長く、幅広い分野で紡がれてきた活動。技術や知識だけではなく、人同士の関係が両国に深く根を張っている。
PROFILE
国際学友会日本語学校(現:日本学生支援機構日本語教育センター)で留学生に日本語を指導した後、協力隊へ。帰国後の1978年にアジア専門の出版社「めこん」を設立。故前田初江さん(旧姓:久保田、家政/1969年度1次隊)が手がけていた、ラオスを代表する作家、ドゥアン・チャンパーの作品の翻訳を引き継ぎ、本年中に短編集を出版予定。ラオスの人々との交流も続けている。
PROFILE
大学卒業後、障害者施設での指導員、タイでの青少年活動のボランティアなどの後、協力隊に参加。子どもの頃から協力隊に参加することを目標にしていたため、合格を目指して有志による試験対策の合宿や面接の練習に参加したこともあった。ラオスから帰国後、作業療法士の資格を取得。2020年に短期のラオス派遣が決まったが、コロナ禍で派遣中止となった。
PROFILE
信州大学・大学院で、エコヘルス(持続可能な社会と健康)を学ぶ。ゼミでラオスやケニアの現地調査を行い、修士課程修了後、協力隊に参加。著書に『ラオスで出家した青年海外協力隊:ラオスの仏教に学ぶあたたかい循環の作り方』(電子書籍版、紙版)。現在Twitterアカウント「先生、学校は行かなきゃいけないの??」を運営するほか、親子オンラインスクール「cocowith」の共同代表を務める。
PROFILE
看護師。助産師。総合病院の産科、外科、内科に勤務した後、国際協力NGOであるAMDAの母子保健専門家としてベトナムやネパールで活動。帰国後、助産所と個人病院で自然出産の助産ケアの経験を積む。10年間沖縄県宮古島の県立病院で産婦人科、GCU(growing care unit)に勤務し、52歳で現職参加で協力隊に応募。2019年度3次隊訓練中にコロナ禍に入り待機に。特別登録に切り替え、退職。2021年8月に派遣され、活動中。
ラオスへの協力隊派遣開始から5年後、1970年に日本語教師隊員として派遣されたのが、桑原 晨さんだ。多くの日本人にとって、海外へ行く機会がほとんどなかった時代。「ラオスに関する本もなく、ニュースもない。どんな国かわかりませんでした」。
配属先は日本の中学・高校に相当する工業高等専門学校。そこで日本語を教えた。「生徒たちと話していると、当初苦労したラオス語があっという間にできるようになりました」。
学校の授業以上に期待が大きかったのが、同校で授業後に一般向けに開講していた日本語教室だ。学校では約20人に教えたが、一般向けでは約20人のクラスを4クラス受け持った。
隣国のタイにはすでに多くの日本企業が進出し、ラオスでも日本製品が出回り始めていた。「これからは日本企業がラオスにも入ってくる。そのために日本語を勉強しておこう、という雰囲気があったと思います」。当時、地方では農業分野の隊員による日本語教室も開設されていたという。
桑原さんは「日本語が少しできる人が増えたのは間違いない。でも、より大きな成果は人との関係でした」と振り返る。それを象徴する出会いが、派遣から約50年後に訪れた。
2019年5月、東京・代々木公園でラオスフェスティバルが開催された。そのステージで、素人離れした舞踊を披露したラオス人がいた。桑原さんが日本で習っている「ラオス語教室」の講師をしていたラオス人留学生だった。聞けば、母親が王立舞踊学校の生徒だったため、母親から舞踊の手ほどきを受けたという。さらに話を聞いていくと、その留学生の母親は、桑原さんの隊員時代の〝教え子〟とわかった。
1970年の日本万国博覧会(大阪)でラオスの舞踊団の公演が決まり、来日前の約3カ月間、桑原さんは舞踊団に日本語の特訓をしたのだが、その団員の一人が先に述べた留学生の母親だったのだ。さらに留学生の父親は、桑原さんの同期の沢田好夫隊員(日本語教師/1969年度2次隊)から授業を受けていたこともわかった。
桑原さんはこの留学生の両親が来日した際、〝再会〟を果たした。「自分の活動がラオスの人たちと日本を結ぶきっかけになっていたなら、それは、まんざら無駄じゃなかったと思えます」。
久保佳代子さんは、ラオス人民民主共和国成立後、協力隊の派遣が再開してから10年後に手工芸隊員として派遣され、養蚕の技術指導に力を入れた。
配属されたのは、東南部のサワンナケート県の手工芸局。当初は、外国人観光客向けに販売する土産物の調査が業務だったが、派遣から3カ月後、その業務が予算の都合で終了してしまう。そこでカウンターパート(以下、CP)の業務の中から、何か他の活動をしようと、ビエンチャンで活動する養蚕職種のシニア隊員から養蚕の基礎を教わり、活動を始めた。
支援対象のドーンタムグン村は、タイとの国境にあるメコン川の中州にあり、月に1~2回、県都からCPと共に4時間かけて村を訪ねた。
村では、伝統的な養蚕は行われていたが、タイの工場などに出稼ぎに出る村人が増えていた。外国人観光客向けの織物などを制作しているビエンチャンの工房へ、久保さんが村で生産された絹糸を持ち込むと、「この糸はあまりよくない」「繭の内側の糸と外側の糸が分けられていないから」などの評価を受けた。繭の外側の糸は太めでゴワゴワした触感だが、内側へ行くほど細く滑らかになる。調べると、日本では糸の評価をより細かく分けていることがわかった。製品にする際、複数の糸を撚より合わせるが、この「撚り」の度合いもばらばらで、商品価値を下げていた。村では分担して1本の糸を仕上げるのだが、人それぞれ、撚りの度合いが違うことが原因だった。
久保さんは、糸の分別や撚りの均一化などの呼びかけを続けた。先の養蚕隊員が来県する予定があることを知り、「ぜひ、村で研修を」と働きかけ、隊員と県の農業専門学校の教員による研修を実現させた。その後、離任直前にはなったが、改良された絹糸を首都で売り、価格の違いを示すことができた。
現場と専門知識を持っている人をつなぐこと、特に知識を持つラオス人との橋渡しを意識して大事にした。「私は任期が終われば帰るのがわかっていますが、ラオス人同士がつながれば、帰国後も取り組みは続けられますから」。
ラオスでは養蚕に限らず、「頑張るという意味の『パニャニャーン』を口にする人には、一人も出会いませんでした」と久保さん。代わってよく聞いたのが、「ポーペンニャン(まあいいか)」だ。しかし、多くの人がおなかいっぱい食べることができ、家族と一緒の時間を大切に過ごしていた。「幸福度は日本以上だったのかもしれません」。
社会開発と共に行動を変え、持続可能な健康と社会を目指すのが、エコヘルスという考え方だ。このエコヘルス普及のため、2016年に派遣されたのが長田光司さんだ。
配属先は、一般教養科目にエコヘルス教育を組み込むことを決めていたラオス国立大学。エコヘルス教育の教科書を作成し、教員養成校で教員にエコヘルスの「教え方」を教えた。「教科書作りよりも難しかったのは、ラオスに根づいていない『自ら考える教育』を教えることでした」と長田さんは言う。
「生徒は、先生が期待する答えを考えて口にしている感じでした」。エコヘルスの講義で手洗いを取り上げれば、教わったとおりに、「手洗いは重要」という答えが返ってきた。しかし、それは行動にはつながらず、実際には手を洗わない人が多かったという。そこでエコヘルスと共に、健康の保持増進を図るため、学校での保健活動の充実を進めた。その中で実践した身体測定では、行動する意味を理解してもらうことができた。
長田さんが当初、「計測や記録など、子どもたちができることは、子どもたちに任せよう」と提案すると、「できるわけがない」という反応が返ってきた。しかし、やってみると、うまくいった。子どもたちは楽しそうで、教員たちも「次回もやろう」となった。一度やってみることで、次の行動につながったのだった。
そんな長田さんがプライベートで取り組んだことがある。派遣中に2週間、出家し、寺院で修行生活を送ったのだ。
きっかけは、乗り合いバスの車内で、寺で修行しながら配属先の大学の日本語学科に通う学生に出会ったこと。話をしてみると、ラオスでは短期間、出家することも一般的で、希望すれば、その寺で受け入れてくれるという。JICAラオス事務所に相談してみると、「ラオスの社会を理解するためにも、いいのでは」という返事で、決断した。
出家を体験し、ラオスでは仏教が貧しい人を支え、貧しい人がラオスの仏教を支えるという構図があるのでは、と感じたという。
「貧困や離婚などで養育できなくなった子どもがお寺に預けられます。お寺で修行していれば、食べるものに困らず、学校にも通えます。さらに人々からは尊敬を受ける対象になり、自尊心が傷つくことが少なくなります。成長した彼らは、今度は世話になったお寺を支えるようになります」
いつも托鉢の僧侶に食べ物を渡している女性は「托鉢には地域の子どもたちを育てる意味もある」と話してくれた。僧侶が貧しい人に食べ物を渡すこともあるという。
帰国後、長田さんは、不登校の子どもたちと一緒に歩むオンラインサロンなどを始めた。ラオスのように、温かさの循環する仕組みを日本でもつくりたいという思いを込めて。
現役のシニア海外協力隊・助産師隊員の紺谷志保さんは、2021年8月から、保健省の母子保健センターで活動している。
世界保健機関(WHO)のラオスのチームと共に地方の病院や診療所を回り、WHOが東南アジア地域で推奨する出産直後の新生児ケア(EENC※)の徹底や、JICAの活動によりラオスに導入され、現地の実情に合わせ改定された母子健康手帳の積極活用を図っている。
WHOによると、ラオスでは「毎日、生後1カ月以内の赤ちゃんが10人亡くなる」「毎日、5歳未満の子どもが20人亡くなる」「1日に1人、出産により女性が亡くなる」状況にあり、改善されつつあるとはいえ、妊産婦や乳幼児の死亡率は東南アジアの国の中で特に高い。70~80%は地方で起きているとみられるだけに、取り組みは重要だ。
力を入れることの一つは、低体重や早産で生まれた赤ちゃんのケア。十分な設備がないため、母親や家族が一日に20時間以上、カンガルーマザーケア(KMC、抱っこ)をする。KMCで感染を予防し、完全母乳育児を行い、家族との絆を育むことで、小さな赤ちゃんが生き抜くことができる。
医療施設では、母子はじめ患者の身の回りのケアは家族が担う。赤ちゃんに栄養チューブで母乳を与えることもあれば、便や尿の回数や量のチェックもする。看護師は24時間勤務が一般的で、スタッフ不足で業務も多く、「昼休み、仮眠をしている看護師も多い」。
助産師、看護師として経験を積んできた紺谷さんは「助産師や看護師の役割や技術について、もっとアドバイスをしなくちゃいけないと思います。でも、ラオスにはラオスのやり方があり、家族が母親や赤ちゃんの世話を担い、看護を支えている状況の中で、『こういうやり方もいいのかもしれない』と思うことも多いんです」と話す。そのため、母乳のことやWHOのガイドラインに沿って実践できていないことを中心にアドバイスしているという。
紺谷さんが心がけているのは、寄り添うことだという。母乳が出ずに悩んでいる母親には、「母乳を出さないと大変だよ」ではなく、「なかなか出ないよね、難しいよね、わかるよ」と声をかけ、少しずつ授乳の工夫や搾乳の介助、乳房マッサージなどの手助けをする。母親たちが「日本人がこうしてくれて赤ちゃんがおっぱいを飲めるようになった」と口にする。それを人づてに聞いたり、遠巻きに見ていたスタッフが、同じように母親に授乳ケアをしている姿を目にすることが何より嬉しい。
※新生児ケア(EENC)…Early Essential Newborn Careの略
短期間の出家も珍しくないラオスだが、長田光司さんが経験した修行生活とはどんなものだったのか。
起床は午前3時30分。お経、瞑想の後、托鉢のため街を歩く。食事は朝と昼だけ。托鉢でもらったもち米やおかずを食べる。朝食後、学生は学校に行く。夜はお経の後、午後8時に就寝する。
寺には、貧しさなどで預けられた子どもや学生が多かった。殺生はいけないのではと思っていたが、肉も普通に食べていたという。托鉢で、お金を入れてくれる人もいて、学生僧はそのお金をお昼代にあてていた。
「大変だったのは、托鉢の時に素足で歩くこと」と長田さん。痛みを避け、変なところに力を入れると、筋肉痛になったという。やがて、「いかに自然な足運びをできるかに集中すると、痛みをあまり感じなくなりました」。出家にあたっての事務所の条件は「緊急時に連絡が取れること」。寺へのスマートフォンの持ち込みは問題なかった。「出家後、『こいつ日本人だけどラオスのことをよく知ってる』と言われることも増え、活動がやりやすくなりました」
紺谷志保さんがラオスに派遣された2021年8月。到着直後、ビエンチャンはコロナ禍で都市封鎖(ロックダウン)となり、ホテル待機となった。
市内の「村」(区画)ごとに、コロナ陽性者の有無が毎日更新され、陽性者の家の前には赤いテープが張られ、村のすべての陽性者の隔離期間が終わるまで、その地域への立ち入りが禁止、通り抜けもできなくなった。立ち入りができる村・できない村は日々、スマートフォンのアプリで確認した。「日に日に立ち入り禁止範囲が広がり、身動きが取れなくなっていく感じでした」。多くの商店は閉まったが、食料品や日用品はネットで注文して自宅に届けてもらうサービスが普及していた。
一方で、「感染したのに出歩いている」とSNSに個人の写真が投稿されることもあり、「新型コロナウイルスへの底知れない恐怖で、住民同士が監視し合っているような、殺伐とした雰囲気でした」。
現地語学研修もオンラインとなり、事務所へのオンライン近況報告を行った時には所長をはじめ、職員の方々と「今日はどの村が行ける」「どうしたら、こういうものが手に入るか」などの情報交換も重要だった。
Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位