※2021年3月22日現在
出典:外務省ホームページ
※2022年9月30日現在
出典:国際協力機構(JICA)
1994年、ルワンダで起こった大虐殺では、80万~100万人もが犠牲になったとされ、世界に衝撃を与えた。
民族間の対立が原因と捉えられることもあるが、要因は複雑だ。ルワンダの歴史を振り返る。
お話を伺ったのは
PROFILE
エチオピアで農村自立活動に関わったのち、紛争で成果が崩れ去る事態に直面。英ブラッドフォード大学大学院で平和構築を学ぶ。研究などでルワンダを訪れ、和解や国造りに取り組む人々に出会い、「癒しと和解」プロジェクトを進める。同国のプロテスタント人文・社会科学大学で平和紛争学科設立に尽力し、現在は周辺国や日本からの留学生にも経験を伝えている。
ルワンダへの協力隊派遣は1987年、電気設備や体育、空手道などの5人から始まった。その後、技術教育、職業訓練、自動車整備などの隊員が派遣されたが、治安悪化のため、93年7月までに全員が帰国した。94年の大虐殺(ジェノサイド)では100日間に80万~100万人が殺されたといわれる。協力隊の派遣は2005年に再開され、コミュニティ開発や公衆衛生、観光など幅広い職種で活動が続けられている。この国でなぜジェノサイドは起きたのか。
ルワンダは「千の丘の国」とも呼ばれる
ルワンダには15世紀ごろ、王国が建国された。ツチは王国の支配階層だったが、ツチとフツは同じ言葉を話し、民族的な違いはあいまいだ。1890年にドイツの保護領となり、1916年以降、ベルギーの支配下に置かれた。ジェノサイド後の「癒しと和解」に取り組む佐々木和之さんによれば、ベルギーは、「民族」登録制度を導入し、ツチ以外から社会的地位を奪ったという。
62年の独立前後からフツの力が強まり、多くのツチの人々が隣国に逃れ、フツ系の政権が続いた。90年にツチ難民の第2世代を中核とする勢力がウガンダから侵攻し、内戦に。94年4月にフツの大統領が乗った飛行機が撃墜されると、フツ過激派が主導するツチへのジェノサイドが始まった。
佐々木さんは「軍事的な圧迫に加え、主要輸出産品であるコーヒーと茶の国際価格暴落による経済危機や、内外からの民主化要求の高まりにより窮地に立たされたフツの支配者層が、『共通の敵であるツチ』と戦うことがフツの義務であるとし、一般市民を動員してツチへの無差別殺戮(さつりく)を実施した」と指摘する。「融和を唱えるフツの穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。戦争に負ければ、二級市民に戻ってしまうという権力側のプロパガンダが、強い説得力を持ってしまった」という。
佐々木さんと養豚協同組合の人々
戦争で暴力が正当化され、集団心理のなかで自分だけ違う行動が取れなくなった。「同じことは世界各地の戦争で起きた。加えて植民地支配がエスニック集団間の分断を深め、ジェノサイドの背景となった。伝統的な民族間の憎しみが積もり積もってジェノサイドが起きたわけではない」と強調する。
94年7月、新政権が成立。「その後、差別は禁止され、人々が平和的に共存する段階に達している」。
被害者家族と加害者家族が共に洋裁に取り組む協同組合では、両者が一緒に育てた花をジェノサイド犠牲者の追悼式で共に供えた。その後、加害者家族の女性の苦しみにも共感した被害女性たちが、加害者である夫の面会に同行することもあった。そんな「深い和解」も生まれている。
Text=三澤一孔 写真提供=佐々木和之さん