ボリビア/小学校教育/2015年度1次隊・沖縄県出身
教育大学の障害児教育教員養成課程を卒業後、沖縄県立支援学校や小学校で8年間、教壇に。現職教員特別参加制度を利用して青年海外協力隊に参加。帰国後は、県立沖縄盲学校を経て、2022年から県立沖縄ろう学校に勤務。
ボリビアの日系移住地にある日系日本人学校に配属された伊波さん。日常生活も含めて日系社会で過ごす中で、昔ながらの日本らしさを強く意識した暮らしや、日系人ならではの事情に当初は戸惑うこともあった。また、狭いコミュニティゆえ、日本からやって来た伊波さんに注目が集まりがちな状況や、自身の振る舞いが“日本人らしさ”の手本として見られるという特殊な立場にも直面した。
ボリビア東部のサンタクルス県に位置するコロニア・オキナワ(以下、オキナワ)は、第2次世界大戦後に沖縄県出身の日系移民が開拓した町である。現在は非日系の住民もかなり増えているが、日系人団体などによる日本文化継承や日本語教育の取り組みが盛んで、日常会話や食生活、各種行事など、日系人の暮らしにおいて“日本的要素”が占める割合はまだまだ大きい。
そんなオキナワのオキナワ第一日ボ学校で、2015年から小学校教育隊員として活動した伊波興穂さん。体育や音楽、日本語などの授業への支援と、クラブ活動などの学校行事への協力が主な要請だった。非日系人中心の社会で活動する同期のボリビア隊員たちとは、赴任序盤から状況が大きく違っていたと振り返る。
「ボリビアの多くの派遣先の場合、不慣れなスペイン語で意思疎通を図りながら、手探りで少しずつ身辺の環境を整えて活動に入っていくことが多いと思いますが、当時配属された学校では、何といっても普通に日本語が通じました。僕の場合、日系人会での顔合わせや住居の確認なども早々に済み、金曜日に着任して翌月曜日には普通に担任として授業を始めていたほど。活動に入るハードルはかなり低かったです」
他方で、日系社会ならではの環境に戸惑うこともあった。
「情報網がしっかりしているので数百人の日系の方々がほぼ全員、赴任したばかりの僕のことをよく知っているのですが、僕の側から見ると、すぐには誰が誰だか把握できず大変でした。当初、飲み会や外出の誘いには極力行くようにしていたのですが、うっかり同じ人からの誘いを2回断ってしまい、少し気分を害されるという失敗もありました」
活動開始から半年ほどたつと、当初は見えなかった事情も少しずつ垣間見えるようになってきた。
一口に“日系人”といっても、日本生まれで移民として現在の立場を築いた1世の人々、そうした親たちの背中を直接見て育った2世、より世代が下ってボリビア文化の影響が強まっている3世以降の若者や子どもでは価値観が異なる。
「さらに、家庭環境の差などによって社会の中でアイデンティティがグラデーション的に変化していて、外部の人間が彼らに接して活動する上ではその見極めが重要です。当人たちも日本文化とボリビア文化の間でアイデンティティの在り方に悩んでいることがわかり、何かできないかと感じました」
日本的な「自律性」や「勤勉さ」を伝えていきたいという思いは1世や2世を中心に多くの日系人が共有していて、日本からやって来た模範として自分の姿が皆から見られている感覚も少なからずあったという。
過去には沖縄県が教員を派遣していたりと、日本からのボランティアが多く活動してきた歴史のあるオキナワでは、隊員への期待値も大きかったと振り返る伊波さん。特に最初の半年ほどは担当する授業のコマ数も業務内容も多く、学外のコミュニティでのイベント運営への参加などさまざまな依頼が集まってしまい、「できること」「できないこと」をきちんと取捨選択して周囲にも伝えることの必要性を痛感したという。
日本からやって来たボランティアとして任地へ入ると目立ってしまうのは隊員あるあるだが、日系社会の場合、単に一介の外国人ではなく、「JICAから派遣されて働いている人」という立場をはっきり認知されがちで、過去のボランティアなどと比較される度合いも大きいという。
「特に1世・2世の方たちは日本人らしさを大切にしていて、時には服装のTPOなどを注意されることも。ただ、日本から来た僕らを通して子どもたちが日本人像を知り、それが彼らのアイデンティティにも影響を与えていくのだと気づいてからは、自分自身が“教材”なのだという意識をしっかり持つようになりました」。
当初は自分のスキル外の仕事など、さまざまな依頼を何でも引き受けて取り組んでいた伊波さん。「遅くまで居残り作業をしていたので地域の集まりにも不参加になりがちで、いろいろなことがうまく回りませんでした」。半年ほど頑張った後、配属先の人に厳しい状況を伝えたところ、「あれもこれもやってくれてたよね」とねぎらわれ、適度なペースに調整してもらえた。「任地の人たちが僕のことをよく見ていると気づいたのはこの時でした。努力した過程を見てもらうのが大切なので、まずはできる限りトライしてから『できない』と言うほうがよいと思います」。
日本文化や日本語に対する価値観は世代間で隔たりがあり、しかもお互いにそうした意識の差を確認し合ったり埋めたりする機会が少ないと感じた伊波さんは、それに戸惑う一方、隊員として各世代に接する場があることから、それぞれの思いを仲介できると考えた。「アイデンティティに苦しむ人たちに、リスペクトを持って寄り添いたいと思いました」。その一つの形が、2016年に沖縄で開催された「第6回世界のウチナーンチュ大会」(※)に生徒たちを連れて参加したことだ。「20日間の日本滞在で彼らが多くの経験をできたことはもちろん、地域を挙げて子どもたちを日本へ送る初の試みでもあり、大勢の大人たちの協力で実現しました。日本への思いを皆が再確認する良い機会になったと思います」。
※世界のウチナーンチュ大会…沖縄にルーツを持つ海外在住の日系人が沖縄に集まってネットワークを広げることを目的としたイベント。1990年からおよそ5年に1回のペースで催されている。Text=飯渕一樹(本誌) 写真提供=伊波興穂さん