派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[インド]

多様な文化を理解しつつ
課題に取り組む隊員たち

アジアで2番目となる広大な国土に、世界1位の人口を誇るインド。
異なる文化が根づく各地域での活動はバラエティに富んでいる。

河野眞典さん
河野眞典さん
野菜/1971年度1次隊・愛媛県出身

PROFILE
祖父母が北米への移住者だったことから子どもの頃から海外に憧れ、アフリカで農業をしてみたいと東京農業大学で国際農業開発を専攻。卒業後1年ほど野菜農家で実習後、協力隊に参加。帰国後は郷里の農業協同組合に就職。1983年に1年休職しJICA専門家としてバングラデシュで農業指導。現在、みかん農家を営む。数年に1度、インドに通い、お世話になった人を訪ねている。著書に『写真集 懐かしきインドの人びと』『インドの残像』『太平洋の虹橋』(共著)。

光畑 梢さん
光畑 梢さん
青少年活動/2014年度3次隊・岡山県出身

PROFILE
高校生の頃から海外に憧れ、人のためとなる国際協力分野へ進むことを決意。協力隊で青少年活動をしたいと教職課程を履修し、塾や体操教室のアルバイト、子どもの野外キャンプサークルで活動。大学4年時に休学して協力隊に参加。卒業後はJICA関西に勤務後、オランダのエラスムス大学大学院で開発のための社会政策を学んだ。オランダの国際協力NGO勤務を経て、現在は在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館で草の根無償資金協力事業を担当。

岩水耀平さん
岩水耀平さん
ラグビー/2021年度2次隊・東京都出身

PROFILE
3歳でラグビーを始め、高校はニュージーランドにラグビー留学し、日本の大学で選手としてプレイした。家族やラグビーの後輩がJICA海外協力隊に参加したことで関心を持ち、ラグビーへの恩返しとして海外で普及活動をしたいと応募。4年勤務した会社を退職するも、コロナ禍で派遣延期に。1年半の待機を経て派遣。帰国後、インド支社を開設した日系企業に入社し、現在、バンガロール駐在。

岡本 礼さん
岡本 礼さん
日本語教育/2022年度1次隊・福岡県出身

PROFILE
小学生の頃に国際協力ボランティアの話を聞き、協力隊を目指す。大学在学中に英語教師と共に日本語教師の資格を取得。卒業後は2年ほど日本語学校の教員と高校の英語講師をかけ持ちして勤務。JICA海外協力隊に合格するも、コロナ禍で派遣延期に。1年間、新潟県の中高一貫校の英語講師として勤務した後、2022年8月に派遣。

野菜栽培の指導に行きながら
日本庭園造りに取り組む展開に

河野さんが造った日本庭園。後年、訪ねると「竹で作ったあずまやは朽ちていましたが、近くに同じデザインのレストランができていました」

河野さんが造った日本庭園。後年、訪ねると「竹で作ったあずまやは朽ちていましたが、近くに同じデザインのレストランができていました」

   初期のインド隊員を象徴する存在が1971年に派遣された野菜隊員の河野眞典さんだ。任期前半は野菜栽培、後半は日本庭園造りに挑むという波乱に満ちた活動となった。

   配属先はインド中央部にあるマディヤ・プラデーシュ州の州都から約600キロメートル離れた農村。食糧増産のため農家の人々に野菜栽培を指導するという要請だった。

   インド隊員としての洗礼を受けたのは、州政府での着任挨拶の時。「君はここで私に日本語を教えなさい」。中央政府から州政府に出向していた幹部の個人的な要望だった。

   それを断り赴任した村にはカーストの低い人々が多く住んでいた。

「牛ふん(※)が隅に積まれた部屋を住まいとして案内されて憤ったり、近所の子どもたちから中国人と思われて石を投げられたり。しかし私が階層にかかわらずつき合う日本人だとわかると、子どもたちは毎日住まいに遊びに来て、大人とも茶店で話したり腕相撲で盛り上がる仲になりました」

   野菜栽培の指導が始まり、河野さんは任地の農業を観察しながら、持参した種で苗作りを始めた。

「インドのスイカは畑にじかまきだったので、日本式にポットで苗を育てて移植すれば、その間、畑で他の作物を育てることもできます。ポットの代わりにわらで円筒状のものを作って、苗を育てました。でも大失敗でした」

   移植した苗は牛に食べられ、残りは病気と害虫にやられてしまった。

「日本の種はハウス栽培で農薬を使う前提のものです。インドの厳しい気候と無農薬では生き抜けなかったのです」

ヒンドゥー教の僧侶の正装を身に着けた河野さん(左)。右手は穢れないよう赤い布で包んでいる

ヒンドゥー教の僧侶の正装を身に着けた河野さん(左)。右手は穢れないよう赤い布で包んでいる

   2年目を迎える頃、河野さんに「任地を州都に変更し日本語を教えること」という公式文書が届く。あの州政府幹部からだった。JICAインド事務所も今回は断れないと判断。河野さんは州都に移って準備するが、その幹部は異動し日本語教育は立ち消えた。

   そこへ州政府から、「インディラ・ガンジー首相が来るので、会議場に日本の生け花を飾ってほしい」との要望があった。経験はなかったものの自己流で生けると思いのほか好評で、その後、200名の女性を対象にした生け花講座を生花隊員の力を借りて開催、さらには「州都にある未開発の0・5ヘクタールほどに日本庭園を造ってほしい」と要望は大きくなっていった。

「純粋な日本庭園は無理でも、日本的な公園でいいだろうと考えました」

   インド事務所もそれを後押しし予算を日本に申請。河野さんは日本から造園の本を取り寄せて設計図を作成すると同時に、任期を1年延長した。

   庭園は枯山水式にし、ブランコや滑り台を置き、太鼓橋や石灯籠なども図面を描いて業者に作ってもらった。土木作業を行うために毎朝、労働者を雇った。初めての庭園造りの上に、カウンターパート(以下、CP)もおらず、業者や労働者にも指示がうまく伝わらない。河野さんは一人で苦悩し疲弊していった。

   そんな時、茶店で紅茶を飲んで休んでいると、隣の席で同じように一人の労働者が紅茶を口に含んでは深呼吸をし、少しずつ味わう姿を目にした。

「一杯の紅茶で疲れを癒やす最下層のインドの人と私は、命において何も変わらない、同じだと思いました」

   その一件から河野さんは、インドでカーストは低くても力いっぱい生きる子どもたちや貧しくとも頑張る大人の姿、それを乗り越えてきた老人の優しさや誇りを深く感じるようになった。

「3年目はそうした人々に応えたいという思いに突き動かされていました」

   河野さんは見事、日本庭園を完成させた。そこは半世紀を経た現在も市民の憩いの場として親しまれている。


※牛ふん…農村では乾かして燃料にしたり、水に溶いて土間や壁に塗ったり、手を洗うせっけん代わりにするなど牛ふんは大切に活用されていることを河野さんは後から知った。


農村にあるNGOの小学校で
児童の英語と算数の力を伸ばす

児童に英語を教える光畑さん。「児童たちは都市部の子どもたちと比べ小柄で痩せていて、制服、教科書のほか給食も無償で提供されていました」

児童に英語を教える光畑さん。「児童たちは都市部の子どもたちと比べ小柄で痩せていて、制服、教科書のほか給食も無償で提供されていました」

   2006年、日本語教育と柔道からインドへの派遣が再開された。14年の日印間の派遣職種拡大の合意を受け、職種も広がってきた。

   15年に初の青少年活動隊員の一人として派遣されたのが光畑 梢さんだ。配属先は南インドのタミルナードゥ州ヴェルール郊外の農村にある小学校を運営するNGO。州都チェンナイにあるマドラス大学のラム教授が公立学校にも通えない貧困層の子どもたちに教育の機会を与えようと自己資金で設立した学校で、情操教育を行うという要請だった。

   光畑さんは図工や体育、音楽、日本語を教えた。一方で、英語、算数に対する児童たちの理解度の低さを課題と感じ、その2教科の基礎力の底上げにも取り組んだ。

   この学校は準公用語の英語で授業を行い、教科書もすべて英語だった。しかし児童たちが話す言語は任地の公用語・タミル語であり、先生も英語が苦手な人が多く、タミル語で教えていた。そのため、家で宿題に取り組む際、教科書に書かれていることが分からず、学習した内容が定着していなかった。

「小学校で身につけるべき基本的な計算力や英語が身についておらず、これでは中学校に進んだ際に、授業についていけなくなると思ったのです」

   光畑さんは、手遊び歌や児童が楽しめる要素の多い工作を英語を交えて行い、英語に親しんでもらうことから始めた。次に英語とタミル語のフラッシュカードを作り単語や簡単な会話の例文を覚えられるようにし、さらに日々の出来事を英語で他の児童の前で発表させるというステップを踏んだ。これらを2年続けたクラスでは英語だけで授業ができるまでに進歩した。

校庭で児童たちに日本人から寄付されたリコーダーを教える光畑さん

校庭で児童たちに日本人から寄付されたリコーダーを教える光畑さん

   算数の繰り上がりの足し算が苦手な児童には、マス目を描いた紙の1マス内に拾ってきた石を置いて目で見て「10」を理解してもらった。10以上の石は隣のマスに置く。日本の算数で行うおはじきゲームを応用した。担当した4、5年生の全クラスで百マス計算を導入し、時間を計りゲーム感覚で取り組むことを繰り返すと、児童たちの計算能力も上がった。

   しかし、「マンパワーで終わってしまいました」と光畑さん。教員不足で指導法を伝えられる相手がいなかったこともあるが、隊員派遣を要請してきたラム教授が学校に導入を望んだ情操教育や児童主体の授業は、伝統的な暗記中心の教育で育った先生たちには受け入れる素地がなかったためだ。

   教授は先生たちに学校を任せているが、現場の実態や先生たちの気持ちを把握できていない――そこには、インド社会に根深く残るカーストの影響があったと光畑さんは振り返る。

「ラム教授は都会育ちで階層の高い知識層で、先生たちの雇い主です。先生たちは低位カーストの多い農村の出身のため、育った環境や学歴を背景に教育に対する知識や価値観が大きく異なっていました。圧倒的な上下関係もあり良好なコミュニケーションを取るのは難しいようでした」

   光畑さんは難しい人間関係に気づくと自分の立場に悩み、それぞれに配慮し慎重に発言するようになった。

   任期を終えて学校を去る日、児童たちは次々と手を挙げて光畑さんの授業の思い出を発表してくれた。

「普段はシャイで手を挙げない児童まで私と学んだことを話してくれ、少なくとも児童たちの心に残る楽しい学校生活を提供することはできたのかなと胸が熱くなりました」

大会参加のための選手を育成し
ラグビー普及の基盤をつくった

生徒たちにラグビーを教える岩水さん。「14歳以下はタッチラグビーが正式競技で、タックルがあるのは18歳以降のカテゴリーのみ。赴任してからコーチが7人制を教えられないということに驚きました」

生徒たちにラグビーを教える岩水さん。「14歳以下はタッチラグビーが正式競技で、タックルがあるのは18歳以降のカテゴリーのみ。赴任してからコーチが7人制を教えられないということに驚きました」

   インドでラグビーの普及に力が入れられるようになったのは、7人制ラグビー(※)が2016年のオリンピックリオデジャネイロ大会で正式種目に採用されてから。ラグビーはイギリスの植民地時代に伝わったが、広く親しまれるスポーツではなかった。

   21年、インドラグビーフットボール連盟に配属され、コーチとして傘下のグジャラート州ラグビーフットボール協会(以下、RFAG)で青少年を対象にした普及、州選抜チームの指導、コーチやレフリー育成に当たったのが岩水耀平さんだ。

   RFAGの拠点は私立の中高一貫校にあり、同校の体育教師でもあるRFAGコーチと共に同校の生徒たちにラグビーを教えながら普及活動を行った。

   RFAGは、各地の体育教師にラグビーを学んでもらい、それぞれの地域で教えてもらう普及方法を取っていたが、コロナ禍で中断し選手が減少、試合を行えない状況だった。一方でラグビーを州政府の強化指定種目にするという目標も持っていた。政府の強化指定というネームバリューは人集めなどに有利に働き、政府からの予算支援も受けられるためだ。

   目標達成のためにRFAGが考えた戦略は、「できるだけ大きな大会を多く開催すること」。通常はチーム作りに始まり、関係者のレベル向上を経て大会開催へ進むことを考えるが、その逆で、大会を開催していけば新規チームが生まれ、選手やコーチが育つという発想だ。「大胆ですが、それをやってしまうのがインドの人たちです」。

   RFAGは「ラグビー連盟の外国人コーチによる指導が受けられる」と岩水さんの存在をアピールして各地でセミナーを開催。興味を持った学校にチーム編成や大会への参加を促した。

グジャラート州の代表監督として岩水さんが1カ月の合宿で指導した選手たち

グジャラート州の代表監督として岩水さんが1カ月の合宿で指導した選手たち

「この州は交易や工業で発展してきた州で、教育への意識が高く学業が最優先です。生徒にラグビーをしてもらえるよう、CPは学校関係者や保護者を熱心に説得していました」

   岩水さんはセミナー参加者から選手候補を見いだし、短期合宿に招いて指導した。男女別の14歳以下、18歳以下、19歳以上のカテゴリーで、一度に100人以上が集まることもあった。

   指導で苦労したのは、選手たちが飽きやすい上にサボりがちなこと。インドでは多人数を一人で統率することが高く評価されるため、インド人コーチはそのスタイルを取るが、コーチの目が届きにくいため選手たちは上手に怠ける。岩水さんは選手を少人数のチームに分けて練習させ、一人ひとりに目を光らせた。単調になりがちな技術練習もパスだけで数十パターンのメニューを用意し、集中して取り組ませた。

「当初、ラグビーを楽しく教えようとしたらなめられてしまったため、グラウンド内では大声で厳しく指導することに徹底したのも効きました」

   選抜と強化合宿を経て編成された州代表は、全国大会に出場すると、全カテゴリーにおいてランキングを上げた。州の半数以上の地区にラグビー協会もでき、州の強化指定にもつながった。

   岩水さんの帰国直前に行われた州大会には800人が参加した。岩水さんが指導した選抜選手たちは各地で自ら作ったチームを率いて参加してきた。

「教師や親に言われてラグビーを始めた生徒が多かったのに、それぞれのチームでエース兼コーチとしてレベルの高い試合を行えるまでに成長していました。この州のラグビーはもう安泰だと感じました」


※7人制ラグビー…一般的な1チーム15人制のラグビーに対して、1チーム7人で行われる。フィールドを少ない人数でカバーするため、躍動感あるプレーが見られる。試合時間も15人制は前後半各40分なのに対し各7分と短い。


首都の小中高一貫校で活動
生徒たちの向上心に感心する

岡本さんが企画したイベント。インドの人にとっては遠い国である日本を感じられるよう展示も工夫した

岡本さんが企画したイベント。インドの人にとっては遠い国である日本を感じられるよう展示も工夫した

   日本語教育隊員の多いインドでは、初等教育から大学、職業訓練校、日本での研修送出機関まで配属先は幅広い。現在派遣中の岡本 礼さんは大都市デリーの小中高一貫の私立校で教えている。

   親日家が設立したインターナショナルスクールで、外国語教育として日本語を取り入れ、デリー東部地域の進学校としても知られる。日本語は1~9年生は必修科目として、10~12年生は選択科目として学ぶ。

   岡本さんの活動の柱は外国語指導助手(ALT)として二人のインド人日本語教師と共に授業を行い指導力の向上を行うこと。一人は日本に留学経験のある日本語が堪能なベテラン教師で、岡本さんのCP。もう一人は年数が浅い。岡本さんは双方のニーズに合わせ、既存の教科書にない語句や例文を入れた教材作成をしたり、会話の練習相手を務めたりしている。

   低学年の授業で岡本さんは補佐役として1学級約30人の様子を見守る。教科書は使用せず、同僚はヒンディー語と英語を交えながら、日本語の数の数え方や動物の名前を教えていく。

「インドの生徒たちは言語センスが良くて驚きます。アニメで耳にした言葉が出てくると喜んでそれを覚えます」

日本語の授業で自ら鬼を演じて「節分」の日本文化を伝える岡本さん

日本語の授業で自ら鬼を演じて「節分」の日本文化を伝える岡本さん

   高学年に対しては、岡本さんは日本の文化や習慣を紹介する時間を受け持ち、教科書だけでは伝えられないリアルな日本文化を紹介している。例えば「お祝い」については、ひな祭りなどの季節行事や子どもの成長を祝う行事があり、出産や入学、卒業も祝うこと、良いとされる贈り物や避けるべきマナーがあることを伝えた。そして「インドではどうですか」と尋ね、生徒に話してもらう。「そうすることで互いへの理解が深まると思っています」。

   この国は若者が多い半面、就職難で、大学への受験競争も熾烈だ。この学校の生徒も良い学校に進み、良い職業に就くことを目標に懸命に学んでいる。岡本さんは七夕を教え短冊に願い事を書かせた時のことが心に残っている。

「『先生、サクセスは日本語でどう書くの』と複数の生徒に聞かれたのです。日本の子どもたちにはないモチベーションの高さを感じました。成功したい、医者やITエンジニアになりたいと生徒の多くが書いていました」

   岡本さんのもう一つの活動の柱は日本文化の理解促進のためのイベントを企画・開催すること。昨年は「日本の遊びを体験しよう」とのテーマで、配属先の生徒のみならず、デリー周辺で日本語教育を行う10校の生徒を招き、紙相撲、かるた、けん玉、スイカ割りなどを楽しんでもらった。インドの学校の風習にならって地域の名士を招き、その前で生徒によるパフォーマンスも披露してもらった。生徒による日本の踊りは好評で、配属先にとって初の大規模な交流は成功に終わった。

   今年のイベントは4月に開催した日本式の運動会だった。その際に生徒による日本語劇も披露し、日本語教育隊員としての活動を頑張っている。

活動の舞台裏

インドが日本にもたらしたもの
鎌倉時代の禅僧・道元は、洗顔の習慣はインドから中国に伝わったと書いている。写真はガンジス川で沐浴(もくよく)をして穢れを清める巡礼者

鎌倉時代の禅僧・道元は、洗顔の習慣はインドから中国に伝わったと書いている。写真はガンジス川で沐浴(もくよく)をして穢れを清める巡礼者

インドではニームという木の枝が売られていて、人々はそれを使って歯を磨く。「歯木と呼ばれ、2500年前に釈迦が広めた習慣です」(河野さん)

インドではニームという木の枝が売られていて、人々はそれを使って歯を磨く。「歯木と呼ばれ、2500年前に釈迦が広めた習慣です」(河野さん)

   河野眞典さんは、任地に着くとヒンディー語の家庭教師を雇った。その発音に耳を傾けていると、文字の配列が日本語の五十音と似ていることに気づいた。「学ぶうちに、語序までそっくりだと気づきました」。

   はだしで部屋に入ること、床に腰を下ろして座ること、身分の高い僧侶がお膳でご飯を食べることなど、生活の習慣も日本と似ているところがある――。河野さんは古代からの習慣や文化がインドに残っていること、そして形を変えながら中国などを経て日本に伝わったことに興味を持った。

   帰国後もインドに日本の文明の源泉を探る考察を続けてきた河野さんは、2022年、書き留めてきたものを『インドの残像』という本にまとめた。

   そこには、朝に顔を洗うことや歯を磨くことには穢れを清める宗教的な意味合いがあること、10世紀のインドには武士道精神があり主従関係を結ぶ際に同じ釜の飯を食べたこと、「月にうさぎがいる」という伝説はインド仏教の説話からきたことなど、日本人にとって身近なものに対する考察がつづられている。

活動の舞台裏

農村で若い女性が暮らすこと
インドの女性たちに合わせた違和感のない服装で、同僚の先生たちと談笑する光畑さん

インドの女性たちに合わせた違和感のない服装で、同僚の先生たちと談笑する光畑さん

   光畑 梢さんが2年間を過ごしたのは、チェンナイから車で4時間ほど離れたところにある村で、小作農やレンガ工場で働き生計を立てている人が多かった。日本人女性の村での一人暮らしに、配属先の女性教師は親身になって若い女性が安全に過ごすためのノウハウを教えてくれた。

   身体のラインを拾いにくいデザインの服を仕立てること、その服の着方、痴漢に遭わないようにするため、混み合うバスの車内で運転席のすぐ後ろや女性たちと一緒に立つこと、若い男性と一対一では話さないようにすること、酔った人のそばに行かないことなど、注意すべきことはたくさんあった。

「小さな村でみんなが私の家を知っているからこそ気をつけたほうがいいというアドバイスでした。おかげで早く生活になじめました」。村の人たちも光畑さんの活動を理解し、何かと面倒を見てくれるようになった。

   都市部との大きな格差、閉塞感のある村社会、経済的な理由から村の外を見る機会が限られてしまう子どもたち――。開発協力の道に進んだ光畑さんは村の暮らしの2年で得た視点を大切にし続けている。

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位

知られざるストーリー