派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[パプアニューギニア]

住民と通わせた心   派遣中も今でも

「誰もが好きになり、戻りたくなる国」。活動は終わっても関係は続いた。そのきっかけとなった活動を追った。

小瀬一徳さん
小瀬一徳さん
製材/1993年度2次隊・奈良県出身

PROFILE
井戸を支援するテレビCMなどをきっかけに世界に関心を持つ。欧州への語学留学を検討していたが、実家が林業家で、林業関係の職種があることを知り、協力隊へ。帰国後、商社に勤務し、貿易に関する知識を身につけ、2005年に独立しPNGとの貿易を開始。日本から中古のパソコンや車を輸出し、バニラビーンズなどを輸入。「Vanilla House」の屋号で事業を行っている。

西村祐二郎さん
西村祐二郎さん
日本語教師/1998年度1次隊・埼玉県出身

PROFILE
大学時代、畜産を専攻するが、「何か違う道を」と日本語教師の勉強を始める。以前からの興味に加え、大学の研究室に東南アジアからの留学生がいたことなどもあり、協力隊に応募。現在は、コンピュータの専門学校で留学生の日本語教育やIT関連の授業および生活指導を担当する。協力隊OVらと共に『パプアニューギニアの日本語教育-40年の軌跡とその意義-』の編集を担当した。

笹瀬正樹さん
笹瀬正樹さん
小学校教育/2014年度3次隊・静岡県出身

PROFILE
教員養成系の大学・大学院で、教員を目指して学ぶ。大学院修了後に協力隊へ。活動終了後、タンザニアで教育支援の活動に参加した。「日本の教育現場は、大学の同期生たちの世代が中堅となり、支えている。自分は海外での経験を生かして実践を続けたい」と、海外での教育の活動に引き続き力を入れる。

憧れの板の間の家を建設
森の維持・再生へ植林開始

   1993年から3年間、パプアニューギニア(以下、PNG)で製材隊員として活動した小瀬一徳さんは「多くの家が、大きな柱にヤシの葉で屋根や壁を造っていて、床はヤシの樹皮や竹、籐(とう)を編んで造った不安定なものが大半でした」と振り返る。

活動で訪れた村の住民たちと。実地でチェーンソーによる製材法などを伝えた

活動で訪れた村の住民たちと。実地でチェーンソーによる製材法などを伝えた

   小瀬さんの配属先は、PNG北部のマヌス島などを管轄するマヌス州自然資源局森林課。住居開発普及員として、伐採した木を製材し、それを資材として使う家の建て方を紹介した。同局は、生活の改善に向けて板材などを使った家造りを推進し、そのため各村にチェーンソーを1台ずつ配布していた。小瀬さんは州内の島をボートで回り、村に1週間から2週間滞在。共有地にある杉やラワンの大木を切り倒し、チェーンソーの使い方や木の加工方法を説明しながら、実際に角材や板材を作り、家を建ててみせた。「これまでの家の隣に新しい家を建てました。住民にとっては憧れの家。特に板を使った固い床は、みんな喜んでいました」

   学校の机を作ることも多く、村によっては病院や教会の骨組みを造った。余裕のある村人の中には自分でチェーンソーを購入する人もいた。

   当時、現地ではある問題が起きていた。それは、「道路を造ってあげる」として、大量の木を伐採する東南アジア企業の活動だった。「伐採の跡地は赤土むき出しの荒れ地で、まさに森林破壊のイメージどおりの土地になっていました」。木は日本に輸出されていたことが後にわかった。小瀬さんにとっては衝撃だった。

   PNGの熱帯雨林では、多少の樹木を伐採する程度なら周囲から新たに新芽が芽吹き、森林は保たれる。そのため植林という考え方も習慣もなかった。しかし、大量伐採の跡地では森は自然に再生しない。「子どもや孫の代に木がないことになりかねない。しかも、元凶には日本も含まれていました」。

   2年の任期が終わる頃、小瀬さんは植林を始めることを思い立ち、相談した。同庁や現地の人たちも賛同してくれた。活動期間を1年延長し、その期間はほぼ植林の活動に充てた。在来の樹種で、現地のニーズのあるものを苗木まで育て、荒れ地に植えた。

   小瀬さんは「親日的な人たちに支えられ、活動中、苦労はほとんどなかった」という。ただ、マラリアには何度もかかった。「そのうちの1回は41度の熱が続き、不安で仕方ありませんでした」。他の隊員から薬をもらって何とか乗り越えたが、「それがなかったら、命がなかったかもしれません」。

   帰国した小瀬さんは、大学を経て商社に勤務。その中で、PNGのような途上国の農家が、先進国の企業の買いつけの都合に振り回される構図に胸を痛めた。そこで2005年に独立、PNGのバニラビーンズなどを日本に輸入する仕事を始めた。「事業を始めた頃に現地へ入り、『安定的に購入できるよう日本市場を開拓するから、農家の皆さんにも頑張ってバニラを栽培してほしい』と頼み込みました。協力隊時代の任地ではなかったのですが、マヌス島で活動したと言うと、みんな快く協力してくれました」。

   今年、コロナ禍を経て3年ぶりに、農民たちと顔を合わせる予定で、それが待ち遠しいという小瀬さん。「3年間の活動中、現地の人によく面倒を見てもらい、パプアニューギニアが気に入りました。そして、今でも交流が続いています。これは一生続く関係です」と断言する。

日本語と共に日本の心を
離れても途切れない絆

日本文化紹介に力を入れた西村さんの授業風景

日本文化紹介に力を入れた西村さんの授業風景

   高校生の頃、アフリカでの獣医師隊員の活動を紹介する記事を雑誌で目にし、いつか協力隊に参加したいと考えるようになったという西村祐二郎さん。1998年から2年半、日本語教師の職種で活動した。

   配属先は、80年代にODAで日本語教育が始まり、専門家や隊員の派遣が続いていたソゲリ国立高校。西村さんの派遣時、往年の名門校はレベルが低下し、校風も乱れ始めていた。約20年続いていた日本語の授業も、一時は必修科目だったが、当時は選択科目の一つとなり、履修者も減っていた。

   PNGに進出している日本企業は少なく、大学や留学で日本語学習を続ける機会もほとんどない。「将来に生かしにくい日本語を教える意味とは何か、常に考えながらの活動でした」と西村さんは振り返る。そして、できるだけ日本人に会わせることと、日本の文化を知ってもらうことを大事にした。日本の文化・社会や日本語を通して、学生たち自身の文化や社会を顧みる機会にしてほしいと思ったからだ。

   PNG国内で日本人に出会う機会は少ないため、運動会や、他校配属の日本語教育隊員と企画した日本語のスピーチコンテントなどの時には、隊員や現地の日本人にできるだけ学校へ来てもらった。こうした時に話ができるよう、初級会話に力を入れ、ひらがな指導をやめて、ローマ字のみを使うようにした。さらに、日本を知ってもらうため授業で日本の写真やビデオを紹介し、教室を博物館に見立て、壁を日本の飾りや日本事情についての展示物などでいっぱいにした。受講者が少ないクラスでは、学生たちと一緒にそばやカツ丼を作って食べた。ある学生は「毎回、日本語の授業が楽しみです。教室の中は日本で、50分の授業の間、日本への旅行ができるからです」と感想を書いた。

日本に関連する物でいっぱいの日本語教室

日本に関連する物でいっぱいの日本語教室

   一方、校内の風紀低下は深刻だった。西村さんによれば、現地の人の大半は酒類に弱いのだが、当時、思春期の学生たちの中には刺激を求めてか密造酒を造って宿舎の屋根裏に隠して、夜な夜な酒宴に興じる者もいた。見つかれば停学となり、停学となった学生の多くは退学していた。ある卒業式の直前、数人の学生が飲酒し、そのまま式に出た。その中に、長く日本語学習を続けてきた「弟分」のような男子学生がいた。学校では卒業式で各科目の成績優秀者を最後に表彰していて、西村さんは彼を成績優秀者として表彰するつもりだったが、「日本人がどのように行動するか示したい」との思いがあり、他の科目では酔った学生が表彰される中、日本語の表彰は見送った。卒業式後、「お酒を飲んでいない」と言い張る、酔っぱらった彼と別れることになった。そして、西村さんは活動期間を終えて帰国した。

「日本人の先生に日本語を習ったことが思い出として残れば、それが成果」と西村さん。しかし、PNGでの活動を通じた関係は途切れなかった。飲酒によって寂しい別れをした学生は2年後、日本の文部科学省の国費留学生として専門学校で電気の技術を学ぶために来日。滞在中の彼を、西村さんは何度も自宅や実家に招いて楽しい時間を過ごしたという。

   西村さんは現在、コンピュータの専門学校で留学生に日本語やIT技術を指導している。その傍ら、漢字の成り立ちや書き順を学びながら漢字を学習するビデオ教材なども制作。

「今後、日本語のオンライン教材を作って、もっと多くのPNGの人に日本語を勉強してもらいたい」と、今も、日本語指導やPNGとの関係が続く。

ピジン英語も覚えて関係が密に
音楽CD制作が生んだ自信

   大学時代から小学校教員を目指していた笹瀬正樹さんは、大学院への進学前、海外でのスタディツアーに参加した。そこで、「授業を受ける子どもたちの目が日本と全然違う。生き生きとしている」と衝撃を受けた。「いつか必ず、海外で子どもたちに教える」と決意し、大学院の修了に際して実行に移すことにした。そして、2015年1月、小学校教育隊員として、ニューブリテン島のココポの小学校に派遣された。

笹瀬さんの授業風景。学校では数学と理科を教えた

笹瀬さんの授業風景。学校では数学と理科を教えた

   派遣当初は生徒たちも緊張気味だったが、慣れてくると授業中ざわつくようになり、菓子を食べる生徒まで出てきた。同僚の教員に相談すると、同僚は生徒に理由を聞いてくれた。「先生が話していることがよくわからない」「友だちに聞いたりして、話してしまった」。

   というのも、高学年ともなれば8割くらいの生徒は英語を理解できるが、中にはピジン英語しかわからない生徒もいる。また、現地の英語の発音は独特だった。英語が苦手という意識もあった笹瀬さんは、英語とピジン英語の習得に力を入れた。半年ほどたつ頃には、英語にも慣れ、さらに半年がたった頃からは、英語とピジン英語の両方で説明するようにした。「ピジン英語で冗談を言うことで、子どもたちとの距離が縮まりました」。

   授業にも慣れてきた笹瀬さんは、授業外でもさまざまな取り組みを始めた。その一つが、モラルを学ぶ紙芝居。ゴミのポイ捨てと、物を盗む行為をテーマに物語を作り、A3サイズのスケッチブックに絵を描いてピジン英語で読み聞かせをした。

   読み聞かせを始めた理由の一つが、子どもたちが本を読む環境が整っていないことだった。図書室がある学校は少なく、あっても鍵がかかっていて自由に中に入れなかったり、難しい英語で書かれた本しかなかった。自身の配属先だけでなく、長期休みなどには各地の小学校などを回ったりもした。

   もう一つの取り組みが、オリジナル音楽CDの制作だった。PNGは音楽にあふれていて、ギターや作詞・作曲が得意な子どもたちも多く、よく「先生の歌、作ってあげるよ」と声をかけられた。しかし、「学校での評価基準は、主要科目の試験か、人気のあるラグビーしかなかった。どちらでも活躍できない子どもたちは教室でも寂しそうに見えた」。そこで思いついたのが音楽だった。

「町の良さや社会の問題を取り入れた曲を一緒に作り、CDにしたい」と校長や同僚たちに話すと、「ぜひやろう」の声が返ってきた。子どもたちも「挑戦したい!」と乗り気だった。

課外で試みた活動の一つが「紙芝居」。ポイ捨てや窃盗をテーマにモラルを教える内容で、 ピジン英語を使って読み聞かせた

課外で試みた活動の一つが「紙芝居」。ポイ捨てや窃盗をテーマにモラルを教える内容で、 ピジン英語を使って読み聞かせた

   授業の準備にCD制作の作業が重なり、「徹夜になることもよくあった」と笹瀬さんは苦笑いするが、「レコーディングの時の子どもたちのキラキラした目を忘れられない」という。レコーディングが終わった直後、歌を褒められた生徒が「ねえ先生、僕の声そんなに良かった!?」と嬉しそうに声をかけてきたこともあった。「曲もCDも自分たちで作れたことで自信や達成感を持ち、勉強にも思い切り打ち込めるようになりました」。

   PNGでの生活や活動は、笹瀬さんのことも大きく変えたという。楽しい時には思いきり笑い、悲しい時には涙を流してわんわん泣く、喜怒哀楽にあふれた現地の人と接したことも大きい。「日本で過ごしていた時は、笑顔のつくり方が分からなかったけれど、現地では自然に笑うことができました」。

   笹瀬さんはその後、タンザニアで日本のNGOが運営する学校のスタッフとなり、海外での教育に関わり続けている。いつか原点となったPNGでまた仕事をし、恩返しをしたいと強く思っている。

活動の舞台裏

隊員らによるPNGの日本語教育の歴史を1冊に

   2022年、西村祐二郎さんらPNGの日本語教育に携わった隊員OVや元専門家たちが、PNGで日本語を教えた20人以上の隊員OV・元専門家の寄稿を集めた書籍を出版した。

「帰国後に、元JICAボランティア技術顧問の佐久間勝彦先生から『ソゲリ国立高校の日本語教育小史』をまとめてみませんか、と話があったことからスタートしました」と西村さん。西村さんの前任隊員だった長岡康雅さん(日本語教師/1995年度3次隊)や、隊員・JICA専門家などとして長くPNGに関わる伊藤明徳さん、元専門家の荒川友幸さんを交えて打ち合わせを行い、編集作業が始まったという。

   同書には「着任当初は前任者のニックネームで呼ばれ続けて何をするにも比較され、落ち込んだ」(長岡さんのエピソード)など、日本語教育に限らず、多くの隊員にも通ずる苦労談が収録されている。西村さんは編集活動を振り返り、「今回、PNGで日本語を学んだ元学生たちにSNSなどでアンケートを依頼し、ウェブ上ですが二十数年ぶりに教え子たちと再会することができました。私と2人で撮った写真や私からの手紙を大切に持っている学生もいて胸が熱くなりました」と語った。

活動の舞台裏

精霊とシェルマネー
精霊「トゥブアン」の踊り。シェルマネーを通したひもでたたく

精霊「トゥブアン」の踊り。シェルマネーを通したひもでたたく

   PNGでは伝統的な文化や習俗が今も残る。その中に精霊とシェルマネー(貝の貨幣)がある。

   笹瀬正樹さんが派遣されたニューブリテン島のココポやラバウルなどに暮らすトーライ族の間には、円錐(えんすい)形の頭と木の葉に覆われた胴体が印象的な精霊トゥブアンの伝承が残っている。年に数回、マスク・フェスティバルやお祝いなどの場に、トゥブアンに扮した住民が現れる。「誰がトゥブアンになっているかは、絶対に明かしてはいけない」(笹瀬さん)。トゥブアンになるためには、クリアしなければならない儀式もあるが、その詳細も秘密とされている。

   トゥブアンが踊りを見せると、村人たちがひもに通したシェルマネーでトゥブアンをたたいたり、シェルマネーを投げつけたりする。かつて貨幣として広く流通していたシェルマネーは、現在では主に「ご祝儀」として使われている。シェルマネーを換金することも可能で、学費の支払いなどで使われることもあるようだ。

笹瀬さんが離任時に受け取った贈答用のシェルマネー

笹瀬さんが離任時に受け取った贈答用のシェルマネー

   市場などでは1~2メートルのひもに通しただけのシェルマネーも売られているが、特別な機会には、職人が何重にも重ねて作った贈答用のシェルマネーを贈るのがしきたりだ。

「2年間の活動を終えて離任する時、生徒や保護者、同僚たちがお金を出し合って準備してくれた何重にもしたシェルマネーをプレゼントしてもらいました。そのシェルマネーは今も、大切に持っています」

Text=三澤一孔 写真提供=小瀬一徳さん、西村祐二郎さん、笹瀬正樹さん

知られざるストーリー