ジャマイカの人や町が持つ可能性を引き出そうと奮闘した4人の隊員を紹介します。
PROFILE
大学の教育学部体育学科に在学中、協力隊に興味を持つ。休学して体操クラブで子どもたちに体操を教える経験を積んだ後、卒業して協力隊員としてジャマイカへ。活動終了後の2008年、ジャマイカの貧困地区の子どもたちを指導する「西田体操教室」を開設。15年と17年の体操の世界選手権に教え子が出場を果たした。20年、約15年ぶりに拠点を日本に移し、京都で器械体操と英語を一緒に教える体操教室「Tumble Kids」を開いた。
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大学卒業後、鉄道会社に勤務。新潟県内で駅員、車掌として働き、地元の商工会議所やタクシー会社と連携した地域おこしにも取り組む。地域の魅力を発信し、国内外の人を呼び込む観光振興への関心が高まり、協力隊に応募した。帰国後は復職し、車掌として日本酒を味わうイベント列車の外国人向けの英語の案内放送を担当するなど活躍した。現在は、JICA東京で、日本の関東・信越地域と途上国をつなげる仕事に取り組んでいる。
PROFILE
大学院で国際政治を専攻し、東南アジアにおける性的搾取を目的とした人身売買を研究。修了後、西宮市役所に就職、ドメスティック・バイオレンス(DV)被害者やシングルマザーの支援、福祉政策に従事。出向先の内閣府では規制緩和を担当。海外でジェンダーに関する経験を積むため、協力隊に参加。帰国後は国連女性機関、外務省勤務を経て、株式会社メルカリに入社。公共政策チームで、ビジネス分野からのジェンダー平等の実践などに取り組んでいる。
PROFILE
大学卒業後、岡山市消防局で消防士として勤務。学校や地域での避難訓練や救助訓練も行う。コスタリカで防災の活動をした同僚の話を聞き、協力隊に興味を持つ。同僚が関わっていた防災に関するボランティア団体の活動にも参加した。協力隊は2019年度3次隊として派遣予定だったが、新型コロナウイルス感染症流行のため延期に。神奈川県内の中学校で教員をしながら派遣再開を待った。23年6月からジャマイカで活動している。
西田さんが始めた日曜日の無料レッスンに参加して体操の練習をするゲットーの子どもたち
体操に取り組んできた経験を途上国での指導に生かしたいと考えた西田 慎さんは2004年、大学を卒業して間もなくジャマイカに着任した。ジャマイカ体操協会に赴任し、かつて体操隊員として活動した協力隊OVの日本人が運営する体操教室で指導するという要請内容だった。
初めの3カ月は、教室で放課後の子どもたちに指導した。「月謝がかかるので、参加者は裕福な家庭の子どもたちが中心。私には、途上国に来たのだから、貧困層の人たちの役に立ちたいという思いがありました」と振り返る。
そう考えた西田さんは、二つの活動を始めた。一つは、公立小学校で体操を広めること。ジャマイカの体育の授業は陸上競技や球技が中心で、基礎的な体操はほとんど行われていなかった。
西田さんは学校を訪ねて回り、「マットは持参します。無料で指導します」と説明すると、ほとんどの場合、受け入れてもらえた。生徒たちに囲まれ、「ジャッキー・チェン? ブルース・リー?」と聞かれた。「どちらでもないけど、回れるよ。と後方宙返り(バック宙)を披露すると、子どもたちの目が尊敬のまなざしに変わりました」。
週に2~3回、学校で指導した。学校の数は徐々に増え、100人規模の競技会が開けるほどになった。
もう一つの取り組みは、貧困層が住む「ゲットー(※)」の子どもたちへの体操指導だった。彼らは、教室で西田さんが指導している様子を毎回、のぞきに来ていた。
「教室のない日曜日、場所を使わせてください」。西田さんは、教室の主宰者の許可をもらい、無料の体操教室を始めた。子どもたちが才能を伸ばす機会をつくり、悪い道ではなく、スポーツに打ち込んでほしかったからだ。
西田さんの体操指導を受けた児童養護施設の子どもたち
「頑張ったらできた、という経験は、子どもの成長にとても大事です。練習の成果がはっきりとわかることは体操の良いところです。日本の子どもたちは練習を100回やってうまくなっていきます。しかし、ジャマイカではそうはいきませんでした」
西田さんは子どもたちを練習に取り組ませるために、「君たちの目標は何だ?」と問いかけた。「オリンピックに行くことです」と答えが返ってくると、「それじゃあ、練習だ」とはっぱをかけた。子どもたちは1年後には体操の基礎が身についた。さらに1年続けると技を覚え始めた。
その頃に協力隊の任期は終わってしまったが、「子どもたちの親に体操を勧めた時、『自分に任せてください』と言った責任もあります」と配属先やジャマイカ支所に相談し、西田さんは半年間の任期延長に加え、10カ月間の短期ボランティアとして再赴任した。
しかしオリンピックを目指すにはさらなる年数が必要だ。西田さんは08年にジャマイカで自分の体操教室を開き、16年のリオのオリンピックに向けて指導を続けた。
「ゲットーの教え子の家に行ったことがあるんです。そうしたら食料が何もなかった。その子の友達からは、昨日、家の前で銃による殺人があったと聞きました。彼らの状況に顔を背けて、日本で教員を目指す道に戻っている場合ではない、そう感じました」
15年には、世界最高峰の大会・世界陸上競技選手権大会に教え子がオリンピックへの予選を兼ねて出場。「よく、ここまで来た」と思ったが、緊張からか失敗があり、五輪の切符には届かなかった。しかし、ゲットーからの世界選手権出場は、住民たちの大きな希望となった。現在も、当時の教え子たちが体操の指導者として活躍している。
※ゲットー…古くは16世紀のヨーロッパにおけるユダヤ人の強制隔離居住区域を指す。ジャマイカでのゲットーは貧しい人たちが住むスラム街のことで、首都キングストンを中心にゲットー・エリアがあり、ギャングの潜伏場所にもなっている。一方で、多くのレゲエミュージシャンを生み出すなど、ジャマイカの文化を担っている一面もある。
塚元さんは観光案内板を設置するために現地調査を行い、提言を含めて関係者に共有、ファルマスにある裁判所や教会といった歴史的建造物などに案内板の設置が実現した
カリブ海沿岸のビーチリゾートや大自然と触れ合うアクティビティ、レゲエ音楽の聖地として、観光はジャマイカの主要産業の一つだ。
塚元夢野さんは、大都市モンテゴベイにある観光開発公社に赴任して、そこから車で40分ほどの港町ファルマスのオフィスに配属された。公社が同町を新たな観光地にしようと進めていたコミュニティ・ツーリズムやヘリテージ(遺産)・ツーリズムへの参画が主な要請内容だった。
ファルマスは、アメリカのマイアミを出航し、メキシコやキューバなどを1週間で回るクルーズ船の寄港地。朝に入港し、出港は夕方。乗客たちは下船してすぐ大型バスに乗り込み、他の町でイルカとの触れ合いや有料ビーチなどのアクティビティ施設で観光する。クルーズ船や観光施設はアメリカなどの外資系企業が運営していて、地元の利益にはつながりにくかった。
公社では、クルーズ船の観光客がバスツアーで巡った後、空き時間にファルマスの町も見てもらおうと、観光案内板を設置する計画を進めていた。
街には、スペインやイギリスの統治時代の施設が残っていた。外敵に備えた砲台の施設は市場に使われ、要塞は小学校になっている。そうしたところに案内板を設置し、「かつての要塞は今、子どもたちの学びの場所になっています」などの説明を載せ、歴史や文化を紹介する。こうした案内板を約10カ所に設置した。
「大きな観光マネーの一部だけでも、地元の土産店や観光業に落ちていくきっかけになれば、という気持ちでした」
設置後には、街を歩く人が増えた。塚元さんたちは、住民にも町の価値に気づいてもらおうと、「ヘリテージ・エキスポ」も企画して、住民や子どもたちにも町の魅力に気づいてもらった。
草木染めのワークショップを行うファルマスの土産店の女性たちと塚元さん。染めた布でランチョンマットとコースターのセットを作った。「私の帰国後にも草木染めの商品作りを継続してくれていて、嬉しかったです」
塚元さんには、他にも気になっていることがあった。地元ならではの土産物が少ないことだ。各土産店の商品は、中国製のマグカップやTシャツばかり。そこで、日本の草木染めの技術でジャマイカの天然素材の布を染め、商品化の可能性を模索することにした。
「ファルマスにしかない草や木がたくさんあり、原材料費もかからない。そこから価値を生み出す経験を、地元の人たちにしてほしいと思いました」
いろいろな草木を試したところ、ゴーヤの葉や、地元民から「アーモンド」の通称で呼ばれる木の葉を使うと、鮮やかな黄色に染めることができた。
「以前から一緒に活動してきたファルマス工芸品協会の女性リーダーも、『とってもいいじゃない、やりましょう』と、会場を用意してくれました。職場の同僚も予算捻出の案を出したり、様子を見に来てくれたりしました」。
一方で、鉄道会社で働いていた塚元さんは時間を守らない習慣になじめなかった。「9時から」と約束した会議の始まりが10時30分になると、「自分が尊重されていない」と感じたという。
ある時、市場で、「ジャマイカの人は時間を守らないし、適当だし、日本では考えられない」とぼやいた。すると野菜を売っていた年配の男性が、「でも、日本人はカローシ(過労死)で亡くなるよね」と言った。塚元さんは、「この言葉も世界に知られているんだ!」と衝撃を受けた。
「ジャマイカ人からは、のんびりさとパワフルさの両方を感じました。日本人のように、せわしなく生きるだけが正解じゃないと気づいた瞬間でした」
ジェンダー諮問委員会に向けて中田さんが作成したポンチ絵による資料をジェンダー局局長(中央)と共に大臣(左)に説明しているところ。「大臣からも評価を受け、国会で使用・配布されることになりました」
世界経済フォーラムが発表している世界のジェンダー・ギャップ指数ランキング(2023年)でジャマイカは24位。125位の日本と比べ、ジェンダー平等が非常に進んでいるとされる。しかし実際には、女性に対する暴力が大きな問題となっている。女性への暴力撲滅などの法改正の周知や効率的な行政運営の支援をしたのが、中田美沙貴さんだ。
中田さんの活動は、文化ジェンダー娯楽スポーツ省ジェンダー局の局長のサポート。着任初日から、ジャマイカやサモアなど、小さな島の国々でつくる「小島嶼開発途上国(※)」の発展のための行動計画に関するプレゼンテーション資料の作成を依頼された。近日中に、関連の会議があり、局長が説明する予定だった。
「配属当初は局長の好みがわからず手探りでしたが、内閣府で法改正に携わっていた際に、ひたすら資料作成をした経験が役に立ちました。国は違えど、〝行政〟であることに変わりはなく、スキルは生きると実感しました」
中田さんは、プレゼン資料の作成やリサーチなどを担当した。そんなある日、ジェンダーに関連するジャマイカの四つの法令改正に関するプレゼン資料の作成を頼まれた。
女性の社会進出が進んでいる一方で、障害者への差別意識や家庭内暴力は深刻な問題だった。また、シングルマザーが多い状況もあった。法改正は、DV法、児童保護法、暴行罪、性的暴行罪の厳罰化に関するものだった。
ジャマイカの省庁で説明に使われる資料は、何枚にもわたるスライド資料か文章主体のものしかなかった。一方、日本の官公庁には、物事の要点を図表やグラフ、簡潔な文章で1~2枚の用紙にまとめる「ポンチ絵」がある。ポンチ絵は、忙しい幹部職員や議員への説明などに使われる。中田さんは、派遣前に勤務した内閣府での経験を生かし、ポンチ絵の活用を考えた。
「4法令すべての新旧対照をして、要点をピックアップするだけでも大変でした。1枚で概略をつかめるポンチ絵は必ず役立つと思い、局長に提案したところ、『今までジャマイカにこんな資料は存在しなかった』と、とても喜んでもらえて苦労が報われました」
中田さんが作成したポンチ絵によるDV法改正についての資料。イラストを入れ、説明の中で強調する部分に太字や赤字、下線を使い、ポイントがつかみやすい
その後、大臣や関係する局長らが出席する会合や国会の小委員会での説明で、中田さん作成のポンチ絵が使われた。局長はポンチ絵を持ち歩き、他の職員にもポンチ絵を作らせた。
印象に残っていることの一つが、運営サポートとして関わった軍隊対象の3日間のワークショップ。軍人がDVで妻を殺してしまった事件を国が問題視し、再発防止のために開かれていた。各部署の代表が参加し、男性が6割、女性が4割だった。「家庭内でのレイプは起こり得るか」などのテーマで意見を求めると、男女それぞれの視点や角度から議論は白熱した。
ある男性大佐が「ジェンダーの問題は女性の問題だと思っていたが、男性の問題でもあると気づいた。自分の部署でもこうしたワークショップをやるべきだ」と話したことも忘れられない。
自分が離任した後も、ポンチ絵の資料が作られるように、中田さんは同僚たちに作り方を教えて帰国した。「法律の趣旨などについて、国会議員はもちろん、地方の人や子どもたちにも伝えてもらいたい」と願いながら。
※小島嶼開発途上国(SIDS)…小さな島で国土が構成される開発途上国。海面上昇や少人口、自然災害など共通の課題を持つ。太平洋、カリブ、アフリカ地域などの38ヵ国が国連が公表したSIDSリストに掲載されている。
保育園の先生たちに避難時のクリップを使ったシミュレーションを行ってもらう京野さん。「こうした場面でもジャマイカの人たちからは活発に意見が出てくるので楽しいです」
ジャマイカは大西洋のハリケーン・ベルトに位置していることから、大規模なハリケーンや、熱帯性暴風雨による洪水、土砂災害に幾度も見舞われてきた。防災・災害対策隊員の京野慶太郎さんは、元消防士の経験を生かして活動している。
京野さんの配属先は、ポートランド県事務所の防災課で、保育園や幼稚園、小学校での避難訓練の実施に取り組んできた。
京野さんは日本で、消防士として多くの防災訓練に関わってきた。「心肺蘇生などの救急法を学んだ参加者が、『自分にもできる』と自信を持ってくれることに喜びを感じていました」。さらに、防災関係の団体でもボランティアとして活動してきた。その際に活用していたシミュレーションゲームをジャマイカでの活動にも取り入れた。
「学校の地図を描いて、その上に生徒・先生の数だけ、クリップを並べます。『先生がケガをした』『生徒が煙を吸い込んで動けなくなった』などの状況を設定し、避難するまで、どんな事故が起こり得るか、その時、どうするのかを考えてもらうのです」
シミュレーションを行ったある保育園では、「園には子どものほか、自分で避難できない赤ん坊もいて、有事の際にどう動くかが問題だったので、改めて避難訓練の大切さに気づきました。今後は定期的に実施しようと思います」と言われた。その園ではその後、複数回の避難訓練を行った。
ジャマイカでは1907年に多くの犠牲者を出した津波以降、大きな津波には見まわれていないが、島国のため海に面した場所が多い。カウンターパート(以下、CP)から「防災の話をする時は、必ず津波の話もしてほしい」と言われ、その要望にも応えた。
避難訓練を行う小学校などに京野さんは地元の消防士と共に訪問して指導に当たった
現在は、警察や消防、公民館など、機関ごとの防災計画作成の支援に力を入れている。防災意識が高くない機関では、防災計画を書いただけで終わりにしているところもあったが、京野さんは避難手順の確認や、できれば実際に訓練を実施することにつなげてもらえるように重要性を伝えている。
普段、防災活動には関わらないが、災害時には避難所運営に当たる県事務所の同僚に説明した際は、「自分がどんな役割をすればよいかなど、学ぶことが多かった」と評価された。
京野さんはジャマイカ人の魅力の一つにフレンドリーさを挙げている。「職場で仕事が忙しくても、同僚たちは会話を楽しんでいます。私も立場や年齢を超えて気軽に親しく話し合うことができています。議員の一人は、毎日私に『おはよう!』と日本語で挨拶してくれます」。
実は京野さんは、赴任当初にCPとの関係に悩んだ時期がある。
「明日やりましょう、と話した翌日、職場に来なかったり、すぐにやると言った後、姿が見えなくなったり」
「防災の話を聞きたい」という近隣の小学校を訪れて話をした後、CPから「指示なく、そういうことをしないで」と注意を受けたこともある。
約半年後、企画調査員(ボランティア事業)も交えて、お互いの腹を割って話し合い、CPがしてほしいこと、京野さんができることを共有してからは、関係が改善され、仕事を任されることが多くなったという。
「今後、取り組みたいことの一つは、津波に関する案内板の設置です。『高台はこちら』『避難所まであと○メートル』などの案内板を作りたい。CPもやる気なので、ぜひ実現したい」。自身の経験をジャマイカの防災へ生かして命を守る活動を続けている。
ブルーマウンテンコーヒー豆を産出しているUCC農園からキングストン市内を見下ろす(写真:河崎充良支所長提供)
ジャマイカの首都、キングストンの近くに国内最高峰の山、ブルーマウンテン・ピーク(標高2,256m)がある。その周りに広がるブルーマウンテン地区で生産される良質なコーヒー豆が「ブルーマウンテンコーヒー」(ブルマン)だ。輸出されるブルマンの約8割を日本が輸入している。
1981年、栽培技術の指導要請がジャマイカ側から日本に届いたことをきっかけに、UCC上島珈琲株式会社が直営農園を開設。UCCは現地の学校支援や環境セミナーを行うほか、知的障害者支援学校の卒業生がアクセサリーを作る工房に、商品にならなかったコーヒー豆を素材として提供している。工房では、その豆をピアスなどに加工し、Chupse(チュップス)のブランドで販売している。
コミュニティ開発隊員として活動した中田美沙貴さんは、障害者がひたむきに製作に取り組む姿にも、商品そのものにも魅せられ、オンラインショップ「Likkle Nuff」を立ち上げた。Chupseや、ウガンダで同期隊員が立ち上げたクラフトブランドを扱う。現地の「パトワ語」で、「小さな事業でも十分強く継続できる」の意味を込めた。
ポートアントニオのボストンビーチでサーフィンを楽しむ中田さん(中央)
ジャマイカの魅力の一つが海。四方を海に囲まれたジャマイカには、各地に美しいビーチがあり、特に第2の都市モンテゴベイの海は、透明度の高いコバルトブルーの海で知られ、海外からの観光客にも人気だ。
しかし意外なことに、ジャマイカ国内にはサーフショップがほとんどない。もちろん、サーフポイント自体はあり、サーファー向けの日本語サイトにも情報は掲載されている。
コミュニティ開発隊員だった中田美沙貴さんは、活動がない休日に、ビーチでジャマイカ人が経営しているサーフボードのレンタルサービスを利用して楽しんでいた。ボードは輸入品か、外国人観光客が寄附していった貴重なものだった。
「帰国直前に、借りていたボードが割れてしまい、新品も手に入らない中、どうしようかと思いましたが、『君は友達だから』と言って修理用接着剤の費用だけで許してくれたのがありがたかったです」
協力隊の活動を含め、約15年間、ジャマイカに滞在した西田 慎さんも海に魅せられた一人。「休日は海に通っていました。ビーチにいる陽気なジャマイカ人と話すのも楽しかったし、無人島でキャンプをしたり、ロブスターを捕って食べたりしするのが体操以外での一番の楽しみでした」。
Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位