長く変わらぬ課題を抱えるこの国で、隊員は自分を見つめ直しながらヨルダンの人々のために活動してきた。
PROFILE
東京学芸大学卒業後、協力隊に参加。1994~96年、JICA推薦の国連ボランティアとしてUNDPのガザ事務所で活動。その後はJICA本部勤務を経て、エジプトやフィリピン、イラク、パレスチナにおいて、コミュニティ開発、参加型開発、農業、教育などの分野でJICAプロジェクトに従事。2017年からは、エジプトの幼児教育隊員の活動から発展したJICA技術協力プロジェクト「エジプト就学前教育・保育の質向上」のチーフアドバイザーを務める。ヨルダンで始めた隊員有志の人形劇はライフワークとなり、以降も赴任先の隊員たちと人形劇を行い、共に活動した隊員は100名以上になる。
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地域に眠る文化財を地域の人によって守り伝えることに興味を持ち、大学院で山口県萩市のエコミュージアムを研究していた時、サルトへの協力隊短期派遣を知って参加。2012年からはサルトをはじめ、ジンバブエやフィジーでも文化財を活用した観光開発にJICA専門家として携わる。北海道大学観光学高等研究センター特任助教を経て、17年に文化庁初の観光専門職である文化財調査官として入庁し、日本国内の文化財保存活用地域計画の認定に従事している。
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大学で環境学を専攻。在学中にピースボートの船旅でヨルダンのパレスチナ難民キャンプにホームステイしたことで中東や紛争問題に興味を持つ。靴の接客販売、東日本大震災のボランティア、海苔養殖、ラジオ局の番組アシスタントなどに従事しながら、2012年から写真家として活動して被災地、市民デモ、広島・長崎・沖縄などの撮影を行う。再びヨルダンの実情に接したいと協力隊に参加。帰国後は、世界に活動の場を広げて戦時下にある国や地域の実情を発信しており、特にイエメンの取材をライフワークとしている。
PROFILE
英語教員を目指していた学生時代にフィリピンへ短期留学し、スラムの子どもたちと出会ったことで途上国の子どもの教育に関心を持ち、大学4年次に協力隊に応募。2020年度3次隊・小学校教育でジャマイカ派遣の予定だったが、コロナ禍によって3年間の国内待機を経験する。その間、地元の小・中学校で教員経験を積む中で情操教育の魅力に気づき、また、22年のウクライナ侵攻のニュースに接して難民支援に携わりたいと思い、派遣再開にあたって派遣国と職種を変更した。
2000年以上昔を起源とするパレスチナ問題。ヨルダンに暮らす人々のうちパレスチナ系は7割にも及ぶとされる。そのため、難民を活動の対象にしない隊員でもヨルダンでの体験を経て平和構築支援の道に進む人がいる。その一人が1991年に美術隊員として派遣された神谷哲郎さんだ。大学卒業後は日本で教員になるつもりだったが、その前に海外で子どもたちと接して表現者としての力を試したいと協力隊に参加。任期満了後はパレスチナ・ガザ地区に派遣される日本人初の国連ボランティア(UNV)になり、30年来、開発協力の世界で活躍している。
配属先は首都アンマンにあるハイヤ児童文化開発協会の子ども文化センター。芸術・スポーツなど幅広い活動が行われ、講座の他に学校単位での利用や移動式図書館もあった。神谷さんはそこで子どもたちに美術を教えた。当時、派遣前訓練にアラビア語のクラスはなく、学んだのは英語のみ。協力隊が初めての海外渡航だった神谷さんは当初、英語のコミュニケーションもままならず、「ヨルダン人男性が握手の後にハグをしてくることに驚き、日本に帰りたくなりました」と苦笑する。
美術の能力を認めてもらえれば活動がしやすくなると思った神谷さんは、最初の3カ月は美術指導の傍ら、センターの壁画や天井画の制作に取り組んだ。壁画はセンターで遊ぶ子どもたちをピエロの姿に模したもので、動きのある画面構成とカラフルな色使いを意識した。明るく楽しい雰囲気の壁画や大きな天井画は来館者の目を引き、同僚たちからも高く評価された。
子ども向けには、日本の図画工作のやり方を取り入れ、素材の質感を意識しながらの版画や切り絵、友達と協力しながらの粘土作品・迷路作りなどを行い、同僚には道具を保管する倉庫の整理や準備の大切さを伝えていった。
神谷さんが「言葉を超えるアートの可能性を感じた」と振り返る壁画制作。2024年2月に再会を果たした同僚のマハムード(左端)からは、「あの壁画はセンターにやって来る親子を笑顔にし、センターの雰囲気を明るくしてくれた」との嬉しそうな言葉を受け取った
しかし、大学で美術教育を学んだ神谷さんから見ると同僚の技術レベルや指導法には課題が多く、さらにはのんびりとした職場環境も問題に映った。それらをなんとかしなければ、自分が考える子どものための充実した活動ができないと焦りを感じ、神谷さんは問題意識や改善案を周囲やセンター長にぶつけた。それによって人間関係が悪化し、指導法の改善を迫られた40代の同僚は職場に来なくなってしまった。 「当初、壁画やユニークな指導内容が評価されたことで天狗になって自分の価値観を押しつけ、周りも自分をも追い込んでしまいました。2年しかいない協力隊員という立場をわきまえず、独善的でした」と振り返る。
「君がやりたいことは、この国では8年かかるよ」というセンター長の言葉も胸に刺さった。活動2年目に入る頃には、覚えたアラビア語で懸命に話し同僚との関係づくりに努めた。
活動が軌道に乗ると、他の隊員に声をかけて15人ほどで人形劇団をつくった。学生時代に打ち込んだ人形劇を行い、ヨルダンの人と交流したいと派遣前から温めていた計画だった。
劇団名は「アスディカァイ・ヤバニニューン(日本の友達)」。人形劇やパントマイム、手品、日本の紹介などで構成した。休日を使っての人形作りや練習に半年を費やしたが、努力が報われ、配属先での初回公演は子どもたちの笑顔であふれた。その後は、1カ月に一度のペースで地方の施設や難民キャンプでも公演するようになる。公演が終わると食事に誘われ、そこから人脈が広がり、現地社会をより深く知ることにつながった。
忘れられないのは、難民キャンプでの体験だ。小学校の掲示板に貼ってあったのは子どもたちが描いた、爆撃を受ける町や逃げ惑う人々の絵。そして公演のお礼に子どもたちが見せてくれたのは、親族が殺され家族が離散する劇だった。「子どもたちは難民の2世、3世で自分が体験したことではないのに、占領や離散、支配、抵抗のイメージが生々しく表れている。なぜこんな紛争が起きるのか。パレスチナの子どもたちのためにできることはないのか」という思いが膨らんだ。
帰国後、93年に日本政府が積極的なパレスチナ援助を表明すると、JICAの推薦を得て国連ボランティアに応募し、94年ガザの国連開発計画(UNDP)事務所に赴任。人形劇や手品による巡回教育活動のほか、イスラエルへの報復を呼びかけるスローガンが書かれていた壁を、希望や平和をイメージした壁画に変えるプロジェクトを行った。その後もフィリピンのミンダナオ島やイラクなど、紛争から復興に向かう地域の最前線に立った。「国際社会で起こっている不条理や悲しい現実に目を向け、紛争を自分事として捉えるきっかけとなったヨルダンの2年間は、私の生き方を大きく変えました」。
首都アンマンから北西30キロほどにある旧首都サルト。三つの丘から成る斜面に広がり、黄色い石灰岩を使用した歴史的建造物が特徴だ。シリアやパレスチナからメッカに向かう要衝で、旅人を分け隔てなくもてなす風習、ハーブやコーヒーなどさまざまな伝統文化が今も生活に色濃く残る。保存状態が良く、イスラム教徒とキリスト教徒が共存し「寛容とホスピタリティの場」として、2021年に世界文化遺産に登録された。この登録につながる歴史的な建築物の調査を行ったのが、08年から10年にかけてチーム派遣された文化財保護や建築の隊員たちだ。
非産油国のヨルダンにとって観光は重要な外貨獲得手段で、サルトは死海やワディラム砂漠、ペトラ遺跡などに次ぐ観光地として期待された。JICAは1990年代から協力を開始し、町中にある〝リビングヘリテージ(生きた遺産)〟を観光資源として活用し、地域の人もその資源に誇りを持って守り伝えていこうとする、町全体を博物館に見立てる「エコミュージアム」計画を進めた。資料を収集し展示する伝統的な博物館に対し、「まちじゅう博物館」ともいわれる。
サルトにある建築物を一軒ずつ調査する村上さんたち。「サルト石と呼ばれる黄色い石灰岩が使われた町を歩き回りました。聞き取りはアラビア語で、それを英語に訳してもらって調査票をまとめました」
チームはサルトにある文化資源を把握してポテンシャルを図る目的で派遣され、3回すべてに参加したのが村上佳代さんだ。
1回目はエコミュージアムの考え方を理解してもらうために、観光遺跡省と既存の調査を基に全体計画案を作り、市役所や、いくつかの部族集団から成る地域住民の代表らと計画を共有した。2回目以降に始めたのは現地調査。カウンターパート(以下、CP)は観光遺跡省やサルト歴史博物館、市役所のスタッフたちで、隊員と共に歴史的建造物と思われる家を一軒一軒訪ね、建築年代や利用法、修理の履歴などを聞き取り、写真撮影やスケッチを行い、一軒ごとのカルテを作った。
サルトには有名な豪商の家など古い建造物が多いことは住民も認識していたが、調査を受けて初めて「えっ、うちの家もそんなに古いの? だったら親戚の○○さんの家も古いよ」などと教えられ、調査対象が広がっていった。
CPに地元住民と同じ部族出身者がいたことや、調査チームに村上さんら女性がいたことで住民女性も安心して家の中に入れてくれ、お茶はもちろん、ご飯もよくごちそうになった。そうして収集した情報をデータベース化し、CPにその使い方や現場での調査手法などを伝えた。
調査数は4000件に上り、最終的に990件の歴史的建造物があることがわかった。村上さんたちは、調査で撮りためた町の写真の展覧会や、サルトの家の構造についてお菓子を使って学ぶ子ども向けワークショップも開催した。「『サルトには何もないよ』と言う住民に対し、私たち外国人が感じたサルトの魅力や歴史的価値を伝えて、自分たちの町の魅力を再発見してほしかったのです」。
英語で活動していた隊員チーム。イベントや訪問調査ではCPからアラビア語で住民や子どもに調査の趣旨を説明してもらった。
部族主義が残るヨルダンでは行政組織のスタッフは縁故採用が多い。この調査はスタッフにとっては追加業務になったが特別な手当はなかったため、不満を持ち活動意欲の低いスタッフもいた。しかし、調査やイベントを通じて住民たちが「サルトってすごいんだね」と口にするようになると、その言葉に刺激され、積極的に参加するようになるという変化をもたらした。
毎回、その期間限りの活動と思い、焦りもあったという村上さんだが、関係者に対して、サルトにとってエコミュージアムがどのような意義があるのかを伝えることを大切にした。
「それをわかってくれた人が周囲に影響を与え、この計画に携わる人の輪が広がっていきました」
この活動によって、歴史的建造物が町中に存在することが共有され、サルトがエコミュージアムになるイメージを関係者で持つことができた。そして、次の段階に協力が進み、村上さんも専門家として活動することになった。
小学校で行った環境教育では新聞紙を折って箱を作った後、リサイクルについて考える時間を設けた
紛争問題に関心を持つきっかけとなったヨルダンで生活してみたいと環境教育隊員となったのが森 佑一さんだ。
小中学校の運営サポートを行う教育省のザルカ第2支局に配属され、環境クラブのある小中学校を中心に巡回して環境教育の授業を行いながら、ごみ拾いなど環境啓発のイベントを他の隊員と連携しながら行った。
配属先へ派遣される協力隊員は森さんが初めて。任地のザルカは国内有数の工業都市でごみや大気・水質汚染が問題になっており、配属当初に他地域で活動する先輩隊員と共に教員への環境教育ワークショップを行うと好評だった。そして、「日本人から環境教育を学べる」と多くの学校から訪問授業の依頼が来た。
森さんは、子ども向けに空き缶や新聞紙などを使ったリサイクル工作を行うと共に、3Rの概念やヨルダンにおけるごみ処理の現状などについて伝える授業を、各校の教員のサポートを得ながら実施した。しかし、管轄内の半数の学校を訪問し終えてみると、巡回依頼がそれ以上増えないという状況に直面した。「ヨルダンではごみの最終処分は郊外への埋め立てが主流で、家庭内はきれいにしていても外ではポイ捨てが一般的でした。授業をすると生徒は工作を楽しんでくれるのですが、ごみをポイ捨てしないことや分別についてはイメージするのが難しいようでした」
配属先のルールや態勢も巡回活動を制約する要因となった。学校からの正式な要請書がなければ訪問許可が下りず、隊員が学校に直接働きかけることも良しとされなかった。配属先の主業務が管轄校の美術や音楽、キャンプの実施支援だったこともあり、環境教育は後回しにされがちだった。
そうした中で力を入れたのが、他の隊員と連携した活動だ。障害児・者支援や青少年活動といった職種の隊員の配属先から招いてもらう形でリサイクル工作などを行ったほか、環境教育隊員同士で協力し各自の任地でごみ拾いイベントを開催した。中でもアンマンでは特に力を入れ、2カ月に一度、他の職種の隊員とも協力し、日本人とヨルダン人との交流も兼ねたごみ拾いイベントを行った。「子どものみならず大人にも環境意識を持ってほしかったのです。日本語教育隊員から日本語を学んでいるヨルダン人に向け、参加を呼びかけてもらいました」。
ごみ拾いの後は、学生や社会人など日本に関心のある参加者と食事をしながらアラビア語や日本語、英語でさまざまなことを話す場を設けたところ、定期的に参加するヨルダン人が増えた。こうした交流を通じて森さんにはアラビア語と日本語を互いに教え合う友人ができ、現地の文化や社会についてより理解を深めることにつながった。
ヨルダン生活でイエメン難民の存在も初めて知ったという森さん。日本での報道が少ないイエメンについて、深刻な状況のみならず文化的な魅力も含め発信していこうとしている。
現在、UNRWAがヨルダンで運営する学校は161校あり、現在派遣中の築城豪佑さんはアンマンにある1校で体育と美術を教えている。生徒はパレスチナ難民の家系の子どもたちだ。
1年生から6年生までが共学で7年生から9年生の女子生徒も同じ校舎で学ぶという、低学年以外は男女別学が多いヨルダンでは珍しい学校だ。
最初の配属先の子どもたちと後に再会した築城さん。「口々に『コンニチハ』『アリガトウ』と、以前教えた日本語で話しかけてくれました」
校長をはじめ同僚の先生たちは全員女性。女性が人前で運動することがあまり良しとされない宗教的・社会的背景の下、体育の指導法を知らず授業を行えなかったため、築城さんが来たことで体育がスタートした。
「先生たちが体育を教えられるようになるのは難しくても、子どもたちが楽しそうに身体を動かす姿を見て、女性であっても人前で運動してもいいと思ってもらえるようにしていきたい」
授業では日本の音楽に合わせて準備運動をした後、簡単な運動に言葉や算数を取り入れたゲーム感覚のアクティビティを行う。校庭の壁画に使われている色を築城さんが伝えて生徒が走ってタッチしたり、色の名前を英語や日本語に変えて言ったり、算数の授業でかけ算を習ったと聞けば、「3×7は?」と質問し、答えになる数字を書いたボールを探してもらう。
「足が速いとか高くジャンプできる生徒だけが活躍するのではなく、誰もが主役になれるようにしています」
そんな築城さんが今の学校で気になったのが、「生徒たちが休み時間に友達と思い切り遊べないことです」。
短い休憩時間に150平方メートルほどの狭い校庭に200人以上の生徒がひしめき合い、おしゃべりやおやつを食べるぐらいしかできない。
「私は学校生活の中で、休み時間に体を動かすのが何よりも楽しくて大好きでした。現状ではいけないと、体育の時間の半分を『生徒が思い切り走り回って遊べる休み時間』にしようと考えました」
ただ、高学年になるほど男子生徒と女子生徒で運動への意欲に差が出て、サッカーだけをしたくてイライラする男子と運動をしたくない女子に分かれ、やる気満々の築城さんが空回りしてしまうという悩みもあった。
そこで準備運動の後は、これまでのアクティビティの他に男子はサッカー、女子は手遊びなど選択肢を増やし、生徒の希望を聞いてその日の内容を決めるスタイルにした。すると、生徒たちとの距離が近くなり、力まずに教えられるようになってきた。
築城さんが現在活動しているUNRWA運営の学校で。皆で準備運動をする生徒たち
一方、美術では、急に授業を任され事前準備ができず、「好きなもの」の絵を描かせた時のことが心に残っている。半数の生徒がパレスチナ国旗を描き、中にはイスラエル人を攻撃する絵を描いた生徒もいた。
「私に絵を見せて、『私たちは絶対パレスチナに帰るんだ』と話すのです。家庭で祖国への強い思いを何世代にもわたって伝えていることを感じました」
そんな生徒の言葉に築城さんは「インシャアッラー(神が望むなら)」と返したという。アラビア語で未来について話す時に幅広い意味で使うが、築城さんは「きっとそうなるよ」という気持ちを込めたのだ。
実は、築城さんの配属先は二カ所目だ。一カ所目は国内の貧困層や難民の子どもを対象にした学習支援施設で、慢性的学校不足の中で手薄になっている教科の補習をしたり、美術や音楽、体育などを教えたりする場だった。だが、活動を始めて4カ月たった2023年末に、ドナーの国際機関の都合で急な閉鎖となり、24年2月から現在の配属先に移った。
新学期が始まる9月以降は運動会などイベントも企画・開催し、難民の子どもたちの心身の成長を支えたいと考えている。
森さんの大家さん宅のリビングで開かれていた男性の集まり。お茶とお菓子でおしゃべりした後、食事が出て、またさらにお茶になる
「ヨルダンでは褒めることから会話が始まります」というのは井澤仁美さんだ。例えば、相手が身につけている服を「すてきだね」と褒め、褒められたほうは「あなたにあげる」と返す。しかし、「いえ、あなたにこそ似合っている」と言って断るのが一般的なのだそうだ。
お客として招かれると、お茶に始まり、豪華な料理でおもてなしを受ける。当然、長時間に及ぶが、決してホスト側から宴を終わらせることはしない。「そろそろ帰ります」とゲスト側が言い、「いや、まだいなさい」と引き留められ、さらに重ねて「いいえ、おいとまします」と返すやりとりをしてから帰るのがマナーであるなど、さまざまな社交辞令があるという。
「見知らぬ人から『お茶でもどうぞ』と言われて、その言葉に従ったら渋い顔をされたことがあって。後から先輩隊員に社交辞令の一つだよと教わりました」と苦笑するのは森 佑一さん。
同じアラブ圏のエジプトでの生活も長い神谷哲郎さんは、「『お疲れさま』『お先に帰ります』などエジプトでは使わない表現がヨルダンにはあります。挨拶や本音と建て前の感覚が日本人に近しいところがあって、友達になりやすい国民性でしょう」。
待機中のセルビスの列。車体にルートが書かれている
通勤列車の類いがないヨルダンだが、治安が良いためタクシー、バス共に隊員は安心して利用できる。
「タクシーには、一般タクシー、アプリタクシー、セルビスの3種類があります」と話すのは築城豪佑さんだ。
一般タクシーは日本と同様にメーターを用いるもので、どこでも拾えるが行き先や道順をアラビア語で伝えなければ通じない。アプリタクシーは「ウーバー」などのアプリで配車から支払いまでできるもの。セルビスとは乗り合いタクシーのことで、決まったルートを走り、1回の乗客が4人集まらないと発車しない。「でも運賃が100円程度と、とても安価です」。
バスは隊員の間で「アンマンバス」と「白バス」と呼ばれる2種類が走る。アンマンバスは近代的で運賃の支払いができる専用の乗車カードやQRコードで乗ることができ、行き先もアプリで確認できる。一方の白バスは古き良きミニバスといった風情で、行き先を叫んで乗客を集め、席がある程度埋まったら出発する。市内の路線ならどこまで行こうと60~120円程度だ。
セルビスも白バスも安価で本数も多く便利だが、「運次第で予定の時間に遅れることもあります」と築城さん。そして、「なぜか、セルビスも白バスもどのルートがどの辺りを通るのかという情報がどこにも載っていないんです。その都度、自分の目的地を通るかどうか運転手に確認してからでないと乗れないのがネックです」。
Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位