でいり、臼に入れて棒で突いて粉状にし、ポットに入れて煮出す。生の豆を使うこと、コーヒーを3杯いれることが作法で、2~3時間かけてゆっくりと味わいと会話を楽しむ。

大人数でもきちんと作法にのっとってコーヒーが振る舞われる(平山さん提供)

大人数でもきちんと作法にのっとってコーヒーが振る舞われる(平山さん提供)

   そうしたコーヒーを協力隊員たちも普段から味わった。「職場の幼稚園でも、親しかった近所の八百屋さんでもいつも生豆からいってくれて飲んでいた」(川村さん)。伝統的に塩を入れて飲む習慣もある。エチオピア産品種は酸味が強く、それを和らげるためだ。塩をひとつまみ入れると香りも引き立つ。「驚くけれど、けっこうおいしい」(金子さん)。

   コーヒー発祥の地カファにいた平山さんは、「首都では豆を粉にするときにグラインダーマシンを使う」といううわさを聞きつけたカファの人たちが、「マシンを使うようでは文化がなってない」と嘆く様子を見た。「道具も含めて、コーヒーを自分たちの文化としてとても誇りにしている感じがしました」。

※水の防衛隊=第4回アフリカ開発会議(TICAD・Ⅳ)で構想された「水と衛生」に取り組むボランティア。水質検査、給水施設の維持管理支援から、衛生啓発活動などを行う。

Text=工藤美和 写真提供=金子洋三さん、川村幹さん、平山絵梨さん

知られざるストーリー