派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[モロッコ]

青少年や女性、社会的弱者に寄り添う隊員たち

都市と地方、富と貧困という格差が横たわる中での活動は、隊員たち自身の意識も変えた。

寺岡亮輔さん
寺岡亮輔さん
青少年活動/2006年度3次隊・群馬県出身

PROFILE
大学卒業後、インドの孤児院での長期ボランティアを経て、協力隊に参加。帰国後は英国の大学院で教育について学ぶ。コンサルタント会社に約8年勤務し、途上国の教育分野のプロジェクトなどに従事後、国連へ。国連世界食糧計画マリ事務所を経て、2020年12月より国連人間居住計画イラク事務所。職業訓練、雇用創出などを通じた復興支援にあたる。

桂  聖代(旧姓・露口)さん
桂 聖代(旧姓・露口)さん
料理/2015年度2次隊・三重県出身

PROFILE
洋菓子店でアルバイトをしながら定時制高校を卒業、製菓衛生師の資格を取得。短期大学で栄養士の資格を取得。保育園に3年間勤務し、給食調理や献立作成、食育活動などに従事した後、協力隊に参加。帰国後は、カサブランカやニューヨークの日本食レストラン、京都の割烹(かっぽう)で働く。現在、協力隊OVの夫のJICAガボン支所赴任に伴い、ガボン在住。

山﨑智恵(旧姓・中川)さん
山﨑智恵(旧姓・中川)さん
シリアから任国振替でモロッコ/保健師/2011年度8次隊・富山県出身

PROFILE
大学で国際看護学を学び、東京で保健師として勤務後、協力隊に参加。2010年6月よりシリアで活動。情勢悪化により11年4月に一時帰国。待機中、東日本大震災の避難所となった二本松訓練所で避難者の健康管理のボランティアに従事。11年8月より任国振替でモロッコに派遣。帰国後、大学院で保健学修士と助産師資格を取得。18年より国内の短期大学の教員に。退職し、現在、育児専念中。

罪を犯し心閉ざした少年たちに世の中の温かさを伝える

   前出の工藤健一さんは、世界銀行の支援による「ラバト都市開発計画プロジェクト」に測量隊員として派遣され、道路設計などにあたった。「地方から職を求めて出てきた人々が首都の山の斜面などに住み着いたため、学校や病院などを設け居住区を整備しました」。

   それから40年がたつが、都市部と地方の社会・経済格差は変わっていない。2007年に青少年活動で派遣された寺岡亮輔さんの配属先もそうした格差を象徴するようなところだった。人口100万人を抱えるマラケシュにある、国の青少年保護施設。窃盗から殺人まで犯罪に手を染めた8~18歳の少年が収容され、更生教育や職業訓練を受けていた。

   施設の環境は劣悪だった。簡素な食事に不衛生なトイレ。夜は狭い室内に少年たちがひしめき合って寝ていた。収容人数120人に対して職員は施設長以下6人程度しかおらず、年長の少年が年少の少年たちの面倒を見るようにして管理するだけで精いっぱい。寺岡さんは、こうした施設は予算と人員が後回しにされる現実を知った。

   寺岡さんの要請内容は少年たちへのレクリエーションや情操教育の実施と施設の活性化を通じて、少年たちが再び社会に溶け込めるようにすることだった。「ほとんどの少年は親がいなかったり貧しかったりして都会に出てきていた。罪を犯してしまった加害者ですが〝社会の被害者〟の面もある。心を閉ざし世の中を斜めに見ていました」。

   施設ではボランティアを受け入れるのは初めてで、少年たちも一筋縄で仲良くなれる相手ではない。寺岡さんは、少年たちと日々を共に過ごすことから始めた。同じ食事を一緒に食べ、折り紙や歌、サッカーをし、夏に一般の学校と共に臨海学校に参加した際には、1週間、泊まりがけでつき添い、交流をサポートした。若い日本人ボランティアは珍しく、寺岡さんと一緒に遊ぶ少年たちに、一般校の生徒がうらやましそうな視線を送ると、少年たちは「リョウが一緒で嬉しい」と笑顔を見せるようになった。

臨海学校で青少年保護施設の少年たちと遊ぶ寺岡さん(後列中央)(写真提供=寺岡さん)

臨海学校で青少年保護施設の少年たちと遊ぶ寺岡さん(後列中央)(写真提供=寺岡さん)

   少年たちや職員との信頼関係ができると、寺岡さんは外部の人にこの施設を見てもらうことにした。知ってもらうことで何らかの可能性が広がるのではと考えた。すると、訪れた人から周囲に施設の情報が伝わり、「自分に何かできないか」と寄付の申し出や、音楽、スポーツなどを教えたいという人が現れた。

   ある脚本家が劇を上演すると、少年たちは夢中になって見入った。そして、「こんなに楽しいものがあるなんて。楽しいことをもっと知りたい」と話した。寺岡さんはモロッコ人や協力隊員をはじめ、世界的な観光地マラケシュで知り合ったアーティストなど国内外のさまざまな職業の人たちを施設に招き、少年たちと交流してもらうようにした。

   そのうちの一人、韓国のトラベルライターの女性は少年たちとの出会いを本にまとめ、売り上げなど100万円を寄付してくれた。施設はその資金で図書館を造り、サッカーをしていた石だらけで危険だった広場を整備した。

「彼らが少しでも『世の中っていいものなんだな』と感じてこの施設から出ていくことができればと思っていました」

   寺岡さんは少年たちの手に職をつけることや施設を出た後の環境を用意することはできなかったが、将来、同じような境遇にある少年たちを支援し、世の中を平和にする仕事に就きたいという思いを強くした。現在、国連職員として、度重なる戦争で傷ついたイラクの人々が生活を取り戻せるよう、その支援に取り組んでいる。


ドロップアウトした同世代に日本食を教えて就職を支援

   ジブラルタル海峡に近く、かつてはスペイン領だったテトゥアン。国民共済事業団が運営するタブラ社会自立促進センターの料理コースで、料理や製菓の指導、生徒の実習先や就職先の開拓に取り組んだのが桂 聖代さんだ。ここは、学業中退や経済的に困難な状況にある15~30歳の男女を対象に料理、裁縫、美容、自動車整備などの職業訓練を行う施設。桂さんは自身が10代の頃に不登校となり、家族の支えやお菓子作りを通して立ち直ることができた。要請内容を見て、「経験が重なる部分がある同世代のモロッコの子どもたちがどんな思いで料理を習いに来るのか知りたい。そして、同じ目線で何か力になりたい」と参加した。

スーパーで行ったお寿司のデモンストレーション。お客さんに巻き寿司づくりを体験してもらった(写真提供=桂さん)

スーパーで行ったお寿司のデモンストレーション。お客さんに巻き寿司づくりを体験してもらった(写真提供=桂さん)

   生徒たちは、3カ月間施設で授業を受けた後、レストランやパティスリー、ホテルの厨房などで11カ月間の実習を行うと調理師資格を取得できる。

「授業は無料で受けられますが、実習自体はほとんど〝タダ働き〟で交通費や補助も出ません。厨房の仕事は体力と気力、忍耐力が求められるきついもの。途中で実習を続けるのを諦めてしまう生徒が大勢いました。そもそも実習先自体も少なかったので、新規開拓と生徒たちのフォローアップが必要だと感じました」

   桂さんのカウンターパートはこの施設に長く勤める40代の男性講師。桂さんは、実習先への訪問に出ようと何度も提案するが、断られた。仕事への意識の違いから、時には言い争いになることも。仕方なく一人で街に繰り出し、片っ端から目についたパティスリーやレストランに飛び込み、実習先を探した。気がつけば、生徒たちが自発的についてくるようになっていた。

   桂さんはお店の人たちとのやりとりの中で、日本食のニーズを感じた。日本のアニメの影響で寿司やラーメンを知る人は多いものの市内に日本食を出す店はなく、「スシが食べてみたい。作り方を教えてよ」と言われた。作り方を生徒に教えれば就職の機会につながるのではと思ったが、施設は予算不足で生鮮食品が買えず、日本食の授業は断念していた。

   そんな中、卒業生が働くスーパーから、スーパーにある商品を使った寿司のデモンストレーションの依頼を受けた。生徒たちと巻き寿司を紹介するイベントを行い、その報酬として日本食の調理実習時には必要な食材を提供してもらうことにした。結果、日本食の授業を行えるようになり、桂さんはアラビア語とフランス語の日本食レシピを作成し、施設とスーパーに残した。

   生徒たちも2年間で大きく変わった。毎回、授業に遅刻してくるような生徒が実習先で仕事のやりがいを見つけて必死になって働くように変わり、卒業生がプロとして立派に仕事をこなすようになっていた。

料理コースの調理実習。中央が桂さん(写真提供=桂さん)

料理コースの調理実習。中央が桂さん(写真提供=桂さん)

「久しぶりに会う生徒たちは、過酷な環境を乗り越えて顔つきも体格もかっこよくなっていました。その姿に背中を押され、私も料理の現場でもっと腕を磨きたいと思うようになりました」

   桂さんは任期終了後、海外の複数の日本食レストランで働いた。カサブランカではモロッコ人スタッフの管理・指導を求められ、隊員時代のようなつき合いはできず、ボランティアという立場がいかに貴重だったかを痛感したと振り返る。

「モロッコの人々が家族のように受け入れてくれたのは、〝同じ目線で自分たちの役に立とうとしてくれている〟と感じてもらえたから。後輩隊員の方には、技術や知識を伝えることももちろん大事ですが、楽しく食卓を囲んだりしながら多くの時間を現地の人々と共有してほしいです」


イスラムの伝統服ジュラバを授乳用にリメイク

   2011年ごろからアラブ諸国で激しくなった民主化運動「アラブの春」による政情不安により、日本への一時退避を余儀なくされた隊員は多く、その中に内戦が長引くシリアから、モロッコに派遣国を変更し活動した隊員がいる。農村の保健センターで妊産婦と乳児に地域医療を利用するよう活動していた山﨑智恵さんもその一人だ。

   シリアで活動できたのは約10カ月間。日本のマタニティマークのシリア版として、妊産婦検診を促すメッセージを入れたマークを作成、シールにして配布した。11年4月の一時帰国時は東日本大震災の被災地でボランティアを行い、同年8月から任地変更先であるモロッコ保健省のケニトラ県支局に赴任した。

助産師学会で山﨑さんは同僚らと授乳用クッションや授乳用ジュラバの使い方をわかりやすく説明した。右下:授乳用クッション(写真提供=山﨑さん)

助産師学会で山﨑さんは同僚らと授乳用クッションや授乳用ジュラバの使い方をわかりやすく説明した。右下:授乳用クッション(写真提供=山﨑さん)

   モロッコでは妊産婦や乳幼児の死亡率の低下を図るため母親学級の全国普及を始めたところで、山﨑さんは保健センターを巡回指導し、その定着と内容の改善に携わった。

「妊産婦や乳幼児の死亡率が高いのは、地方から大きな病院へのアクセスが難しいことが挙げられます。都会と地方の格差はシリアと同様でした」と山﨑さん。母親学級では、良い状態で妊娠期を送ることができれば出産時のリスクも減らすことができると、妊娠中の食事や産後の健康管理、健診を受ける重要性を伝えた。

「女性が一人では外出さえできなかったシリアの村と比べ、モロッコでは外に出て働く女性が多かったのですが、女性が健康についてしっかりと学ぶ機会は少ないと感じました。現地業務費でテレビやDVDなど視聴覚機器を保健センターに導入し、正しい情報をわかりやすく伝えました」

   山﨑さんは、伝統服ジュラバを授乳用にリメイクしたものや授乳用クッションを作成し、助産師学会でも発表した。発表は立ち見が出るほどで、助産師からの質問が相次いだ。

「乳児死亡率や栄養失調を改善するために母乳育児を促進したいのですが、イスラム圏では女性が外出時に肌を見せることはしないので、外出先での授乳が難しそうでした。日本にあるような授乳服があれば心配が減りますし、首の座らない赤ちゃんへ授乳を行う際も、専用クッションが便利です。その後、実際にジュラバやクッションを作って使う産婦さんが出てきて嬉しかったです」

ジュラバをリメイクした授乳服(写真提供=山﨑さん)

ジュラバをリメイクした授乳服(写真提供=山﨑さん)

   モロッコでは「毎日がスペシャルだ」という言葉を多くの人から聞いたことが印象に残っているという。イスラム教の信仰心からくるものと思われるが、シリアで同僚を含め多くの人が亡くなり、日本では被災者に向き合った山﨑さんの心にその言葉はより響いた。「本当にそうだなと思いました。そして、毎日を大切に生きること、どんな人に対しても相手を大事にする姿勢を学びました」。

   山﨑さんは活動終了後、大学院に進学し、保健学修士と助産師の資格を取得し、日本の大学で教鞭を執り、日本人の学生だけでなくアジアからの留学生にも母性看護学や国際災害医療活動を教えた。派遣から10年がたつがシリア情勢は悪化し続け、2月には大きな地震も起きた。現在、1児の母として子育てにいそしむ。

「平和の尊さや格差が少ない社会で生きられることの重要性を強く感じます。活動した二つの国は同じアラビア語圏でも現地で話す方言はかなり違い、文化も異なっていましたが、人々の生活を身近に知ることができました。相手の文化や思いを大切にし、寄り添うことが大切だと感じた2年でした」

活動の舞台裏

モロッコで出会ったソウルメイト
兄弟所有のホテルで子どもたちと折り紙をした寺岡さん

兄弟所有のホテルで子どもたちと折り紙をした寺岡さん

   派遣から16年たった今も、寺岡さんにはコンタクトを取り続ける同世代の友人がいる。マラケシュ市内で一番の観光地であるジャマ・エル・フナ広場でカフェ、レストラン、ホテルなどを経営している兄弟だ。

   寺岡さんが活動していた青少年保護施設の近くに住んでいた彼らが寺岡さんに声をかけてきて、仲良くなった。

上:2016年に仕事でマラケシュに行った際に再会したカフェオーナー(弟)と。下:マラケシュのジャマ・エル・フナ広場にあるカフェ(写真提供=寺岡さん)

上:2016年に仕事でマラケシュに行った際に再会したカフェオーナー(弟)と。下:マラケシュのジャマ・エル・フナ広場にあるカフェ(写真提供=寺岡さん)

   ボランティアで地域の子どもたちに勉強を教えたり、アクティビティをしたりしていた彼らは、寺岡さんの活動する施設に寄付もし、寺岡さんも彼らのボランティアに参加し、子どもたちに折り紙を教えたりした。

   兄弟の店は海外を含めさまざまなメディアに取り上げられるなど、若くしてマラケシュで成功を手にしている。「彼らは自分のビジネスだけではなくモロッコの発展を真剣に考えていて、ボランティア事業もその考えからでした。それまで自分の将来のためにヨーロッパなどに出て行く人々にはたくさん出会いましたが、彼らのようにまだ自分と同じ20代半ばで自らの国の発展を考えている人は初めてで、感銘を受けました」

   モロッコの彼らの存在は、国を超えてイラクで困難に直面する人々の支援に取り組む寺岡さんの心の支えになっている。

活動の舞台裏

家庭料理のプロ、お母さんの味をまとめたレシピ集
桂さんがよく訪れた生徒の家の食卓

桂さんがよく訪れた生徒の家の食卓

「日本でもクスクスやタジンなど、人気のモロッコ料理ですが、生徒たちのお母さんが作るご飯がとってもおいしいんです。生徒の話を聞きに、ほとんどの生徒のお家に伺いました。その時に出してくれる料理に毎回感動して、作り方を教えてとお願いしました」と言うのは桂 聖代さん。

   生徒の母親世代は専業主婦がほとんどで、3世代同居が当たり前。「お母さんが大人数の家族のために料理にかける時間は長く、手間暇を惜しまない。みんな料理をすることや食べることが好きで、さらにおいしくなるよう日々研究していました」。

どの家でもたくさんのおいしい手料理でもてなしてくれた(写真提供=桂さん)

どの家でもたくさんのおいしい手料理でもてなしてくれた(写真提供=桂さん)

   そして、イスラム教の教えから、お客へのもてなしが手厚い。「家に伺うと、食事を出され、『そんな服じゃゆっくりできないから、パジャマを貸してあげる』と言われて、ご飯を食べたらお昼寝の時間。起きたら甘~いお茶とお菓子、夕方になると『もう遅いから帰宅するのは危ないわよ』と、なかなか帰してもらえません」。

   ラマダン時には生徒の家で、日没後に食べるスープやお菓子を一緒に作りながら教わった。「ラマダンにも挑戦してみましたが、空腹での調理は本当に大変!ようやく食事の時間になると、男性陣は『うちのお母さんの料理は味見しなくても絶妙な塩加減だ』と私に自慢してきました」。

   みんなで食卓を囲むことを大切にするモロッコの人々の温かさに触れた桂さん。現在、教わった料理の数々にイラストをつけたレシピ集を自費出版する準備をしている。

Text=工藤美和

知られざるストーリー