ボリビアへの日本の協力では重要な位置を占める保健医療分野と、世代交代に直面する日系移住地で奮闘した隊員を紹介します。
PROFILE
看護師として京都府立医大病院で耳鼻科と子ども病院のICUに約7年勤務後、京都府の現職参加第1号として協力隊に参加。帰国後は復職。のちに夫と共にボリビアへ。1997年から通訳を仕事にし、2022年からJICAの技術協力プロジェクト「救急産科ケアリファラルシステム強化プロジェクト」に専門家(業務調整、研修)として従事している。
PROFILE
専門学校卒業後、大阪府内の第三次病院の集中治療室などに9年間勤務。外国人患者の受け入れにも携わった経験から「他文化を知りたい」と協力隊に参加。帰国後に、看護師として働きながら大学院博士課程でボリビアの医療保険制度を研究。現在は、医師サイドに立った診療を一定の範囲で行える「診療看護師」を目指し、別の大学院の修士課程で学んでいる。
PROFILE
教育大学の障害児教育教員養成課程を卒業後、沖縄県の支援学校や小学校で8年間、教壇に。現職教員特別参加制度を利用して青年海外協力隊に参加。帰国後は、県立沖縄盲学校を経て、2022年から県立沖縄ろう学校に勤務。
ボリビア第2の都市サンタクルス市に日本の無償資金協力によって1986年に建設された「厚生省サンタクルス総合病院」。複数の技術協力プロジェクトが行われ、現在は「日本病院」としてボリビアのトップレベルの第三次医療(※1)を担う総合病院となっている。85年から95年までに23人の青年海外協力隊員が活動し、医療従事者の育成や病院運営の強化を支援してきた。看護師として小児科の集中治療室(ICU)に派遣された中島美鈴さんもその一人だ。
「当時の日本とボリビアの医療事情がかなり違っていてびっくりしました」
日本では使い捨ての医療器具が一般化していたが、現地では注射器はガラス製で、針と共に何度も滅菌消毒して使用。包帯やチューブさえも滅菌して再利用していた。「ICUではエアコンもない暑い中に子どもが寝かされ、オムツがぬれて泣いても看護師は放置していました。医師は感染が起きる恐れのある処置を行ったり、テレビでサッカーが始まると患者の緊急事態にも対処しないこともありました。抗生剤不足で亡くなる子どももいるなど、日本の常識とは懸け離れたことが多く、研修医や看護師に毎日怒っていました」。
スペイン語を思うように話せずカルテを読むにも苦労していた中島さんはストレスを抱え、技術協力プロジェクトに派遣されていた日本人専門家に愚痴を聞いてもらう日々を送った。
中島さんのカウンターパート(以下、CP)は、高い看護技術を持ち、学ぶ意欲と吸収力のある正看護師だった。彼女は中島さんが指摘する内容や不満を正しいと感じていたが、自ら医師には言えない立場にあり、看護の現状を変えることのできないもどかしさを抱えていた。ストレートに怒る中島さんの姿は新鮮に映ったようだった。
転機が訪れたのは赴任して1年が経つ頃。CPに故郷の祭りへ行く旅行に誘われた。低地のサンタクルスから首都ラパス、さらに山奥へと長距離バスでたどり着いたのは先住民の村だった。
「その村では自宅で採れた作物と肉を交換するなど物々交換の生活をしていて驚きました。皆さん、スペイン語の拙い私にとても親切にしてくれて、1週間過ごすうちにスペイン語が目からうろこが落ちたようにわかるようになったんです。さらに、ボリビアの人がどのような環境で育ってきたのか知ることができました」
スペイン語に自信がついたことで、医師や看護師たちとの向き合い方も変わった。「看護師たちは複数の病院をかけ持ちしてシフトをこなしていたため、忙し過ぎて気持ちにゆとりがなくなってしまっているということ、おむつを替えたくても洗濯室からおむつが届かないことなど、いろいろな事情があることを理解できました。その上で、どのように患者さんやその家族に接するのか私が実際にやってみせたりもしながら、ようやく看護の本質を伝えられるようになりました」
その後、プロジェクトの看護の専門家と共に小児科看護のマニュアルを作成した。「少しでも良い看護にしていくため、理想論ではなく、日本病院の現場の状況に即したスタンダードを残しました」。マニュアルはその後、全国の病院でも採用されている。
「いろいろな不条理があってもラテンの明るさで前に進むボリビア人が好き」という中島さん。現在はボリビアの妊産婦と新生児の死亡率低下を目指す技術協力プロジェクトで専門家を務め、これまでの協力の深化と絆の広がりを実感している。今や地域医療を指導する位置を占める日本病院や関係先で、隊員時代の〝仲間〟が活躍し支えてくれているのだ。ケンカしていた研修医はこども病院の院長になり、元CPは大学で看護学を教え、その娘は医師となって中島さんが取り組むプロジェクトに参加している。日本人チームにもボリビアの隊員OVや専門家の経験者が集まってきた。
「日本病院は大切に維持され使われています。昨年11月から2名の隊員も活動しており、ここで新たなことを伝えてくれると期待しています」
ボリビア国内は標高によって高地、中間渓谷、低地の三つに分かれる。起伏が激しく広大な国土が交通網の発達を妨げ、地域間格差を生んできた。標高4000メートル級の高地、ポトシ県は国内でも貧困層が多く、現在でも医療レベルは他県に比べ遅れている。
2017年に県内唯一の第三次医療機関、ポトシ県立ダニエル・ブラカモンテ病院に派遣された山本貴子さんはICUでスタッフと共に業務をしながら、院内の看護の質の向上に取り組んだ。
「衛生意識が低く、科学的根拠のないケアが行われるなど、患者さんの命の危険に関わる問題がありました」
山本さんは、ICUの現場で見つけた問題を一つ一つ改善していった。例えば、ケアに使う手袋の使い回し。本来は使い捨てだが、各看護師への割り当て量が不足しているために使い回されていた。使用頻度の調査を行い、その結果を基に院内で供給量の交渉をしてもらい充足につなげた。また、ICUに出入りする医師らにも手指消毒を徹底するよう声がけやポスターによる啓発活動も行った。「現地の看護師は医師に意見しにくい立場にありますが、『あの先生が消毒していなかった』などと報告してくれるようになりました。医師も渋々ながら私の言うことは聞いて消毒していました」。
看護師は、吸引や体位変換などを経験で身に付けた技術だけで行っていた。
「そこで、心肺蘇生などの一次救命処置や心電図モニターの見方、床ずれの管理方法など根拠に基づく技術を教えました。患者さんの状況を評価する看護経過表は15年以上更新されていなかったので、すでにレベルの高い医療を導入しているボリビア国内の複数の私立病院を参考に改定を提案したところ、ICUで取り入れてもらえました」
そうした中で山本さんは、看護師がそれぞれに技術を持っている一方で、病棟ごとに能力の差があり、病院内に統一された教育体制や看護マニュアルがないことに気づいた。そこでCPである看護師長と相談し、院内全体の看護師を対象にした講習会を行っていった。
さらに、自身の活動終了後を考え、病院内に教育委員会を設立して教育体制を整えることや、看護の手順をまとめたマニュアルを作成することを提案。ICUでは看護師たちが意欲的だったおかげで協力してマニュアルを完成させることはできたが、病院内の委員会の活動は任期中には始まらなかった。
「委員会の設立決定後、CPの病院師長が2回代わり、そのたびに委員の人選などの話が振り出しに戻ってしまいました。病院師長になると権限と責任は増えるものの金銭的手当がつかないため、人員が定着しないのです。隊員には対応が難しい問題でした」
ボリビアで、制度や考え方の違いから救えない命があることにも無念さを感じたという山本さん。「医療保険制度が整っていないため、保険未加入で医療費を全額負担しなければならず、治療を断念して病院を去る患者さんが少なからずいたのです。日本なら助けられるのに、と悲しい思いをしました」。
帰国後、山本さんは、ボリビアの医療保険制度について大学院で研究を行い、現在は診療看護師を目指して学んでいる。診療看護師は、医師の不在時でも迅速かつ安全に一定の範囲内で医療を提供する役割を担うことができる。
「一人でも多くの命を救うため、日本や海外の病院で、看護の質の向上に貢献していきたいです」
ボリビア東部低地のオキナワ移住地(※2)やサンファン移住地は、第2次大戦後に日系移民がジャングルを開拓し、国内有数の農業地帯に変えたことで、非日系人にも知られている。移住から60年以上過ぎて世代交代が進む中、日系の子どもたちのアイデンティティの悩みに向き合ったのが、2015年、オキナワ日本ボリビア協会に小学校教育で派遣された伊波興穂さんだ。
沖縄県内で教員として働いていた伊波さんは、隊員応募以前の14年にオキナワ移住地を訪ねた経験があった。かつて県の事業で日本語教師として移住地へ赴任したことのある先輩教員に、ボリビア旅行へ誘われたことがきっかけだった。伊波さんも沖縄県出身だが、移住者についてはよく知らなかった。
しかし、遠く離れた南米で日本語を話す同世代の3世の若者たちが、「母県から来た」と大歓迎してくれ、移住地の催し物などで主体的に働く姿に驚いた。伊波さんは、1世や2世を尊敬し、日本・沖縄の文化を次世代に残したいという彼らの思いに心動かされた。
「それまで郷土を強く意識したことはなかったのですが、僕もウチナーンチュ(沖縄の人)で良かったと誇りを感じ、それを教えてもらった恩返しをしたいと思いました」
県による日本語教師の派遣は打ち切られていたが、現職教員特別参加制度で、県の教員を協力隊員としてオキナワ移住地に派遣することが決まり、伊波さんは迷わず応募した。移住地の小学校では8年生(日本の中学2年生相当)の担任と日本語教育、幼稚園クラスのリトミック(※3)、全学年の体育の授業を担当。約60人の生徒は4世や5世が中心だった。
「県の日本語教師派遣が途絶えていたこともあり、低学年生はもはや外国語として日本語を学ぶようになっていて、『ボリビアで暮らしていく私たちがどうして日本語を勉強しなければいけないのか』という声に悩みました」
同僚の日系人教師たちもその意義を生徒たちにうまく伝えられずにおり、「将来どうするかは、生徒たち自身が考えて決めるしかない」と思った伊波さん。沖縄で「世界のウチナーンチュ大会」(※4)の第6回大会が16年に開催されることに目をつけ、それに合わせて生徒を現地へ連れて行くことを企画した。
移住地から一度に大勢の子どもたちが日本へ行くのは初めてのことだった。しかも費用は各家庭の全額負担となるため、「あまり希望者が集まらないのでは」と考えていたが、思いがけず対象学年の8割に当たる7、8年生17名が参加を表明。保護者からは「自分たちはボリビアを出たことがないが、子どもたちにはぜひ自分のルーツを見てきてほしい」と後押しの言葉も受けた。アメリカを経由するためのビザ取得などに奔走した伊波さんだったが、どうにか20日間の沖縄行きを実現させた。
滞在中、生徒たちは県内三つの中学校に分散して体験入学し、親戚に会い、沖縄戦や移住の歴史も現場に立って学んだ。生徒たちは沖縄や日本を体験する中で瞬く間に日本語を上達させ、新たにできた沖縄の友達や、他国で活躍する日系青年たちとの交流を楽しんだ。
「子どもたちはきっかけがあればこんなに伸びるんだと感じて、嬉しかったです。自身のアイデンティティについて、子どもたちに選択肢を与えられてよかったと思っています」
それから5年余りがたち、高校を卒業した生徒たちは、ボリビア各地や他の中南米の国々、あるいは日本で、就職や進学など各自が決めた道を歩んでいる。
「その姿は、かつて沖縄から海を越えていった1世の人たちのように頼もしく感じます」
ボリビアやペルーでは、俗に先住民系の人のことを男性ならば「チョロ」、女性は「チョラ」または「チョリータ」と呼ぶことがある。男性の服装には決まった特徴はあまりない一方、チョリータは長く下げた三つ編みの頭に山高帽を乗せ、ひだが多く裾の広がったスカートという独特なスタイルで生活していて、在住の日本人の間では「チョリータさん」との愛称もよく使われる。
中島美鈴さんの任地のサンタクルス市はスペイン人が中心となって開拓した街で、約30年前、チョリータさんの格好をした人は市場以外ではほとんど見かけなかった。「先住民語を人前でしゃべる人もいませんでした。スペイン系の血の濃いことが美徳とされていたため、差別を恐れて出自を隠す雰囲気がありました」。
サンタクルスに限らず先住民の立場が低い状況は国内で根強かったが、時がたつにつれて社会的地位は徐々に向上。2006年にはボリビアで初めて先住民系の大統領が誕生した。今やサンタクルス市内にもチョリータさんの姿が増えている。「権利が拡大したこともありますが、『恥ずかしいことではない』とみんなが自覚したのだと思います。チョリータさんに戻る人も増えたと聞きますし、自分がなりたい姿で自然に生きていける国になったのは大きな変化だと感じますね」。
「ボリビア事務所員としての駐在から十数年ぶりに、所長としてボリビアに赴任して驚いたのは、ニジマスを食べる文化が広がっていることでした。これには協力隊員も一役買っています」と言うのは前JICAボリビア事務所長の小原 学さんだ。
チチカカ湖では20世紀前半から先進国によるニジマスの放流が行われ、日本は約40年前に養殖の技術協力を始めている。無償資金協力で水産センターを建設したほか、JICA専門家や協力隊員も派遣。隊員たちは近隣の村への稚魚の配給と、技術普及のための巡回指導に従事した。現在、ニジマス生産量は年間500トンを超えて増加し、ボリビアの1人当たり水産物消費量を押し上げている。
ボリビアではニジマスは一般に唐揚げやソテーなどとして消費されるが、ラパスなど大都市の日本料理店では刺し身や寿司でも供される。現地で活動する隊員にとっても嬉しい食材だ。「ポトシでは新鮮な魚に飢えていたので、おいしいニジマスが食べられる場所があると聞いて出かけていったこともあります」(山本貴子さん)。
※1…第三次医療=複数の診療科にわたる処置を要し、緊急性・専門性の高い患者に対応するための医療。
※2…オキナワ移住地=沖縄戦後の土地・物資不足の中、琉球政府が呼びかけた海外移住事業で1950年代にボリビアに入植した沖縄系移民が開拓した町。現在は第1・第2・第3移住地の3地区に、沖縄にルーツを持つ人が約900名暮らす。
※3…リトミック=音楽教育と情操教育を組み合わせた教育手法で、リズムに合わせて体を動かすなどのアクティビティを行うことで感性や運動能力の育成を図る。
※4…世界のウチナーンチュ大会=沖縄にルーツを持つ海外在住の日系人が、沖縄に集まりネットワークを広げるイベント。1990年からおよそ5年に1回のペースで催されている。
Text=工藤美和 写真提供=中島美鈴さん、山本貴子さん、伊波興穂さん、飯渕一樹(本誌)