派遣国の横顔

グアテマラ共和国カンボジア

内戦の悲しい歴史を乗り越えて発展を目指す
教育やスポーツ、職業分野へのニーズが高い

カンボジア

カンボジアの基礎知識

面積18万1,035㎢
人口1,690万人(2023年、国連人口基金)
首都プノンペン
民族人口の90%がカンボジア人(クメール人)とされている。
言語クメール語
宗教仏教(一部少数民族はイスラム教)

※2024年4月17日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1965年12月20日
派遣取極締結地:プノンペン
派遣開始:1966年1月
派遣隊員累計:827人
※2024年11月30日現在
出典:国際協力機構(JICA)

カンボジア
お話を伺ったのは
駒走拓三さん
駒走拓三さん

ケニア/電気設備/ 1995年度3次隊・兵庫県出身

JICAカンボジア事務所・企画調査員(ボランティア事業)。1996年、民間企業を退職して協力隊に参加。帰国後にJICA短期専門家として中米へ、2007年から企画調査員(ボランティア事業)および長期専門家としてバングラデシュに滞在。その後、スリランカ事務所、マーシャル支所を経て、23年より現職。

   カンボジアは日本が最初期に協力隊員を派遣した国の一つで、1966年の稲作2名、柔道・水泳各1名の派遣から始まりました。しかし、内戦の影響を受け70年には全隊員が撤退。75年にはポル・ポト政権による大量虐殺が行われ、犠牲者の数はカンボジアの人口の約4分の1ともいわれています。そして約20年間に及んだ内戦は91年に終結しました。

   日本との関わりでは、91年にカンボジア和平協定によって設立された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)代表に日本の明石 康氏が就任し、カンボジア王国成立までの間、平和維持活動(PKO)で貢献しました。その際に2名の日本人殉職者が出たことは忘れてはならない歴史です。その後も日本はアンコール遺跡の修復をはじめ、橋や国道の建設などのインフラ整備、民主化支援でカンボジアの復興を後押ししてきました。

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世界遺産に登録されているアンコール・ワットは、12世紀前半に建設されたクメール帝国のヒンドゥー教寺院だったが、 16世紀後半に仏教寺院に改修された。「壮大な歴史を感じる遺跡です。朽ちた部分の修復には日本の大学のチームが関わっています」(駒走さん)

   協力隊の長期派遣は93年から再開されました。内戦で知識層が虐殺された影響が残るため、カンボジア政府からは学校教育の質向上へのニーズが高く、日本語教育や小学校での情操教育を行う隊員が現在も多く派遣されています。また、不足している人材を育成する職業訓練校への派遣も少なくありません。現場で交わされるクメール語は、日本人にとって習得が難しい言語ですが、活動に欠かせないため、ほとんどの隊員が派遣期間中も語学の向上に励んでいます。

   現在のカンボジアは経済成長が著しく、大都市となった首都プノンペンの商業施設には若者が集まり、とても活気を感じます。人々は穏やかで人懐っこいという印象があります。心根では自尊心が高く、目上の人を敬うことを大事にするため、活動ではそうした点に気をつけながら、うまくモチベートしていくことが大事です。治安面も安定していて暮らしやすい国ですが、暑さは厳しく、雨期の4、5月ごろは気温が連日40℃を超えますから、体調管理に注意が必要です。

   2年間の活動を行うには困難もあるでしょうが、異文化に触れて自分自身がよりよく変わる機会となりますから、さまざまなことに挑戦し、楽しみながら活動してください。また、隊員としての生き方はずっと続くものとして、任期終了後も得られた経験を社会還元していってほしいと思います。

内戦前の初代から現役まで
時代を超えてカンボジアの発展に貢献する協力隊員

大樅哲生さん
大樅哲生さん

柔道/1965年度1次隊、SV/インドネシア/柔道/1999年度0次隊、SV/バングラデシュ/体育/2004年度0次隊・鹿児島県出身

第2次世界大戦中の旧満州で6歳から小学3年生まで過ごし終戦直後に帰国。食糧難の中、地方での不便な生活に苦労し、困っている人を助けたいという気持ちが芽生えた。中学生時代に柔道を始め、高校・大学教員のころまで多くの各種大会に出場した。1965年発足の「日本青年海外協力隊」に講道館の指導員を務める大学時代の恩師より推薦されて応募。カンボジアからの帰国後はJICA専門家としてマダガスカルに赴任したほか、ザンビア、ルワンダに事務所員として駐在。定年退職後もシニア海外ボランティアとしてインドネシア、バングラデシュでの柔道指導に当たった。

平和でスポーツが盛んだった時代
高まる柔道熱に応えた初代隊員

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柔道が盛んだったカンボジアでは、さまざまな大会が頻繁に開催され、大樅さんはそうした機会に10人抜きなどのデモンストレーションを披露した

   初代の協力隊員が派遣されてから今年で60年目になる。1966年1月にカンボジアに赴任した大樅哲生さんは、派遣開始当時を知る初代隊員の一人だ。

   この頃のカンボジアはフランスから独立した後の安定した時代にあり、首都プノンペンは「東洋のパリ」とも呼ばれる美しい街だった。「カンボジア政府が青少年のスポーツ振興を通じた人づくりと国づくりに力を入れていて、スポーツ人気が高まっていた時代でした」と大樅さんは振り返る。

「当時は街中の車やバイクも少なく、僧侶が托鉢して歩いている静かな雰囲気でした。隣のベトナムで戦争が起こっていることは想像もできないほどでした」。柔道はフランス保護領時代にフランス人によって紹介され、その後、日本人の指導者によって柔道人口が増加、既にプノンペン市内にカンボジア警察軍人クラブのほか、中国系、ベトナム系、フランス人クラブがあり、地方都市にも3カ所にクラブがあった。

   赴任後、関係機関への挨拶を終え、早速市内のクラブの巡回指導に当たった。柔道有段者の最高が3段という当時のカンボジアでは、5段を持つ大樅さんは“神様”のような存在だった。手始めに軍人クラブで乱取りを行ったところ、その情報が一気に広まり、道場の窓は見物人ですずなりに。「窓がすべてふさがり、道場はまるで蒸し風呂状態でした。それでも、生徒たちは汗だくになりながら、私のアドバイスを真剣に聞いていました。一方、市内に他の娯楽があまりないことからベトナム、中国系、フランス人クラブは親子連れで参加しており、にぎやかな社交場のような雰囲気でした。言葉の面では柔道用語が日本語のほか、フランス語、現地語を交えて指導でき、特に困ることはありませんでした」

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初代隊員としてカンボジアに降り立った大樅さん。着陸した時の暑さで、真冬の日本から年平均気温36℃の真夏の国へやって来たことを一瞬にして実感した

   赴任1年目の後半には国際大会を控えていて、ナショナルチームを編成し、新設された国立競技場に設けられた屋内柔道場を拠点に、早朝のランニング、ウエイトトレーニング、柔軟運動などを1時間半、午後は2時間程度の実技練習を行った。厳しい指導ながら選手たちも必死で頑張り、日増しにレベルアップしていった。

「6月にマニラで開催された第1回アジア柔道選手権大会にはカンボジアの選手を率いて参加して、全員が健闘して上位の成績を収めることができました。重量級の決勝戦は日本人同士の対決となり、カンボジアの審判員として、その決勝戦の主審を務めたことは印象深い思い出です」

   12月にカンボジアが国を挙げて開催した新興国国際競技大会(GANEFO)はプノンペンの国立競技場で行われ、日本の選手も非公式ながら参加して大会を盛り上げた。閉幕後、大樅さんは引き続き国立道場を中心に柔道の指導を行った。

   2年の任期満了を間近に控えた頃、大樅さんは柔道連盟からの強い要請により任期を延長。3年1カ月の活動を終えると、カンボジア政府から騎士賞を授与されて帰国した。

「カンボジアでの隊員活動は人生にとって学ぶことも多く、素晴らしい経験でした。帰国後間もなく、あの穏やかで平和な国で内戦が勃発したと知り、信じがたく本当に驚きました」

千田沙也加さん
千田沙也加さん

理数科教師/2006年度3次隊・静岡県出身

大学で生物学、大学院では国際開発学を専攻。協力隊には大学院を休学して参加した。帰国後は高校教員を経て、カンボジアの教育を研究するため博士課程へ。現在は大学の講師を務める。教員たちの聞き取りに基づく著書『カンボジア「クルー・チャッタン」の時代―ポル・ポト時代後の初等教育―』で2024年、第34回日本比較教育学会平塚賞を受賞。

理科の授業に実験を取り入れるため活動
体験による学びの大切さを教員に伝えた

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理科の実験に真剣な表情で取り組む教員養成校の生徒たち

   1975年からのポル・ポト政権時代に教員を含む知識層が粛清され、カンボジアの教育界は壊滅的な打撃を受けた。そのため、91年の和平協定締結後に就学率が急速に高まると、教育の質の向上という課題が持ち上がった。93年の協力隊派遣再開後、JICAは教育分野に多くの隊員を派遣してきた。千田沙也加さんもその一人。2007年に中学校教員養成校に赴任し、理科の授業に実験を導入するために活動した。

   千田さんの専門が生物のため、生物を担当する10歳以上年上の教員4人がカウンターパート(以下、CP)だった。それまでの授業は教員が教科書を読んで講義し、学生はノートを取り、暗記する形で、実験はほとんど行われていなかった。各国からの援助で配属先にも顕微鏡などがあったが、梱包されたままのものも多く、それらを活用することが求められた。

   教員経験のなかった千田さんは、先輩の理数科教師隊員の手法をまねて、CP自身が学ぶための予備実験を行ってから、授業で実験を行うように働きかけた。身近な植物の葉や花粉の観察に始まり、川魚やニワトリの解剖などを行った。「先生たちが暗記している教科書の知識に加えて、実際の事物や現象を見る体験を通じて知識を深める大切さを伝えようとしました」。しかし、活動はなかなか軌道に乗らない。全員の都合を調整したはずの予備実験に4人そろわないことがしばしばで、特に一人の男性教員はプライドからか、予備実験で千田さんから教わることを避けた。

   悩んだ千田さんは先輩隊員らの活動と自分を比較する中で、次第に自分を見つめ直すようになった。「彼に対して『教授法をよく知らない問題のある先生』という先入観を持ち、それを改善しようと、彼が行う授業の問題や課題を指摘してばかりいて、人として向き合っていなかったことに気づきました」。

   千田さんは男性教員と普段の生活や家族の話などをしてコミュニケーションを密に取ることに努めた。かたくなだった男性教員も徐々に予備実験に参加するようになり、授業ではCPが学生に実験を行わせる傍らで、千田さんは学生の様子を見て回り、実験をサポートするという関係が築かれた。

   そんな中で千田さんが「あれ?」と感じることがあった。生理食塩水を作る時などにCPは基礎的な濃度計算ができなかったのだ。「ポル・ポト時代に小学生に当たる世代で、基礎的な教育を受けられなかった影響でした」。

   千田さんが自主的にクメール語の家庭教師を依頼していた先生もポル・ポト時代に中学校通いを中断された世代で、教員が足りなかった時代に教員資格を持たずに小学校教員に任用された人だった。「本人は学習経験が少ないため『自分は駄目な先生』と思って、さまざまな研修を受けて懸命にスキルアップし、私が住んでいた村で一番教え方のうまい先生と言われるようになった人でした」。

   CPや校長も皆、ポル・ポト時代に誰かしら家族を亡くし教育を中断された悲惨な過去があった。彼らがそれぞれ異なる経緯で教職に就き、この国の教育を担ってきたことに心を動かされた千田さん。現在、そうした教員たちの半生を聞き取り、教育再建がどのように行われてきたかを研究している。

八木萌子さん
八木萌子さん

小学校教育/2023年度1次隊・兵庫県出身

大学卒業後、京都市で小学校教員を6 年間務める。周囲に協力隊に現職参加した教員が多く協力隊に興味を持つ。児童たちに実際に自分が見て体験した世界について教えたいと思ったことや、コロナ禍での海外の教育事情に関心を持ったことから、現職教員特別参加制度を利用して参加した。

情操教育が普及していないカンボジアで
児童たちに体育や音楽の楽しさを教える

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体育の授業に球技を取り入れたところ、児童たちは休み時間にもボール遊びをするようになった

   2023年から派遣されている小学校教育隊員の八木萌子さんは、首都からバスで約1時間半のコンポンチュナン州の小学校で3 ~ 5年生に音楽と体育を教えている。カンボジアの小学校では主要教科と比べ情操教育は後回しにされがちだが、この学校の校長は情操教育を重視し、体育や音楽を教科に取り入れたいと隊員派遣を要請した。

   八木さんの派遣前、音楽の授業は行われておらず、国語の教科書に載っている歌を教室で歌う程度で、寄贈された鍵盤ハーモニカも指導できる教員がいないため放置されていた。体育も国の指導書はあるものの使われず、全学年が朝の時間帯にクメール体操(※)をする程度だった。

   八木さんは音楽では教員と一緒に、児童たちに音符の読み方、リズム遊びを教え、その後に鍵盤ハーモニカの演奏を練習するというステップを踏み、音楽の基礎から覚えられるようにした。1年以上たった現在、ドレミファソラシドも弾けなかった児童たちは、カンボジアの曲や「きらきら星」などの習得に向けて練習に励んでいる。

   体育では指導書にのっとり、体を動かす、走る、跳ぶといった運動を指導してきた八木さん。スキップやサイドステップで走ることや、ラジオ体操、礼拝に使うカーペットを利用したマット運動などを行った。寄贈されたボールを活用して4、5年生には球技の授業を導入した。

   しかし活動が進むにつれ、熱心に指導法を聞いてくる教員がいる一方、関心を示さない教員もいて、知識の伝達に行き詰まりを感じるようになった。八木さんが別の州の高校で体育隊員として活動している先輩隊員に相談したところ、先輩隊員とそのCPが出前授業をしてくれることになった。二人はテンポよく授業を進めてバレーボールとバスケットボールの球技を児童に教え、CPは八木さんの配属先の先生たちに授業の組み立て方や指導のポイントを説明した。「先輩隊員が体育の専門家ということに加え、CPは言葉の壁がないため先生たちの理解が早かったです」。

   出前授業をきっかけに休み時間にボールを使って遊ぶ児童が増え、「児童たちの遊び方が変わって、体の動かし方の幅が広がったね」と同僚教員たちも八木さんの活動を認めてくれて、体育の授業では児童たちに積極的に指導する場面も見られるようになった。校長は児童が球技をしやすいように校庭を整備してくれた。

「何より子どもたちが体験したことのなかった運動や音楽にキラキラした表情で取り組み、毎回の授業をとても楽しみにしてくれるのでやりがいを感じています」

   そんな八木さんを悩ませているのは同僚教員たちの遅刻や欠勤だ。カンボジアでは教員の給与は低く生活できないため、副業をする人がほとんど。そのため、八木さんだけで授業を行うこともある。「先生たちは真面目な性格ですし、授業には熱心に取り組んでいます。仕方のない問題で、すぐに改善されることはないでしょうから、私は目の前にいる児童たちのために、できることを120%しようと思います」。

   残る任期では同僚教員たちを巻き込みながら、体育において雨期でも屋内でできる運動を教え、音楽では鍵盤ハーモニカで演奏できる曲のレパートリーを増やせるよう指導していくつもりだ。

※クメール体操…フランス統治時代から伝わるといわれるカンボジアの伝統的な体操で、日本のラジオ体操のようなリズム体操を行う。

活動の舞台裏

生活の一部になっている仏教

   カンボジアにおいて、仏教は人々の生活に深く根差している。八木萌子さんの配属先の小学校では、毎週土曜日の朝礼で仏教礼拝を行っている。「児童の中に出家して僧侶になった子がいるので、その子たちに読経してもらうのです」。
   功徳を積み、先祖を供養し、精神を静めるため、人々は頻繁にお寺に向かう。「同僚が『ちょっとお寺に行ってくる』と授業の合間に出かけるのを初めて見た時は驚きました」。
   クメール正月、お盆など節目の儀式には家族みんなで正装し、お供えを用意してお寺に出かける。八木さんもホームステイ先の家族と一緒に行く。「カンボジアのお寺はきらびやかな内装で、大音量でお経が流れ、まるでライブ会場に来たような感じの所が多いです。日本のお寺のイメージで来ると逆に落ち着かないかもしれませんね」。

活動の舞台裏
八木さんの配属先で行われている礼拝。手前にいる出家した児童たちと全校児童が読経を行う

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位