女性の社会進出支援やポリオ根絶、そしてIT人材の育成支援まで、時代と課題の変遷に合わせて活動してきた隊員たちを紹介する。
PROFILE
大学で美術教育とテキスタイルを専攻。企業勤務を経て協力隊に参加。帰国後は『クロスロード』誌の編集に携わったのち、日本外国語専門学校の国際ボランティア科の教師に。2007年に教え子とNGO「A&A」設立。現在、NGOの活動の傍ら高校の非常勤講師として美術・工芸を教える。
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高校時代から飲食店に勤務したのち、協力隊に参加。2017年から2年間、隊員OVでJICA専門家となった妻の赴任に伴いダッカで生活。現在、福井県のインターネット回線販売会社に勤務し地域に根ざした社会貢献事業を担当。起業し、バングラデシュに進出する日本企業の現地サポートを仲介する仕事もしている。
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知人のIT企業の創業に参画し経営が拡大・安定したタイミングで、社会に貢献したいと32歳のときに協力隊に。任期終了後は、JICA専門家としてバングラデシュのIT系国家試験導入、地方農村インフラ開発、日本向けIT人材育成などのプロジェクトに従事。バングラデシュ駐在歴は11年超。
イスラム圏のために当初は女性が活動するのは難しいと考えられていたバングラデシュに女性隊員が初めて派遣されたのは1981年。農村開発局に配属され、農村女性の家庭菜園作りや栄養改善などの取り組みから始まった。そうした隊員たちが大きな問題と感じたのが、女性が自由に家から外に出られないことや、夫に先立たれた場合、経済的・社会的に困窮するなど厳しい状況に置かれていたことだ。農村女性の収入と地位の向上に向け、伝統的な刺しゅうノクシカタによる手工芸品の制作・販売の支援へと活動内容は広がっていった。
「ダッカに着いたのが、先輩の手工芸隊員たちが農村開発局につくったショップ『カルポリ』のオープンの日。各地方にいる手工芸や家政隊員が商品開発や制作指導をし、農村女性たちが作ったものを首都で展示・販売する施設で、画期的だとみんなで喜びました」と話すのは、89年、染色の指導者として派遣された馬場節子さんだ。独立戦争で夫や父を亡くした女性に自立の道を開く目的の婦人局の技術教室でバングラデシュの草木を使った天然染色の技術を教え、都市部に暮らす女性支援の一翼を担った。
馬場さんは、元々あった伝統的な染色を少し発展させる形で、現地で調達できる材料の種類を増やしたり、染色したものでサリーやサルワカミューズなど女性用の服地を作ったりした。
バングラデシュで初めて知った天然染料が多くあったと馬場さんは振り返る。「化学処理をしなくてもしっかり茶色に染まるココナッツ、とても綺麗なピンク色が出るカイガラムシ、鉄を使った黒など、鮮やかで丈夫に染め上がるものがありました。やはり現地に 行かないとわからないことでした」
馬場さんは染色の基本を学べる教科書を作成。先輩隊員が残した資料や自ら収集したデータを元にした。「染料や水などの量をどのくらいにするのか、鍋やカップの絵を描いて量を示し、面倒な計算をしなくてもわかるようにしました」
馬場さんが活動したのは、ダッカでも女性が一人で外出することはまだ少なかった時代。生徒は兄弟など家族の男性が付き添うか、2、3人で連れだって通ってきた。中学や高校、大学を卒業した人までいたが、それを生かせる職はなかった。それでも、「技術を身につけてなんとか仕事をしたいという意欲が強く、教えがいがありました」。
一方、生活に困窮し、幼い子供から高齢者まで路上生活者が大勢いた時代でもあった。馬場さんは「教室で少人数に教えていていいのか。もっと何かやることがあるのではないか」と葛藤を抱えながら2年間の活動を終えた。
それから20年の時を経て、専門学校の国際ボランティア科の教師となった馬場さんはスタディツアーを行い、生徒を連れて、南部の海沿いの町コックスバザールに暮らす少数民族ラカインの村を訪ねた。隊員時代に各地の織物や手工芸品を見て回るなかで、その豊かな文化に魅せられ、交流を続けていたという。「なかなか足を運ぶことができず、ずっとご無沙汰していたのですが、女性たちは私の名前を覚えていて、資料として渡した雑誌も大切に持っていてくれたのです。懐かしさと嬉しさで涙があふれてきました」
以降、毎年30人ほどの学生とホームステイをするようになり、ボランティアをライフワークにしたいと、教え子の有志とNGO「A&A」を設立。教育・文化と環境保護の支援を続けている。
2014年、世界保健機関(WHO)は「南東アジア地域」と区分される国々での「ポリオ(※)根絶」を宣言した。この地域に含まれるバングラデシュでは、1999年から延べ68人に上る隊員たちがポリオの根絶に向けた取り組みを後押しした。
2010年にバングラデシュ第2の都市、チッタゴンにある保健・家族福祉省の県事務所に派遣された高橋真吾さんもその一人だ。当時、すでにポリオの国内感染者は報告されなくなっていたため、感染症対策隊員は、ポリオの隣国からの流入による再発の防止と、5歳児未満児死亡の大きな原因だったジフテリア、破傷風、百日ぜき、はしか、結核、日本脳炎などの疾病に対する予防接種を行う予防接種拡大計画(EPI)に協力する形で15人がグループで派遣されていた。
年に2回実施されるポリオワクチンの一斉投与では、事前に担当行政官が村々を回り、接種を担当するボランティアに実施要領を説明。接種前日はヘルスアシスタント(HA)が村の一軒一軒を訪ね、接種対象者を登録する。当日隊員たちは、各接種所を含めた現場に同行して、正しく接種が行われているかモニタリングし、投与記録を正確に残すことや、接種所の衛生やワクチンの温度管理などを細かくアドバイスした。
「市街地から離れると船を乗り継がなければたどり着けない集落があったり、増水した川をズボンを脱いで渡ったり。『雨が降ったら行かない』と言うHAをやる気のない人物だと思っていましたが、一緒に行ってみて、短い日数で一斉投与を行う難しさを実感しました」
そして、隊員たちは現場で見えた課題にそれぞれのやり方で取り組んだ。「啓発が足りないと感じた隊員はイスラム教のモスクで有力者に話をしてもらう働きかけをし、ワクチン接種で使う注射器の使い方を教えるイベントを行った隊員、季節で移動するため行政が把握できない労働者集団の子どもへの接種に取り組んだ隊員など、みんな自分の強みを生かしていました」
高橋さんは、停電時にワクチン保管用冷蔵庫を稼働させる自家発電のコードが正しくつながっていなかったり、ワクチンが転売されたりといったずさんな管理に気づいたが、「直接配属先に原因を問いただせば、同僚たちとの関係が悪くなってしまう」こともあり、直ちに解決できることは限られていた。それでも、前職の飲食店業務で行っていた棚卸しの経験を生かして在庫量などをチェックし、状況を定期的に保健・家族福祉省の本省に報告した。
「上下関係が強く残るこの国では現場の声は中央まで届かないことが多いので、外国人の立場を利用して中央に実態を認識してもらい、この国の人のなかで解決に向けてもらえたらと思っていました」
感染症隊員は月に1、2回集まり、活動を報告し合った。そうしたなかで生まれたのが、ポリオワクチン一斉投与の作業手順を記載した、投与ボランティア向けリーフレットの刷新だった。ポリオワクチンは経口投与で、学校の先生やイマムと呼ばれる宗教的指導者らにボランティアで行ってもらっていたが、医療の専門性を持たないうえ、事前に配られても読むのを面倒くさがる人がおり、現場で動員された青年などのなかには字が読めない人もいた。そのため、不正確な方法での投与や、投与の済んだ子どもとそうではない子どもの区別ができなくなるなどの混乱が生じていた。
そこで高橋さんたちは、絵や写真を多用し、作業手順を直観的に理解できるようなリーフレットを作成。チッタゴン県で使用すると好評だったため、翌年からはNGOの資金援助を得て全国で配布してもらえるようにした。
こうした積み重ねが14年のWHOによるポリオ根絶宣言に結実。そして、青年海外協力隊事業の成果の一つと評価され、16年のアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞につながった。
IT資格という武器をバングラデシュの若者たちに与えたい――。この強い思いの下、2008年、IT関連の隊員有志は、現地の若者たちがIT人材として国内外で成功できるよう、自らの能力を証明できる国家資格の導入を目指して政策提言する活動に取り組み始めた。
火つけ役はコンピュータ技術隊員として派遣され、のちにJICAプロジェクトにも携わる庄子明大さんだ。当初は、バングラデシュ・コンピュータ評議会(BCC)の地方センターで、若者やカウンターパート( 以下、CP)にコンピュータ技術を教え、国のIT能力向上を支援する活動にあたっていた。「若者たちはポテンシャルにあふれていたものの、BCCなどで教える内容は市民講座レベルで、産業界で通用する即戦力のあるエンジニアの育成にはつながっていなかった。IT分野の隊員は皆同じように感じていました」と庄子さんは振り返る。
転機は08年11月、政情不安で外国人に対する襲撃リスクが高まり、地方で活動していた隊員が任地で活動できなくなったことだった。「首都へ退避した機会にIT関連の隊員一同で集まり、この国のIT人材の育成のために自分たちは何ができるのか議論しました」
当時、バングラデシュにはIT技術者のスキルを証明するための国家試験がなく、人材育成の明確な目標が必要との意見があった。そこで目を付けたのが、日本の国家資格の「情報処理技術者試験(ITEE)」だ。インドなどアジア11カ国と相互認証があり、一度合格すればほかの国でも通用する人材として認められ、働く機会が広がる可能性がある。また、ITEEは国家試験ゆえ欧米の民間資格よりも受験料が安く、より多くの人が受験できる。
「有志でバングラデシュへのITEE導入へ動こう」となった。
09年3月には隊員のCPや大学、民間企業に呼びかけ、IT人材育成について議論するセミナーを開催、「国としてスキル指標を持ってエンジニアを育成しよう」と訴えた。
バングラデシュ政府はなかなか興味を示してくれなかったが、庄子さんたちは、「協力隊員に失うものはない。当たって砕けろと、企業、大学、専門学校から新聞社までアポなしでどんどん訪ねて、啓発して回りました」。
そんな隊員たちの熱意を、JICA事務所もサポートした。同年10月には科学情報通信技術大臣への面会にこぎ着け、導入への検討が本格的に進むようになった。
翌年3月で庄子さんは任期を終えたが、後輩隊員たちが「この国を変える力になる」というやりがいとワクワクした気持ちにあふれたバトンを引き継ぎ、ITEEの導入に向けたステップを踏んでいった。その思いはバングラデシュと日本の政府関係者を動かし、12年にJICAの技術協力プロジェクトに発展。14年にはついにITEEの導入が実現した。さらに日本の産官学の連携により日本企業で働くための人材育成へもつながり、現在、バングラデシュの優秀なIT技術者約200人が日本で活躍するまでになっている。
予防接種活動で地方を回った高橋真吾さんは、「田舎では外国人が珍しいので、どこに行ってもわらわらと人が集まってくる。そこでベンガル語で自己紹介しただけで、大ウケでした」と振り返る。
高橋さんが日本から来たボランティアだと聞くと、「ウチにご飯を食べにこないか」と招いてくれた。「普段、自分たちは食べていないだろう肉入りのカレーを用意してくれ、お腹いっぱいになってお皿を逆さにして『もう食べられない』と言うまで盛ってくれました。家庭で作った〝おうちカレー〟が本当においしい」(高橋さん)。
食後は、「チャ」と呼ばれる甘い紅茶とおしゃべりが待っている。ご飯とお茶をごちそうすることがベンガル流のおもてなしで、コミュニケーションを深める手段だ。「1杯5円ぐらいの、小さなカップに入った熱々のお茶を出すお店が至る所にあり、お茶をおごり合っておしゃべりをするのが楽しくて、1日15杯ぐらい飲んでいた」というのは庄子明大さんだ。任地ボリシャルのスラムにある小さな茶店のおばさんは、庄子さんが協力隊員だと知ると、「この国にとって大事なゲストだから」と一度も代金を受け取らなかった。そして、帰国を迎えた庄子さんが任地を離れるときには、川の上にある小さな家に招き、川魚のカレーをご馳走してくれた。「素朴な味と温かい気持ちが忘れられません」(庄子さん)。
ベンガル語を守るために独立したバングラデシュ。母語や自国文化への誇りは強く、隊員にとって言葉がとても重要な役割を果たすといえそうな例を2つ紹介する。
ITEEの導入を働きかけるため、科学情報通信技術省のオスマン大臣に面会した庄子さんと小沼位江(たかえ)さん(コンピュータ技術/2007年度4次隊)は、導入についての思いを説明。その後、小沼さんが「コビタ」と呼ばれる詩を詠んだ。コビタは表現方法や韻の踏み方などが伝統的で、知識層に好まれている。大臣が詩をたしなむと事前に聞き、用意してきたものだった。「バングラデシュと日本に橋を懸けていきたい」という内容の詩を聞き、とても驚いたオスマン大臣は「コビタを贈られるとは予想もしていなかった。素晴らしい。その思いに私もコビタで応えたい」と、即興で「バングラデシュと日本に懸かった橋を大きく広げ、多くの人が渡り合えるようにしていこう」と返歌。大臣室は喝采と熱気に包まれ、大臣は隊員の提案内容に対するワーキンググループ発足の指示を出すに至った。
また、こんなことも。庄子さんの配属先のボリシャルはなまりが強い地域。ある日、ダッカの業界団体幹部を前にIT人材育成についてベンガル語でプレゼンをすると、幹部たちが庄子さんを指さしヒソヒソ話しながら笑い始め、日本側関係者が戸惑うなか、大声で笑いだした。
「ごめん、ごめん。君、すごくなまっているよ。方言うまいねぇ」。
「日本人が現地語を話すのも珍しいうえに、地方のきついなまりがおかしくてたまらなかったようです」(庄子さん)。場はなごみ、この団体から多くの協力を得られるようになった。
※ポリオ…かつては小児まひとも呼ばれたこの病気は排せつ物などから感染し、子どもがかかると四肢がまひし障害を残す。有効な治療法はなく、予防接種で感染を防ぐことが大切となる。
Text=工藤美和 写真提供=取材にご協力いただいた各位