派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[モンゴル]

変わりゆくモンゴル社会の課題と変わらぬ人々の心

大きく変わるモンゴル社会で現場の課題に向き合う隊員たち。活動を通じてモンゴルの人々の変わらぬ心のありようも感じている。

武井真由美(旧姓・浦)さん
武井真由美(旧姓・浦)さん
養護/2001年度1次隊、シニア隊員/プログラムオフィサー/2005年度0次隊・大阪府出身

PROFILE
短大保育科で保育士と幼稚園教諭2種免許を取得。障害児通所施設などで5年勤務後、協力隊に参加。2005年にはシニア隊員としてモンゴルに派遣され、学校建設プロジェクトに携わる。08年から約1年、JICA草の根技術協力事業の現地調整員。帰国後は介護福祉士や相談支援専門員の資格を取得し、社会福祉法人などに勤務。現在は、児童養護施設で働きながら通信制大学で社会福祉について学んでいる。

大槻美佳さん
大槻美佳さん
作業療法士/2016年度1次隊・福島県出身

PROFILE
高校卒業後、アメリカの大学で心理学を学び、在学中に作業療法士の仕事を知る。帰国後、専門学校で作業療法について学び資格を取得。日本国内の総合病院のリハビリテーション科に6年間勤務した後、退職して協力隊に参加。帰国後は高齢家族のケアの傍ら、作業療法士として認知症対応型グループホームを巡回しリハビリなどに従事。日本作業療法士協会、ふくしま青年海外協力隊の会でも活動する。

冠城忠孝さん
冠城忠孝さん
PCインストラクター/2011年度2次隊・東京都出身

PROFILE
学生時代からパソコンを自作するなどPCマニアで、独学で知識・技術を学ぶ。大学卒業後、大手IT企業でシステムエンジニアとして7年勤務。その後、抜き型製造企業などを経て、友人が協力隊として参加したことで興味を持ち、35歳で協力隊に参加、初めての一人暮らしと海外生活を経験した。帰国後は、抜き型製造企業への復職などを経て、現在、IT関連企業に勤務。

中川絵梨子さん
中川絵梨子さん
小学校教育/2019年度1次隊、2022年度7次隊・千葉県出身

PROFILE
大学卒業後、千葉県の中学校教諭に。教員4年目で卒業生を送り出した際に「海外で教師をする」というかつての夢を思い出し、現職教員特別参加制度を利用して協力隊に参加。2019年7月からモンゴルのドンドゴビ県マンダル学校で算数、体育、折り紙などを教え、20年3月、コロナ禍により帰国。特別登録の間は千葉市教育委員会で勤務し、22年7月に再派遣された。

障害児教育の礎を
同志と共に切り開く

   70年近く続いた社会主義時代、モンゴルで障害者福祉はあまり考慮されてこなかった。「障害児通所施設を共に立ち上げてくれる隊員を派遣してほしい」との要請に対応し、同国での障害児・者支援分野の第1号隊員となったのが武井真由美さんだ。障害児通所保育や肢体不自由児入所施設での経験を生かして、2001年に派遣された。

   配属先は首都の治療保育園第10センターで、園の一角に園長が善意で設けた肢体不自由児を預かる教室で活動した。当時モンゴルには特別支援学級といった概念自体がなく、視覚・聴覚障害以外の身体障害のある子どもは学校にも通えておらず、配属先には2歳から15歳ぐらいまでの子どもがいた。

「当時の教員免許のカリキュラムには特別支援教育という科目もなかったので無理もないことですが、単に子どもを預かって面倒を見るだけで、各自の発達を考慮して年齢に応じた体験をさせることや、社会に出ることを見据えた指導もなされていませんでした」

   生活経験の乏しい子どもたちを前に武井さんはまず、習慣のある生活を身につけられるように取り組んだ。年齢や障害の程度でグループを分け、時間割を設定。モンゴル語による国語や算数は同僚に任せ、武井さんは調理や工作の授業を設けて子どもたちが身体を動かす時間を担当した。一緒にスキンシップしながら食べ物や絵の具を触って楽しく教える武井さんに、子どもたちはあっという間に心を開いた。

   大人や教師は威厳ある態度を取るべきとされていた中、「子どもみたいになって遊ぶなんて変な人、と同僚から思われていた」という武井さんだったが、当時25歳と同い年のカウンターパート(以下、CP)のエンフムンフ先生は「子ども中心」に活動する武井さんと意気投合。共に活動しながら同僚たちへ武井さんの意図を伝えてくれるようになった。当初、モンゴル語に苦労していた武井さんは、子どもへの対応について現場でうまく説明できない時が多く、帰宅後に辞書を引いて言葉を調べて自分の考えを手紙にしてエンフムンフ先生に渡した。先生も返事を書き、交換日記のように続けたことでモンゴル語をマスターできたという。そして仕事が終わると、「障害のある子たちの環境を変えよう」と夜遅くまで熱く語り合うまでになった。

武井さんが行った調理の授業。体験学習の一環として、子どもたちに粉をこねてもらった

武井さんが行った調理の授業。体験学習の一環として、子どもたちに粉をこねてもらった

   二人の活動の成果の一つが、「天からの遣い」という題名の冊子だ。子どもの障害の種類や接し方、社会福祉の考え方などについてモンゴルの障害児の親や教育関係者に広く知ってもらおうと作ったもので、教育委員会などから依頼されたセミナーで配布した。

   また、配属先では当時のモンゴルにはなかった運動会も実施。子どもの状態に合わせて作った自助具を使った綱引きや、保護者・先生が参加するアメ食い競争など、皆が楽しむ運動会に子どもたちは大喜びだった。現在、他園の園長になったエンフムンフ先生は市内の複数の保育園と連携して運動会を続けている。

   そのほか、子どもにいろんな体験をしてほしいと思っていた武井さんは、「先生の家に泊まりたい」という声に応えて、重度の障害を持つ教え子たちのお泊まりを受け入れたりと、できる限りのことを試みた。成人した教え子たちの中には、障害者同士で結婚して子育てをしている人もいて、モンゴルの障害者のロールモデルとして紹介されることもあるという。

   モンゴルではバリアフリー化や障害者年金、介護ヘルパーなどの支援は整備が進んでいないが、教え子のような社会生活が可能なのは、人々がおおらかで、家族や親しい人同士で助け合う文化があるからだと武井さんは見る。

「障害者や高齢者に助けが必要ならば手助けするのは当たり前のことで、段差があれば誰かが抱えますし、排泄の介助もいといません。差別も過剰な心配もせず、誰もが普通に生活できるところが素晴らしい。支援制度が進んだ日本がいいのか、モンゴルの社会がいいのかは考えさせられるところです」

   現在も家族ぐるみの交流を続け、日常的に連絡を取っている武井さんとエンフムンフ先生。機を同じくして通信制大学で社会福祉についての学び直しを始めた。特に相談したわけではない。

「多くを話さずとも、そういう人だと互いにわかっています。二つの国の障害者福祉について学び合うつながりがずっと続いていくでしょう」

新時代を迎えたリハビリの現場で
作業療法の技術を伝える

   モンゴルでは医療リハビリテーションの歴史も浅い。理学療法や作業療法など、専門家のサポートの下で患者自身が訓練を行い、生活や自立に必要な動作を回復するリハビリの概念が注目され始めたのは2000年頃。その後、群馬大学などの協力で現地の大学に理学療法学科がつくられて最初の理学療法士が誕生したのが11年だ。

   作業療法士の育成開始も同時期で、大槻美佳さんが派遣された16年当時、現地大学での養成が始まってまだ3年目。配属先のシャスティン国立第3中央病院のリハビリ科に専門の作業療法士はおらず、作業療法の研修を受けた看護師2人が同僚であり、CPだった。

   この病院は脳外科と心臓外科の高度な医療提供に特化し、モンゴル全土からの患者を受け入れていたが、健康保険の制度上、入院期間は10日と短く、その間にリハビリも行わなければならなかった。リハビリに携わる医師の知識も深いとはいえず、診断や処方が疾患に対して画一的になされていることが大きな課題だった。

地方で開催したセミナーで、大槻さん(右上)をモデルにして作業療法の説明をするカウンターパート(左)

地方で開催したセミナーで、大槻さん(右上)をモデルにして作業療法の説明をするカウンターパート(左)

   患者一人ひとりの身体に向き合い、患者と会話をしたり身体に触れたりして状態を確認しながら治療できるよう、大槻さんはマンパワーとして患者のリハビリに取り組む一方で、リハビリの質の向上に向けた活動を行った。

   同時期に派遣されていた理学療法士隊員と共に、患者の身体評価方法や画像の見方、治療法、難病の知識や患者への関わり方まで、リハビリ科全体を対象にした勉強会などを開催した。

   ただ、1日に患者約20人を任されていたという大槻さん。同僚も同じく多忙で、現場で実技を指導する機会が少ないことに悩んだ。そんな時に開催されたのが、モンゴルの医療・保健系隊員の分科会「ソロンゴ(モンゴル語で虹の意)の会」が主催した、地方の医療関係者に向けたセミナーだった。大槻さんはCPに作業療法についての講師役を依頼し、一緒に資料を作ってセミナーに臨んだ。「患者の身体機能を評価して、それぞれに合った治療を行うことが大切だ、と教えたことをCPが堂々と話していて、大事なことは伝わっていたんだなと安心しました」。

   他方、日本の病院では急性期の患者対応を中心にしていた大槻さんは、退院後の生活を知る機会が少なかったが、モンゴルでは難病患者が身体の機能を取り戻して生活復帰するまでの変化を目の当たりにする貴重な経験をした。

   例えば、20代前半の女性で、当初は全身が動かない状態だったが、入院治療を経て歩けるようになり、退院後もリハビリを続けたことで車の運転もできるまでになったケースがある。「妹の助けを借りずに自分で髪を洗いたい」という彼女に洗髪用の自助具を作るなどして仲良くなった大槻さん。彼女が運転する車に乗せてもらい、首都郊外の草原にある自宅へ遊びに行った。

「当時、彼女は右肩こそ上がりませんでしたが、できることがどんどん増えて、活動の場を広げていきました。今も元気な様子をYouTubeで発信しています。生活の中で患者さんの持つ可能性の高さを感じることができ、私にとって大きな学びになりました」

   入院中から家族がつきっきりで介護し、退院後も支え合うモンゴル社会の在り方は大槻さんの心にも深い印象を残した。自身も帰国後、同居する高齢の祖母のケアを家族と共に行いながら働いてきた。作業療法士としての仕事を続けつつ、モンゴルと日本の作業療法士界の連携を模索している。

地方の職業訓練校の
PCインフラ整備に奔走

CPらと一緒にPCの分解・修理授業の準備を行う冠城さん(右端)。「壊れたPCの中から使える部品を組み合わせて使うことなどを教えました」

CPらと一緒にPCの分解・修理授業の準備を行う冠城さん(右端)。「壊れたPCの中から使える部品を組み合わせて使うことなどを教えました」

   モンゴルの協力隊の特徴の一つが、職業訓練分野の隊員が多いことで、とりわけコンピュータ関連の要請は多い。地方都市でPCの導入が進み始めた頃、IT課題に取り組んだ隊員の一人がPCインストラクターとして2011年に派遣された冠城忠孝さんだ。

   任地のセレンゲ県スフバートル市はロシアとの国境近くにある人口2万人ほどの小さな都市。配属先は生徒数400名、教師数20名の職業訓練校で、PCコースの学生のみならず、他の専門コースの学生や教師への基本的なソフトウエアの使い方の指導と、校内のネットワーク・ハードウエアのトラブル対応を要請されていた。

   もっとも、「活動の8割は校内のPCインフラ整備に費やしていました」と振り返る冠城さん。校内にある60台のPCがすべてウイルスに感染し動作が不安定で、授業を行う以前の状態だったためだ。CPである2人の同僚教師は経験が浅く、ライセンスやセキュリティなどITに関する知識の低さも校内にウイルスが蔓延した原因だった。さらに、インターネット接続に必要なLANケーブルは校舎の石壁に穴を開けて外部を経由して配線されていて、冬のマイナス40℃から夏のプラス40℃にまで変動する環境にさらされることで劣化が激しかった。

   CPは数学など他教科との兼任のため多忙で、冠城さんはLAN配線のやり直し工事を含め、PCのインフラ整備を一人で行っていった。セキュリティソフトの使い方をパワーポイントなどにまとめ、データとプリントアウトした紙の両方で校内に配布した。

   また、市内にPCを扱う店が少なくPCを修理できる人もいなかったため、赴任からしばらくすると他の施設や一般の人からもPCの修理依頼が来るほどになった。冠城さんはいつでも対応できるよう、公私を問わず修理セットを持ち歩いていたという。

   そんな中で冠城さんが驚いたのが、PCや普及し始めたばかりのスマートフォンに対する生徒たちの熱心さだ。当時、モンゴルで主流だったWindowsの表示言語は英語がほとんど。旧ソ連圏のモンゴルでは当時も学校教育で学ぶ第1外国語がロシア語で、生徒は英語のPC用語がわからなかった。

「海外からの輸入品が多く、新しいものには抵抗がないモンゴル人ですが、読めない言葉で表示されているものは難しいはず。でも、生徒たちは操作に熱中している。私自身はPC関連の知識を独学しましたが日本語や英語表示なので理解しやすかった。学生たちははるかに大変なことをしているわけで、よほど好きなんだなと思いました」

   冠城さんは、「将来、生徒の雇用にもつながれば」と試験的にPCを分解・修理する授業を行った。壊れたPCの中から使える部品を組み合わせて使うことなどを教えると、物を修理して使うことが好きなモンゴルの生徒たちは興味津々だった。この授業のカリキュラム化まではできなかったが、生徒たちは基本的なソフトを使えるようになり、学校の教師の半数はウイルス対策ができるようになった。

   実は海外に出たのは協力隊が初めてという冠城さん。モンゴル語でPC技術を教えるために、派遣前から単語を調べて電子データに取りまとめていた。活動中に専門用語も含めてコツコツと語数を増やし、分野もITにとどまらず医療や教育などにも広げて、ジャンルなどから容易に検索できる約4000語から成る単語集を作成した。

「隊員連絡所に、先輩隊員が残した日常会話のフランクな表現を集めた資料があり、それを使ったおかげでモンゴル人との距離が縮まりました。私も、PC隊員としてできることで他の隊員の役に立ちたい思いもあり、連絡所のPCに単語集を残してきました」

「子ども中心の教育」へ
転換にもがく教師たちを支援

巡回先の小学校で模擬授業を行う中川さん。「子どもが表現したいことと、その理由を探って、表現することを手伝ってあげようと先生たちに伝えています」

巡回先の小学校で模擬授業を行う中川さん。「子どもが表現したいことと、その理由を探って、表現することを手伝ってあげようと先生たちに伝えています」

   現在、小学校教育隊員として活動中の中川絵梨子さんは、2022年7月から首都ウランバートル市バヤンズルフ区教育課に派遣され、区内の小学校を巡回して図画工作授業の質の向上に取り組んでいる。19年からドンドゴビ県の小学校で7カ月ほど活動したが、コロナ禍で帰国となり、異なる要請・異なる任地での再派遣となった。

   モンゴルの教育政策では長く行われてきた暗記中心の教育が見直され、「子ども中心の教育」の新指導要領が推進されているが、現場の教師たちは従来の教え込み型教育から脱却できておらず、その転換を図ろうとしている。

「お手本どおりに描いたり作ったりするのを優れていると褒めるのではなく、子どもが表現したいことを手伝い、力を伸ばしてあげようと伝えています」

   中川さんは1校に1カ月半かけて巡回し、3校の指導を行っている。現場の教師と一緒に授業法の改善を考えて実践し、2巡目では他校の教師も招いて意見交換や振り返りを行い、よりよい手法を目指すというやり方だ。

学校の教師に向けたセミナーの様子。モンゴル語でどこまでニュアンスが伝わっているのかはくみ取りにくいため、フォーム作成ツールによるアンケートなどでニーズの把握も欠かさないようにしている

学校の教師に向けたセミナーの様子。モンゴル語でどこまでニュアンスが伝わっているのかはくみ取りにくいため、フォーム作成ツールによるアンケートなどでニーズの把握も欠かさないようにしている

   巡回指導をするようになって気をつけているのが服装だ。モンゴルの教育現場ではきちんとして威厳のある見た目が重視され、教師たちはスーツに準じた服装で靴などにも気を配る。「私も日本の学校にいた時よりもずっと身だしなみをしっかりしていて、図工を教える時はエプロンを着けて対応しています。日本でもモンゴルでも印象は大切ですよね」

   そんなモンゴル人も好きなのがSNSで〝映え写真〟をシェアすること。そこに着目した中川さんは、巡回先の学校ごとにFacebookのグループを設けて積極的に校内や学校間での教師たちの情報共有を図っている。

   授業やセミナーの様子を写真と文章で紹介し、インターネット上で回答してもらった巡回指導についてのアンケート結果も投稿する。さらに、それらをまとめて報告書にし、行政職のため巡回指導には同行してこないCPに定期的に提出している。CPはカリキュラムなどを決定する担当者でもあるため、温度感を含めた現場の状況を知っておいてほしいとの思いからだ。

   モンゴルでは社会主義時代に女性の社会進出が進み、学校現場にも女性教師が多い。働く女性の出産、子育てのサポートをするのは家族や親戚に限らず、知人が留学などで海外へ行く人の子どもを預かることもよく聞く話だという。「社会で子どもを育てる意識がそれほどあるのはうらやましいです」。

1クラスの生徒数は50人ほどと日本よりも多い傾向にあり、担当する先生は体力面で大変な部分も大きいという

1クラスの生徒数は50人ほどと日本よりも多い傾向にあり、担当する先生は体力面で大変な部分も大きいという

   教師からも子どもに対する愛情の深さと、作品を褒めたい、可能性を広げてあげたいという気持ちを強く感じるという中川さん。「新しい教育方法を知識として理解していますが、自身はそうした教育を受けてこなかったため、どうしたらいいのかわからずにもがいているという状況なのでしょう」。

   現場では教員の集中力が続かず、授業中におやつを食べたり、スマートフォンで話したりしている場面を目にすることもあるが、「担任する児童数の多さや日々の多忙さを知っているので、その程度は仕方ないなと思ってとがめたりはしません。私が関わった先生方が今後出会い、影響を与えていくであろう子どもたちの数を思うと、やりがいの大きさを感じます。もちろん教育方法に絶対の正解はなく、私のやり方もあくまで選択肢の一つですが、私が伝えたことを少しでも記憶に残してくれたらいいですね」と中川さん。来年3月の任期終了まで奮闘は続く。

活動の舞台裏

モンゴルの冬の楽しみ
冬の魚釣り。凍った川に穴を開けて行う

冬の魚釣り。凍った川に穴を開けて行う

   例年9月には雪が降り始め、厳寒期には気温がマイナス40℃に達することもあるモンゴルの冬。セントラルヒーティングが入った建物ならば、部屋の中は常に温度が保たれて暖かい。つい屋内にこもりがちになりそうだが、普段は体験できないことを楽しむ機会でもある。

「外で濡れたシャツを振り回して凍らせたり、凍ったバナナで釘を打ってみたり、沸騰したお湯をまいてダイヤモンドダストを発生させたりといった実験をやってみる隊員もいました」とロシア国境に近い北部のセレンゲ県にいた冠城忠孝さんは振り返る。

「空気が乾燥しているため日本と比べてカラッとした寒さで、それほどつらくは感じません。家畜が冬に向けて脂肪を蓄えるので、人々もその肉などを使った食事で身体を〝冬仕様〟にして寒さに備えるようです」という武井真由美さん。元来アウトドア派の武井さんは「マイナス10~20℃程度で空が晴れていたら『今日は暖かいね』なんて言いながら、現地の人と川や湖に行って氷に穴を開けて釣りをしたり、ソリ滑りをしたりしていました」。モンゴルの人々に倣って、冬の楽しみ方も見つけてみたいものだ。

活動の舞台裏

発展の進むウランバートル
ウランバートルのゲル地区(大槻美佳さん提供)

ウランバートルのゲル地区(大槻美佳さん提供)

ビルが建ち並び、車の交通量も多いウランバートル(中川絵梨子さん提供)

ビルが建ち並び、車の交通量も多いウランバートル(中川絵梨子さん提供)

   社会主義からの転換を経て、近年は首都ウランバートルの都市化が一気に進んできた。民主的な憲法に則った土地私有化で人々は自由に居住地を選択できるようになり、雪害などで家畜を失った遊牧民が親戚・知人を頼って首都に定住するケースも増加。1998年に約65万人だった人口は、2018年には約149万人にまで増加した。

   コロナ禍の前後で地方と首都両方の生活を経験している中川絵梨子さんは、「前任地はゴビ砂漠に近いため家の中が砂だらけになりやすく、停電は日常茶飯事で断水もたまにあり、物流も不安定で野菜の入手さえ大変でした。一方で、再赴任先となった首都にはコンビニがあり、日本の100円ショップまで進出していて不自由なく生活できる。別世界のようです」とその違いを話す。

   地方からの移住者の多くが暮らすのは、道路や上下水道などが未整備のエリアに移動式住居のゲルを建てた通称「ゲル地区」。冬は石炭ストーブの排煙などが増え、ウランバートル全体で空が曇るほどの深刻な大気汚染が起こる。日々の暮らしでマスクが欠かせなくなるが、眼鏡をかけていた大槻美佳さんは特に大変だった。「マスクから漏れる息でレンズが曇って凍るので、眼鏡を外して歩かなければなりませんでした」。

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位

知られざるストーリー