Case3
パラリンピック・水泳

峰村史世さん

マレーシア/水泳/1997年度2次隊、2002年度9次隊、
2003年度9次隊、2004年度0次隊・群馬県出身

マレーシアの水泳隊員に始まり、パラ水泳の指導者に。アテネ2004パラリンピック競技大会にはマレーシアの代表監督として参加。帰国後は一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟(現・日本パラ水泳連盟)の理事を務めながら、日本代表のヘッドコーチ、監督として3度のパラリンピックに参加。現在はマレーシアのパラ水泳代表チームのヘッドコーチに。

峰村史世さん

マレーシアと日本で4度のパラリンピックに参加
次に見据えるのはロサンゼルス

将来に向け、マレーシア水泳界の底上げに力を入れたい峰村さん。「実は20年前より選手層が減っている傾向にあります。少数の選手にお金をつぎ込むのではなく、大勢の選手がいて国内だけでも切磋琢磨できる状態にしたいですね」

手探りで始めたパラ水泳の指導

   現在、マレーシアのパラ水泳チームのヘッドコーチを務める峰村史世さんが、初めてマレーシアの地を踏んだのは、1997年、マレー半島の東海岸沿いに位置するトレンガヌ州に、水泳隊員として派遣された時のこと。小学生から高校生までの子どもたちが所属している地域の水泳チームで、コーチとして指導を行った。

   2年間の活動を終えてから約2年後の2002年に、今度はクアラルンプールの障がい者スポーツ協会に短期派遣で赴任。パラスポーツの調査という目的だったが、実際にはパラ水泳の指導を行うことになった。

「たまたま現地のコーチがいなかったこともあり、調査をしながら、パラ水泳の指導に当たることになったんです。大学で福祉を学んでいたことに加え、パラスポーツに対する知識も多少あり、実際に関わることもあったので、やってみようと。とはいえ、約20人ほどの選手はマレーシアではトップクラスの人たちばかり。2カ月後にフェスピック(※)が控えていたので、私も日本の知人にアドバイスをもらいながら、一気に集中して勉強しました」

トレンガヌ州の地域水泳チームでの活動の様子

   パラ水泳というのは、どのように指導するのだろうか。

「私が指導していたのは、マレーシアではトップ選手たちでしたが、まだまだ持っている能力を生かしきれていない選手が多かった。障がいゆえに100%はできないにしても、50%ならできるかもしれない。水泳は一切、道具を使わない、選手たちの持つ“残存能力”をすべて使って争う競技なので、まだ使うことのできる部分を探し出して、伸ばしていく。そうすると、自分が持っている身体の能力を100%使えることになります。それこそが、パラ水泳の面白さであって、そこを試行錯誤しながら探っていくのが私の役目でした」

   最初は選手もできないと言って反発するが、少しずつ体をほぐして動かしていくと、今まで使っていなかった部分がだんだん使えるようになっていく。峰村さんは、選手たちの中に眠る能力を引き出しつつ、パラリンピック出場に向けて指導に励んだ。そして2004年、男子2人、女子1人の計3人の代表選手を連れて、マレーシアチームとしてアテネ2004パラリンピックに出場。峰村さんにとって、初めてのパラリンピック経験となった。

「とにかく、みんなで自己ベストを出して、決勝までは残ろうと目標を立てました。その結果、自己ベストまではいかないものの、全員が決勝に残ることができて、パラリンピックという特別な舞台に立てたことが素晴らしい経験になりました。でも日本と違って、マレーシア選手の頑張りはなかなか外に伝わりません。彼らの努力をどう伝えたらよいかと考えたことを今も覚えています」

短期派遣の隊員として、アテネ2004パラリンピックを目指す選手の指導に当たった

パラリンピックは冷静に向き合わないと戦えない場所

   アテネ2004パラリンピック終了後、短期派遣で続けていた協力隊活動も終了。日本に帰国し、今度は日本の障がい者水泳団体の活動に約15年間参加することになった。日本チームのヘッドコーチ、また監督として、北京、ロンドン、リオデジャネイロの3回のパラリンピックに参加した峰村さんは、やはりパラリンピックは普通の国際大会とは全く違うと話す。

「規模も違うし、声援も違う。よく会場の雰囲気にのまれるといいますが、まさにこのこと。もうみんな平常ではない状態です。特に初めて参加する選手は、テンションが上がり過ぎて我を見失ったり、ナーバスになり過ぎてしまったり。やはり、あの雰囲気の中で、良いパフォーマンスをして良い成績を出すのは、間違いなく難しい。冷静に向き合わないと戦えない場所ですね。でも私は、選手にはあの場所を最大の目標にしようと思わせたい。ですから選手には、パラリンピックの話をよくしますし、そこに行くまでにどれほど努力が必要かといった話もします。オリンピック選手が『オリンピックだけは特別』とよく言いますが、パラリンピックも同じです。だからこそ、また頑張ろうと思えるのかなと思います」

   パラリンピックだけでなく、さまざまな国際大会に選手を連れて行く中で、出会った東南アジアの指導者たちから、選手の育成や指導について、尋ねられることが多くなった。そんなある時、マレーシア代表のヘッドコーチを探しているという話を耳にした。20代の頃に初めて協力隊員として訪れたマレーシア。また戻って、ヘッドコーチとして新しいチャレンジをしてみよう、そう心に決めた峰村さんは、昔のつてをたどるところから始めた。

「マレーシアのパラスポーツ協会に当時のスタッフがまだいて、そこからつながって、いろいろな人の力を借りながらヘッドコーチへの就任に至りました。今は選手とコーチ、両方の指導に当たっています。一緒に指導しているコーチの中に、私が昔、指導していた選手がいるんです。ちょっと嬉しいつながりですよね」

   パリ2024パラリンピックでは、選手のサポートに関わったものの、現地への帯同などはしていない峰村さん。目線の先にあるのは4年後にロサンゼルスで開催されるLA2028パラリンピック競技大会だ。

「パリ2024パラリンピックには2名の選手が参加しましたが、ロサンゼルスでは、それ以上の選手を出場させること、そしてメダルを取ることも大きな目標です。そのためには、全国各地から選手を発掘し、しっかりと育てていきたいですね。その体制をつくるために、今後のスケジュールとプランを協会に提出し、作戦を練り始めたところです」

   約30年前の協力隊活動がきっかけでできたマレーシアとの縁。峰村さんは現役隊員に向けて、最後にメッセージを贈ってくれた。

マレーシアのナショナルチームのコーチが募集中との情報がたまたま飛び込んできたことをきっかけに、峰村さんはヘッドコーチとして約20年ぶりにマレーシアの水泳指導に携わることになった

「協力隊の時から出会いを大切にして、巡ってきた機会は、すべて挑戦してきました。その時は無駄かなと思えることも多くありましたが、今はそれがすべて糧になっていると感じます。だから隊員時代はやりたいと思ったり興味が湧いたりしたことには、どんどん挑戦していってほしいですね。私自身、パラリンピックという特別な場所に何度も参加できたのには、何事にも積極的に取り組んだ協力隊での活動も生かされていると思っています。とにかくやってみなきゃ始まらないですよ!」

※フェスピック…現在4年ごとに開催されているアジアパラ競技大会の前身で、極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会の略称。アジアと太平洋地域の国際的な障がい者スポーツ大会として1975年から2006年まで実施された。



Text=池田純子 写真提供=峰村史世さん