派遣から始まる未来
進学、非営利団体入職や起業の道を選んだ先輩隊員

私農耕SHOW~農タメ~を始動

宮 海彦さん
宮 海彦さん
パナマ/体操競技/2004年度2次隊・東京都出身






農業+エンターテインメントで
自給自足的生活の素晴らしさを伝える

「体操競技をしてきた自分にとってはたわいもない運動でも、パナマの人たちは喜んで学んでくれた。日々を楽しんでいる人が多く、学ぶことのほうが多かった」という隊員時代

「体操競技をしてきた自分にとってはたわいもない運動でも、パナマの人たちは喜んで学んでくれた。日々を楽しんでいる人が多く、学ぶことのほうが多かった」という隊員時代

   畑や田んぼをテーマパークにして体を使ったゲームをすることが農作業にもなる。厳しい肉体労働のイメージがある農業に遊びやエンターテインメントの要素を盛り込んで自給自足的な生活の素晴らしさを伝える――。そんな「エンターテインメント農体験」、略して「農タメ」を提供しているのが熊本県菊池市在住の宮 海彦さんだ。

   宮さんには役者としての顔もある。世界的なエンターテインメント集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のパフォーマーとして10年弱も活動し、その後も海外で活躍しているのだ。2023年の夏はカナダに2カ月間滞在し、上演時間が7時間に及ぶ舞台に出演。農業も農タメも演技も「やりたい」仕事であり、収入を一番の目的にしたことはないと言い切る。

「お金はただのツールであり、シンプルな暮らし方でも十分に豊かに幸せになれる、とJICA海外協力隊の2年間で確信したからです」

7月に行った「農タメ」イベント、「田んぼPK」。サッカーゴールは竹と魚網で作った

7月に行った「農タメ」イベント、「田んぼPK」。サッカーゴールは竹と魚網で作った

   宮さんによれば、経済的にも物質的にも世界でトップクラスに豊かな国である日本で、自殺率が高かったり幸福度が低かったりするのはおかしく、人々の不安の根本原因は「お金が足りない」のではなく「生活ができなくなる」ことだと看破する。

「農業に携わって自給自足に近づけばその不安は解消されます。自分たちの生き方が遠い国の人の環境にも影響を与えていることに気づく余裕も生まれるでしょう」

   個人を幸せにし、世界を平和にすること。農タメを手がけるグループ「私農耕SHOW(しのうこうしょう)」の使命を明言する宮さん。その言葉と表情には気負いも迷いも感じられない。

   しかし、協力隊に参加する前後の宮さんは大いに迷っていた。幼い頃から体操競技一筋の生活を送っていて、インターハイでは種目別の優勝を達成。オリンピック出場を目指したが、大学時代に視野が広がったこともあって練習に打ち込めなくなった。「そんな自分が体操界に居続けることへの恥じらいもあって応募したのが協力隊です。文化も言葉も異なる場所で自分は生きていけるのかを試す気持ちもありました」。

森永武志さん(エルサルバドル/環境教育/2009年度4次隊)と、妻の真弓(旧姓 田上)さん(エルサルバドル/手工芸/2009年度4次隊)とは、菊池市で偶然知り合い、意気投合。現在、宮さんは森永さんの畑「どんたけし農園」を手伝いながら、森永さんを含めた農家仲間と共に「私農耕SHOW~農タメ~」を行っている 

森永武志さん(エルサルバドル/環境教育/2009年度4次隊)と、妻の真弓(旧姓 田上)さん(エルサルバドル/手工芸/2009年度4次隊)とは、菊池市で偶然知り合い、意気投合。現在、宮さんは森永さんの畑「どんたけし農園」を手伝いながら、森永さんを含めた農家仲間と共に「私農耕SHOW~農タメ~」を行っている 

   派遣国はパナマ。体操競技のコーチとして体育教育の普及やナショナルチームの強化に取り組んだが、教えてもらったことのほうが大きいと宮さんは振り返る。

「それまでの僕は競争して勝たなければいけないという価値観に浸り過ぎていました。パナマの人たちから勝ち負けではない豊かさを教えてもらいました。彼らは、たとえば市場経済が破綻しても食べていけます。ただし、乱開発などの環境変化には極めて弱い存在です。そのことを(開発する側の)先進国の人間である自分が知らずに生きるのはズルいとも感じました」

   帰国後は国際機関への就職を目指して渡米。しかし、生活の糧を得るために就いた体操教室で子どもたちを指導したところ、まだまだ体が動く自分がいた。「体操競技への未練があり、人生で足りないものを埋める」気持ちでシルク・ドゥ・ソレイユに応募して合格。新規ツアーショー「トーテム」のメインロゴキャラクターにも抜てきされた。以来、世界各国の46都市で3085回の公演に出演した。その演出家に見いだされて、引退後も役者として舞台に立ち続けている。

「パナマでの経験で自給自足の暮らしには以前から強い興味がありました。でも、パフォーマーとしてやり切ったからこそ、納得して農業と農タメに取り組めているのだと思います」

取材日には、どんたけし農園で自然栽培した藍の葉を使い、真弓さんが講師を務めて「藍のたたき染めイベント」を開催した

取材日には、どんたけし農園で自然栽培した藍の葉を使い、真弓さんが講師を務めて「藍のたたき染めイベント」を開催した

   シルク・ドゥ・ソレイユで得たものは納得感と海外人脈だけではない。世界最高峰のエンターテインメント集団でコーチも兼任し、人を喜ばせることの素晴らしさを知り、そのクオリティを高く維持する姿勢を身につけた。

「プロのエンターテイナーとして、面白いことだけを提供したい。楽しくて、一つひとつに意味があるような動きを農タメで提案しています」

   宮さん自身はプロ農家ではない。菊池市で出会った農家の夫婦と意気投合。その農作業を手伝うことで食材を得て、農タメも一緒に運営している。

   人は一人では生きていけない。しかし、お金はなくても生きていける。そのことを宮さんは全身を使って伝え続けている。



宮さんの歩み

幼少よりさまざまなスポーツに打ち込み、高校時代に体操でインターハイ種目別優勝。

オリンピックを目指しましたがかないませんでした。人生に迷って、『自分はなぜ生きるのか、どう生きるのか』という哲学的な問いを立てたのです。『死ぬ時に笑って死ぬため』という答えが出ました。

2004年、明治大学経営学部を卒業後、すぐに海外協力隊としてパナマに派遣。

語学などの研修も受けられて、生活費も協力活動完了金も出してくれる制度は本当にありがたいと思いました。この2年間が僕の人生を変えたのは間違いありません。

2007年、国際機関への就職を目指して渡米。カリフォルニア州の体操教室でコーチとして働

子どもたちに体操を理論的に教えていたら、自分自身の練習に無駄が多かったことに気づきました。才能を生かし切らずに引退してしまったことを後悔し、可能性の限界までやり切りたいと強く思いました。

2009年、シルク・ドゥ・ソレイユに応募して合格。

まさに天職でした。できることなら一生続けたいと思いましたが、体はだんだん動かなくなります。レベルを落としてまでしがみつくのは誰のためにもならないと思い、2018年に引退しました。

2020年、自転車で日本一周。有機農家を巡る。

コロナ禍で役者としての仕事がなくなってしまったのがきっかけです。菊池市は移住者を柔軟に受け入れていて、地球環境に配慮した農業など好きなことをやっている人たちがいました。やりたいことがすぐにできる場所だと思い、移住を決めました。

2022年、菊池市に移住。志を共にする農家の下で空き家に住まわせてもらい、普段は農家と共に労働し、農家からは野菜を頂く。並行して仲間と「私農耕SHOW~農タメ~」を開始。

毎月1~2回は対面のイベントを行います。菊池に来られない人のためのオンラインサロン『農らいんサロン』も行っています。

Text=大宮冬洋   Photo=ホシカワミナコ(本誌) 写真提供=宮 海彦さん

知られざるストーリー