岩崎広貴さん
岩崎広貴さん

SV/タンザニア/野球/2016年度4次隊、SV短期/2019年度9次隊・兵庫県出身

中学校時代から野球に打ち込み、高校、大学、社会人野球でも活躍した。30歳の時、兵庫県尼崎市の市立尼崎産業高校(現在は統合して尼崎双星高校)の教員となり、野球部のコーチを経て監督に就任し、65歳の定年まで務めた。野球の魅力は「打席に立てばピッチャーと一対一で勝負でき、全員にそのチャンスがあること」だという。タンザニアからの帰国後も、4つの高校でビジネス基礎やコンピュータの授業を受け持ち、野球の指導も行っている。

応募者へのMessage

今、教えている生徒たちには、違う国の人に対する偏見に捉われないように言っています。そうした意識は実際に活動して初めて変わったことです。私は69歳で参加しましたが、50歳代、60歳代の方々は私から見ればまだ若いです。また、学校を卒業したばかりの若い方には全員が経験してほしいくらいです。年齢関係なく、チャレンジすればそれだけの喜びがあります。

シニア参加

高校の野球部監督を長年務め
定年退職後に協力隊で初の海外活動を経験
タンザニアのナショナルチームを指導した

定年退職後に参加した岩崎さんの場合

JICA海外協力隊員ってどんな人?
岩崎さんは日本の高校で効果を上げてきた独自の練習方法をタンザニアの選手たちに伝授し、ナショナルチームを大きくレベルアップさせた

   35年間、高校の教壇に立ち野球部の監督も務めてきた岩崎広貴さんは、65歳で定年退職し、その後、協力隊に参加し、タンザニアで野球の技術指導と普及に取り組んだ。

   参加のきっかけは、尊敬する先輩が立ち上げた「ジンバブエ野球会」に関わったこと。ジンバブエの野球選手たちを支援するために、日本から義援金や野球道具を送る活動を行っていて、同会に携わっている協力隊経験者の話を聞き、「協力隊なら海外で働くという夢もかなう。退職したら必ず参加しよう!」と決心した。

   家族は快く送り出してくれ、アフリカでの生活にも不安はなかったという。「私が子どもの頃は、日本だって先進国ではなかったですから。治安もあまり気にしない性格です。実際、タンザニアの人々は、親切な人たちばかりでした」。

JICA海外協力隊員ってどんな人?
ケニアで開催されたアフリカ選手権・東地域予選に出場したタンザニアの選手たち。試合後半に対戦相手のケニアを追い上げたが、7回制ということもあり惜敗した

   派遣前訓練では苦労もあった。語学の授業が、シニアの岩崎さんだけ1人クラスだった。連日、朝9時から午後3時すぎまで、講師と一対一でスワヒリ語をみっちりと勉強した。

「何しろ授業では気が抜けません。少しでもつまずこうものなら、『ちゃんと勉強しなさい!』と講師からお叱りを受ける。自室でも翌日の授業の予習に必死で取り組んだおかげで、スワヒリ語はかなり上達しました」

   岩崎さんは2017年、タンザニアの首都ダルエスサラームにあるタンザニア国スポーツ評議会に派遣された。活動先となるタンザニア野球ソフトボール連盟の理事長を訪ねると、「東京オリンピックの予選で勝つために、ナショナルチームの監督を引き受けてほしい」と依頼された。「選手たちはどこにいますか?」と聞くと、「それはこれから君が見つけてくるんだよ」と言われ、面食らった。

「毎週、土・日・月曜は理事長と共に地方を巡回し、普及のために野球教室を開いたり試合をしたりしました。主な州には、野球クラブがある中等学校が1つはあります。その中で、野球のセンスが良い生徒を見つけて、ナショナルチームに入らないかと声をかけていきました」

JICA海外協力隊員ってどんな人?
キャッチボールの練習をするタンザニアの中等学校の生徒たち。岩崎さんがタンザニア全土を巡回した結果、チーム数は着任時のほぼ倍になり、とくに女子選手は大きく増えた

   タンザニアでの指導にはすぐに慣れた。野球教室を始めると、生徒たちが喜んで集まってきて、日本の高校生が走ってきたかと思うくらい違和感がなかったという。「『タンザニアの地方の生徒たちはガラが悪いよ』と言う人もいましたが、そんなことはありません。私が指導していた、ちょっとヤンチャで人懐こい日本の高校生と変わらないと思いました」。

   連盟の予算が少なく、ナショナルチームのメンバーを1カ所に集めて練習することはできなかったため、地方の選手に会えるのは、巡回で行った時だけ。「この練習をしておくように」と指示し、2~ 3カ月後に再訪した時に「次はこの練習」と伝えるしかなかった。

   19年4月、東京オリンピックに向けたアフリカ選手権の東地域予選が、隣国ケニアで開かれた。対戦相手のケニアには、12対14で惜敗した。

「20時間以上のバス旅を経て試合当日の早朝に到着し選手が疲れていたことや、一度も一緒に練習ができなかったことなど、悔しい思いはありました」

   帰国した岩崎さんは、現在も高校の教員と野球部のコーチとして活躍している。派遣前の岩崎さんは、現状に満足せず、打破するために努力することが大事だと教えていた。しかし、協力隊を経験して、その考えは変わったという。

「甲子園の県予選では、『ベスト8で満足するな。甲子園出場を目指せ!』と言っていました。そこで甲子園に出ても、さらに上を目指して切りがなかったでしょう。ベスト8で終わったとしても、その過程で学ぶものは多くあります。すべての人が現状を打破できるわけではないから、その中でどう工夫するか、どう向上していくかが大事、そう考えるようになりました」

任地メモ

健康面のバックアップが心強かった

持って行ってよかったものは、ばんそうこうや消毒液、風邪薬、胃薬などのファーストエイドグッズです。現地は日本のようにドラッグストアやコンビニがなく、特に地方ではこれらの入手が困難です。一度、練習中にちょっと足をけがしたことがありました。大したことはなかったのですが、JICAタンザニア事務所の企画調査員(ボランティア事業)の方がすぐに駆けつけて私を病院に連れていってくれました。本当に手厚く見守ってくれて感謝しています。

職種ガイド

【各スポーツ職種】

協力隊では野球など28の競技が職種になっている。省庁のスポーツ局などに配属され、青少年の育成、練習環境の改善、現地指導者の指導力向上、競技人口の拡大などに携わるほか、ジュニア強化選手やナショナルチームを指導する場合もある。

シニア案件とは?

一定以上の経験・技能などが求められる案件で、日本国籍を持つ20~69歳の方が対象。長期派遣は1~2年で、「シニア海外協力隊」と、「日系社会シニア海外協力隊」がある。

Text=三澤一孔 写真提供=岩崎広貴さん