派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[ベトナム]

真摯な態度で信頼関係を構築

近年、ニーズが高まる福祉・介護の分野と、派遣当初から続く日本語教育で、
変化をもたらした隊員の活動を紹介します。

奈村英之さん
奈村英之さん
理学療法士/2010年度1次隊・千葉県出身

PROFILE
協力隊員のドキュメンタリーを見て、「いつか自分も参加したい」との思いを持つ。建設コンサルタント会社で地質調査業務を行うなか、過労で倒れたことから医療職を志す。専門学校に通い、理学療法士に。外国人の看護師らと働くうち、日本のリハビリの技術を伝えたいと協力隊へ応募。認定理学療法士(脳卒中)、呼吸療法認定士。

篠田紗枝さん
篠田紗枝さん
障害児・者支援/2016年度1次隊・埼玉県出身

PROFILE
小学生の頃、学童クラブで周囲となじみにくい友達がいて、「どうしたらもっとうまく関われるのか」と心に引っかかった。大学では主に法律を学んだが、特別支援教育への関心が捨て切れず、大学院で専攻。特別支援学校の教員となった。教員以外の世界を知り成長したいと協力隊へ現職参加。帰国後に復職。

内藤真知子さん
内藤真知子さん
SV/日本語教育/2016年度2次隊・東京都出身

PROFILE
夫の赴任に同行して渡英した際、英語を学んだことをきっかけに、日本語を教える仕事を始める。(公財)アジア福祉教育財団・国際救援センターや(公社)国際日本語普及協会(AJALT)の講師として、日本で在日ベトナム難民らに日本語を教えていたため、いつかは現地でと考えていた。派遣が決まったときには、「神様ありがとう!」と感謝したという。

リハビリ患者のため検査・評価を導入

   ベトナムは2014年に65歳以上の人口が全体の7%を超えて高齢化社会に入った。34年にはその比率は14%に達し高齢社会になると予測されている。介護やリハビリの技術へのニーズは高い。奈村英之さんは10年6月から、ホーチミンにほど近いビエンホア市のドンナイ省総合病院で、運動機能の維持・改善を図る理学療法士として活動した。同病院に派遣された初のリハビリ分野の隊員でもある。

   奈村さんを待っていたのは、「外来の患者さんが来ているから対応して」の言葉だった。10人余りの技術員で連日70人から100人の外来患者をみており、その一人になった。「まさに戦場みたいでした」と振り返る。

患者のリハビリをする奈村さん(奈村さん提供)

患者のリハビリをする奈村さん(奈村さん提供)

   同病院でのリハビリは主に、機器を使った物理療法と、受傷や障害のある関節を動かすことだった。「日本なら、リハビリのゴールを立て、立つ・歩くなどの動作も練習し、退院後に自宅で行う自主練習も指導する。それがないので患者さんは通い続けていました」。

   着任から約5カ月後、奈村さんは同僚に、仕事の悩みなどを聞くアンケートを行った。ほとんどの同僚が「忙しい」「スタッフを適切に配置してほしい」と回答した。リハビリや検査技術を学びたいという声もあった。

   活動計画案をまとめ、配属先と話し合いを持った。運動の自主練習には同意してもらえたが、ほかの多くの提案は受け入れられなかった。そんなとき、同僚の一人がこんな声をかけた。「ヒデは専門学校出身だろ。だから話は聞いてもらえないよ」。カウンターパート(以下、CP)は、医科薬科大学卒で、当時20代の副科長。学歴が重視されるベトナムでは、専門学校の出身者は大卒の人に話を聞いてもらえなくても当然という「助言」だった。

   奈村さんは「このままマンパワーとしての活動で終わってしまうのか」と思うようになっていたが、奈村さんの仕事ぶりを見ていた人たちがいた。その一人がリハビリの現場を束ねる技師長。配属から1年2カ月後、副科長が産休に入り、技師長がCPになったことで、状況は動き始めた。その後、技師長はJICAによる日本でのリハビリ分野の研修にも参加し、こう声をかけてきた。「脳卒中で入院している人のリハビリについて、いいやり方を提案してほしい」。

   奈村さんが「しっかり検査をし、症状を記録するための評価表を作るのがいい」と伝えると、技師長は「評価表を作るから、次の休みの日に家に来るように」と指示した。

同僚に囲まれる奈村さん(後列中央)

同僚に囲まれる奈村さん(後列中央)

   上下関係が厳しく、学歴や年齢、職種を超えた連携が難しいベトナムで新たな取り組みを進められたのは、「技師長との出会い、技師長の存在が大きい。休日に仕事をするなどリハビリへの強い情熱も持っていた」と奈村さん。評価表の活用やリハビリの学習会も週1回開くことにし、一緒に準備もした。説明は主に技師長が担当した。

   活動終了後も交流は続き、奈村さんは年1回、病院や定年で退職した元技師長を訪ねた。病院のスタッフが奈村さんが勤める日本の病院に視察に来たこともあった。奈村さんが導入した評価表は、その後も改善されながら活用され続けている。

これからの特別支援教育へ
教材作りを広める

   経済成長と共に、ベトナムでは障害児・者の支援体制の整備も進んできている。しかし、実際の教育現場では課題が多く残る。そんななか、16年8月からハノイ近郊のトゥイアン障害者リハビリテーションセンター(以下、センター)に配属され、自閉症児の特別支援教育に関わったのが、篠田紗枝さんだ。篠田さんは特別支援学校の教諭で、現職教員特別参加制度を使って協力隊に参加した。

   センターには、センター内の寮で生活する子どもたちと、保護者らの送迎で利用する通所の子どもたちがいた。ベトナムでの障害児の教育は、特別支援学校が少なく労働傷病兵社会省が所管する同センターのような施設やNPOが運営する施設が担っていた。施設がない地域も多く、同センターにも、ベトナム北部のかなり広い地域の子どもたちが入所していた。

生徒と共にキーボードを弾く篠田さん(右から2人目)(篠田さん提供)

生徒と共にキーボードを弾く篠田さん(右から2人目)(篠田さん提供)

   篠田さんはセンター内の宿舎で生活しながら、二つのことに特に力を入れた。一つ目が、教材・教具作り。自閉症の人の多くには、対人関係やコミュニケーションが苦手、こだわりが強いなどの特徴が見られる。日本の特別支援教育では、児童・生徒それぞれの障害の程度や特性に合わせ、教員らが手作りした教材や教具をよく使う。ベトナムでは、教員養成学校で特別支援教育のカリキュラムが始まったばかりで、こうしたノウハウはなかった。同センターの教員の多くは幼稚園教諭や看護師だった。

   そこで篠田さんは、日本での取り組みを紹介しながら、パズルや、色合わせをするための「玉」、手先を動かすための「ひも通し」などの教材を作り、作り方や活用方法を同僚たちに伝えた。パネル布を張った舞台にフェルトの人形などを貼り、表現やストーリーを楽しむ「パネルシアター」も紹介した。

   教材作りを続けるうち、子どもの教育にあまり興味・関心がないように見えた教員が、実に器用に手先を使う魚釣りなどの教材を作り始めた。活動終了間際には、「こんな教材を作った」と、フェルトで作った「本」を見せてくれた。開くと、数の理解や手先を動かす練習などができるようになっていた。

   この教員の取り組みをきっかけに、教材作成熱が高まった。教員の長所が生きたことが嬉しかった。

   篠田さんは、音楽や、絵の具などを使う図工などの情操教育にも力を入れた。「音楽の時間」ができ、キーボードに取り組んでいた教員が配置された。

   活動を終えた篠田さんは復職し、授業でベトナムのことが取り上げられることがあれば、食べ物や音楽、現地の様子などを紹介し、クリスマスには伝統楽器を演奏する。

   ベトナムで活動して、「子どもたちへの接し方が変わった」と篠田さんはいう。「『こうしてほしい』という自分の考えにとらわれるのではなく、相手の気持ちを察することを、より意識するようになりました」。言葉が通じないなかで活動した経験から、意思表示や体を動かすことが苦手な子どもと接するときでも、これまで以上に 「何でこうしたのかな」と考え、間をとって接するようになったという。

「忍耐」の日本語学習から
学んで楽しい授業へ

   活動先でベトナムの人々と接することで子どもたちとの接し方が変わった篠田さんに対し、日本でベトナム人と接していたことがきっかけで協力隊に参加した人もいる。日本在住のベトナム難民ら(※)に長年、日本語を教えていた内藤真知子さんは、「いつかこの人たちの母国に行って日本語を教えたい」と考えていた。16年10月、その希望がかない、シニアボランティアとして、ハノイ国家大学人文社会科学大学の日本研究学科に配属された。

学生に囲まれる内藤さん(後ろから2列目の右から2人目)(内藤さん提供)

学生に囲まれる内藤さん(後ろから2列目の右から2人目)(内藤さん提供)

   当時、64歳。誰もが難しいというベトナム語について、「日本語教師なので、文法や、先生の説明の意味は理解できました。しかし、覚えられなかった。年齢のせいですね」と笑う。授業は日本語で行うので、問題はなかった。

   要請内容は、学生に日本語、教員に指導法を教えると共に、大学院設置に向けて中級・上級の日本語のカリキュラム作成の支援をすること。しかし、開講されていた初級クラスの授業で、すぐに問題が見えた。「学生たちはみんな真面目でいい子ばかり。でも、間違いを恐れて、とにかく話さない。だから身につかない」。

活動を終え、外務大臣からの感謝状を手にする内藤真知子さんとご主人の正和さん(内藤さん提供)

活動を終え、外務大臣からの感謝状を手にする内藤真知子さんとご主人の正和さん(内藤さん提供)

   同じ頃、日本の大学が主催する日本語のスピーチコンテストがあった。テーマは「日本語を学んで得たもの」。原稿を読んでみると、ほとんどの学生が「日本語は大変難しいので、学ぶには忍耐力が必要です」などと、「忍耐」を挙げていた。

   外国語を学び自分を表現する、世界を広げるという発想が感じられず、内藤さんは、初級の主教材の変更など、カリキュラム見直しを提案した。

   それまでの授業は文法が中心で、教科書も「次の文の空白に入る単語は何でしょう」などの内容が多かった。こうした教科書の代わりに学生が日本の文化を感じられるような教科書を使った。対話を通して学ぶ「ピア・ラーニング」や「グループワーク」の手法も取り入れ、「感じたことを絵に描いてみましょう」「お互いに絵を紹介しながら説明してみましょう」と授業を進めた。「間違えてもいいから、言ってごらん」と何度も何度も促した。

学生に囲まれる内藤さん(内藤さん提供)

学生に囲まれる内藤さん(内藤さん提供)

   学生から「日本語の授業は楽しい」「先生の授業が楽しみ」という声が聞こえるようになり、学科長も内藤さんの考えを尊重して支えてくれた。

   しかし、授業を変えるのは、容易ではなかった。内藤さんには、忘れられない記憶がある。日本語教育の勉強会で知り合ったベトナムの小学校の教員が見せてくれた写真だ。教壇の後ろには、「教師はよく教え、生徒はよく習え」のスローガンが掲げられていた。「教育観の違いに加えて、上の権威は圧倒的で、それに従うという傾向もあります。それでもせっかく日本語を勉強することになったのなら、世界を広げ、成長につながるきっかけにしてほしいという思いで活動しました」

離任時に学生がサプライズで手渡してくれたアルバム。内藤さんとの楽しい授業の写真で彩られている(内藤さん提供)

離任時に学生がサプライズで手渡してくれたアルバム。内藤さんとの楽しい授業の写真で彩られている(内藤さん提供)

   内藤さんは改革を目指し、戦略的に動いた。初めに十分に状況を観察し、その後は人間関係をつくる。あせらず、2年で結果を出すことを目標にした。孤軍奮闘にならないように、ほかの日本語教育の隊員や専門家とも相談を重ねた。「ベトナムの先生方は日本研究が専門で日本語教育が専門ではありませんでしたが、一生懸命に日本語を教えてきました。それを変えることは、やってきたことを否定し、プライドを傷つけることにもなりかねません」とベトナムの教員にも思いをはせた。

   内藤さんの提案は受け入れられ、実施後は現地の教員からも「変えて良かった」との声も上がった。

「私たちは人との出会いを通じて成長します。日本語教育が充実することで、学習者が新たな人と出会う機会を広げてくれればうれしい」と内藤さん。その思いを胸に、今も難民たちに日本語を教えている。

活動の舞台裏

教師の日のサプライズ
民族衣装のアオザイを着た同僚教師たちと。左から5人目が篠田さん

民族衣装のアオザイを着た同僚教師たちと。左から5人目が篠田さん

   ベトナムにあって日本にはない記念日に「教師の日」がある。ベトナムでは毎年11月20日がその日と決められ、生徒や学生、あるいは保護者が、教師への感謝を示す。

   篠田紗枝さんが派遣されていたトゥイアン障害者リハビリテーションセンターでも、11月20日には毎年、教師の日のイベントがあった。慣習どおり、保護者が教員たちに、花やシャンプーを贈るほか、子どもも大人も一緒に楽しむ催しが行われた。子どもがハスの花の模型を持って踊ったりした。

   同センターではこの日、女性教員たちは、民族衣装のアオザイを着ることが多く、篠田さんも同僚と一緒にアオザイを着て参加した。ほかの教員と一緒にベトナム語で歌も歌った。

   派遣2年目の教師の日、篠田さんは予想外の贈り物を受け取った。贈ったのは、生徒でもなく、保護者でもなく、同僚の教員。「私の先生はサエだから」と靴をプレゼントしてくれた。その同僚には、特別支援教育や音楽活動、キーボードの演奏法などを教えていたが、「ベトナムの教員の給与は低く、彼女も決して豊かではなかったと思う。そのなかで、決して安くはない靴を贈ってくれたことが嬉しかった。今も大切にしています」。

活動の舞台裏

ハノイのママとパパ

   内藤真知子さんがハノイ国家大学人文社会科学大学に配属され、現地に滞在していた頃、内藤さんが滞在していた家は、ベトナム派遣中の隊員たちの「憩いの場」になっていた。内藤さんは隊員たちから「ハノイのママ」と慕われた。

ハノイの内藤さん夫妻の住まいで

ハノイの内藤さん夫妻の住まいで

   当時は家族との同居が認められていて、同居する内藤さんの夫、正和さんは「ハノイのパパ」と呼ばれていた。実は、正和さんは、内藤さんの約半年前に、シニアボランティア(経営管理)としてハノイに派遣されたが、任期中に受けた健康診断結果が好ましくなく、任期を短縮することになった。その後は、個人のボランティアとして技術や経験を伝えていた。

   障害児・者支援の篠田紗枝さんも、ママ・パパのところに集った隊員の一人。「恋しい日本食を食べたり、ゲームをしたり。活動の悩みを共感しながら相談し合い、楽しい時間を過ごすことで、活動に向かい続けることができました」という。

「多くの隊員たちと話し、交流することで、パワーをもらった気がします」と内藤さん。帰国後、日本でママ・パパを訪ねてきた隊員もいたという。

※ベトナム難民…ベトナム戦争後、ベトナムが社会主義体制へ移行したことで、新体制下での迫害を危惧したり、
新体制になじめないなどの理由から他国へ逃れたベトナム人

Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位

知られざるストーリー