ろう者であることが2歳で判明、両親が読話や日本語を教えた。大学在学中に世界を旅する。大手メーカーに8年間勤務し、退職後にダスキン愛の輪基金による海外研修を経験。2013年にドミニカ共和国へ派遣され、帰国後、在日外国人ろう者を支援する団体を設立。現在、途上国のろう者を支援するNPO団体「Yes, Deaf Can!」の代表。
10代の時にバイク事故で脊髄を損傷するが、車いすバスケットボールと出会い、パラリンピックに4回出場。アメリカで障害者スポーツを学び、車椅子開発を行う会社などでの勤務を経て、マレーシアに派遣。帰国後、車椅子製作会社で競技用車いすの開発や販売に従事。現在は障害者スポーツの普及活動や講演を続ける。
JICA海外協力隊では、障害当事者の人々も多数活躍してきた。
聴覚障害の当事者である廣瀬芽里さんは、2013年1月から2年半、ドミニカ共和国のろう学校で活動した。「ろう者にはろう者の文化があって、例えば机をたたいた振動で合図を送るのは普通なのですが、健聴者はびっくりしますね。そんな文化のわかる当事者同士のほうが、しっかりコミュニケーションできます」と当事者派遣の意義を話す。
自らも車椅子生活を送る当事者で、車いすバスケットボールの優れたプレーヤーでもある神保康広さんは、06年に短期派遣隊員としてマレーシアで車いすバスケを指導した。要請は同年末にクアラルンプールで開催されるフェスピック(※1)に向けた代表選手の育成だったが、全国から集められた候補選手たちには地元での仕事などの社会的なよりどころさえないことを知った。神保さんは「社会参加している障害者の先輩」として、車いすバスケとの出会いや、企業に就職して仕事に打ち込んだこと、日本でも障害者の社会参加には壁があったことなどを話し、「社会を変えていくのは君たち」と訴えた。
協力隊では特に障害当事者に限定した要請があるわけではないが、障害のある人々と関わる活動では、障害当事者の経験が役立つのは確かだろう。ただ、廣瀬さんにはさらなる理想がある。「必ずしも障害者関連の要請でなくても、しかるべきスキルがあれば、障害者は活躍できるはずです」。
協力隊の選考では障害を理由とする合否の判断はなく、必要な配慮が取られている。廣瀬さんは「面接試験ではろう者であることをPRしたのが響いたと思います。応募書類にも聴覚障害のことを書いていたので、面接には手話通訳者が手配されていました」と振り返る。
マンツーマンで実施された語学研修。
「 大変でしたが、健聴者に負けられないとの思いもあって頑張りました」
青少年活動の職種で日系社会青年ボランティアとしてブラジルに派遣されることになり、JICA横浜で2カ月間の語学訓練を受けた。訓練中にも集団講義には手話通訳がついた。語学訓練の講師は手話の専門家ではなく、教わるのも手話ではなくポルトガル語の読み書きだったが、講師1名に訓練生数名という通常のクラス編成に対し、特例的に1対1の授業だった。
しかし、2カ月の訓練を終えて赴任を目前にして、派遣国がビザの関係でブラジルからドミニカ共和国に変更になった。このため改めて駒ヶ根青年海外協力隊訓練所でスペイン語を学ぶことになった。
「楽しみにしていた任地が突然変更になったのはショックで、訓練でも自分はなぜここにいるのだろうと思いました」
スペイン語はポルトガル語と似ているだけに混同しやすく、勉強は大変だった。
「厳しい先生でしたが、音声を用いずにすべてホワイトボードに書いたり貼ったり工夫してくれました。私の場合は耳で覚えるのではなく、すべて目で見なければならないので、目が疲れて大変でした」
派遣国で使われる手話の種類については講師や、自身の海外の知人を通じて調べるなど、赴任前に情報収集したという。
ドミニカ共和国のろう学校で生徒たちに囲まれる廣瀬さん
派遣先はドミニカ共和国のろう学校。併設の小中一貫校とは校舎が別で生徒間の交流は乏しく、待遇にも差があった。教員は健聴者ばかりで手話が得意ではなかった。廣瀬さんは差の解消を求め、合同での国旗掲揚や、手話の講習会、チャリティイベント、マラソン大会などを通じ、ろう者と健聴者が交わる機会をつくった。「健聴者によるバリアがありましたが、現地の人と一緒に頑張ることで、『ろう者もできる』と健聴者の意識を変えられました」。
派遣中、現地のJICA事務所からも配慮があった。当時、各隊員に貸与される携帯電話は通話専用モデルだったが、廣瀬さんは文字のやりとりが楽なようにスマートフォン。「活動報告会では手話通訳がいないため、企画調査員[ボランティア事業](※2)が他の隊員の発表をリアルタイムで書き起こしてくれたりしました」。
半年間の活動期間延長を経て帰国した廣瀬さんは、ろう者支援団体「Yes, Deaf Can!」を立ち上げた。今は飲食店や屋台の開業を目指すろう者をマイクロファイナンスで支えることを目指していて、すでにネパールやボリビアからの依頼が舞い込んでいる。
神保さんは16歳の時にバイク事故で脊髄を損傷し、下半身の自由を失った。障害も車椅子生活も受け入れられなかったが、周囲の勧めで車いすバスケチームの見学に行ったことが転機となった。
フェスピックで選手に言葉をかける神保さん
「何だこれは!と驚きました。楽しそうに汗を流す姿が輝いて見えました」
企業や役所で社会人として働きながら練習に打ち込んだ神保さんは、パラリンピックにも4回出場。その後、マレーシアで車いすバスケを指導する短期派遣隊員の募集を知って参加を望んだが、当時の職場で休職が認められず、退職参加を決めた。
「障害者は、仕事を見つけるのも大変。退職や休職に踏み切れない人は多いですが、思い切りました」
車椅子利用者の派遣はJICAも初めてだったため、まず1カ月間活動し、継続できそうだと確認した上で、改めて6カ月間の派遣となった。
「在外事務所からは『必要なことがあれば言ってください』と言われていました。6カ月派遣の際は、隊員の住居としては家賃が高めだったようですがバリアフリーの部屋を手配してもらいました」
派遣されたのは国立の障害者職業訓練校。選手たちは自国開催のフェスピックのため急きょ集められ、職業訓練校の施設を使用する建前上、昼間は職業技術の訓練を受けて、夕方から練習に取り組んでいた。当初はやる気が乏しかった選手たちも、神保さんが自らの経験を話し、実際にハードな練習もやってみせると、意識や行動が変わってきた。集合時間前に来て準備運動をする姿も増えた。
2020年に勤めていた会社を辞め、現在はフリーで講演やボランティア活動を行っている。 22年にはセネガルに短期渡航して現地の学校などを訪問した
そんな活動の中、現地生活ではハードルも感じた。バイク止めの柵が邪魔で通れないことや、公共交通機関への乗降が困難なことなど、ハード面のバリアが多かったという。ただ、「電車の扉が狭くて乗れない時に、周りの人が折り畳んだ車椅子を車内に運び入れたりして手伝ってくれたこともあります。周囲の人のサポートという面では、日本より人情味がありますね」。混んだ電車での移動はさすがに難しく、家から車で30分ほどの配属先への行き来は、もっぱら同僚の車に便乗するか、タクシーを利用していた。
任期終盤のフェスピック本番ではナショナルチームの指揮も執った神保さん。活動を通じ、単なる選手強化という要請を果たすことにとどまらず、「俺たちにもできる」というメッセージが伝わったようだった。後に就職活動を始めて日系企業での仕事に就いた選手や、自らスーパーを開業した選手もいた。
「はるばるマレーシアへ行って活動したかいがありました。選手に経験を伝える上では、私が同じ立場だからこそ説得力を持てたのではないかと思います」
協力隊からの帰国後も、ろう者を支援する取り組みを続け、さらに幅を広げたいと考えたことが、現在の私の活動につながっています。 障害当事者が派遣される意義は大きいので、ぜひ応募してほしいです。不合格になっても、再チャレンジを!
たくさんの人と交流したい人、海外に興味がある人、好奇心があって世界を広げたい人には、すごくよい経験になります。途上国では、砂利道や階段などバリアフリーの設備が整っていないところは多いですが、日本以上に周りの人が手伝ってくれます。
左:イモや肉などを煮込んだサンコーチョ。右:同僚たちと料理を楽しむ廣瀬さん
砂浜で郷土料理のサンコーチョを作る廣瀬さんたち
任地は断水や停電がよくあり、ヘッドライトや、太陽電池で充電できるソーラーライトが重宝しました。
私はもっぱら自炊派で、ホストファミリーとも料理をしていました。現地の料理で印象に残っているのがサンコーチョというスープで、野菜と肉、塩だけでシンプルですが、とてもおいしいんですよ。サーフィンが好きなのでよく海にも行っていましたが、砂浜で流木を集めて火をおこし、サンコーチョを作ったのは楽しい思い出です。
治安面では、リュックを前に抱える、携帯電話を前ポケットに入れる、持ち歩くお金は最低限にするといった原則を守っていました。1度だけ拳銃強盗に遭いましたが、JICAから言われていたとおり無抵抗で所持品を渡し、事なきを得ました。
マレーシアでお気に入りだったエビ料理
左:職業訓練として車椅子製作を行う選手たち。右:最初の1カ月間の派遣時は職業訓練校の寮で寝起きした
多民族国家のマレーシアは食文化が豊かで、蒸し鶏をご飯にのせた海南鶏飯や、炒飯に似たナシゴレン、麺を炒めたミーゴレン、骨つき肉を香辛料で煮込んだバクテーなど何でもおいしかったです。屋台は1食100 ~ 150円ほどなので、よく利用していました。
休日には他の町を散策するのが好きでしたね。電車で行けるところまで行き、あとは車椅子を走らせてローカルな路地などをのぞいたりしました。また、配属先にはフェスピックの代表選手以外でも車いすバスケに興味のある生徒がいて、休日に教えに行くことも多かったです。
平日は午後から行けばよかったのですが、朝から行って職業訓練を手伝ったり、資料作成などの作業をしたりと活動していました。
※1…極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会のこと。アジア・太平洋地域の障害者スポーツの国際大会で、1975年から2006年までに9回開催され、現在は「アジアパラ競技大会」に吸収される形で引き継がれている。
※2…JICAの在外事務所などで協力隊の活動全般をサポートする担当者。
Text=三澤一孔 Photo (廣瀬さんプロフィール)=ホシカワミナコ (本誌) 写真提供=廣瀬芽里さん、神保康広さん 手話通訳=田口雅子さん