第二次世界大戦で深い傷を負いながらも
隊員1,700人の活動が信頼を築いた
面積 | 29万8,170k㎡(日本の約8割)、7,641の島々がある |
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人口 | 1億903万5,343人(2020年フィリピン国勢調査) |
首都 | マニラ |
民族 | マレー系が主体。他に中国系、スペイン系および少数民族 |
言語 | 国語はフィリピノ語、公用語はフィリピノ語および英語。 180以上の言語がある |
宗教 | キリスト教。国民の83%がカトリック、その他のキリスト教が10%。イスラム教は5%(ミンダナオではイスラム教徒が人口の2割以上) |
※2023年3月1日現在
出典:外務省ホームページ
派遣取極締結日:1966年2月15日
派遣取極締結地:マニラ
派遣開始:1966年2月
派遣隊員累計:1,701人
※2025年1月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)
JICAフィリピン事務所・企画調査員(ボランティア事業)。大学在学中にフィリピンを支援するNGOのスタディツアーに参加し、卒業後は約3年間、企業に勤務した。2010年にフィリピン現地の雑誌編集者として渡航。同時に現地NGOボランティア活動に携わる。15年からJICAフィリピン事務所NGOJICAジャパンデスク、19年から国際交流基金マニラ日本文化ンター海外調整員を経て、22年から現職。
フィリピンへの協力隊派遣は1966年2月に開始されました。フィリピン人はおしなべて親日家で、隊員赴任の時に配属先がウェルカムパーティーを開いてくれることも珍しくありません。でも、それは累計1,700人を超える歴代の隊員たちがこれまで信頼と友情を積み重ねてきた成果なのです。
第二次世界大戦中、日本軍と連合国軍の戦闘の舞台となったフィリピンでは、100万人以上の民間人が亡くなられたといわれています。初期の隊員はとにかく笑顔を見せ、同じ釜の飯を食べ、共に地域で活動しに来たのだと認識してもらうのに苦労されたそうです。それから60年、フィリピンの方々から「日本は大好き!」と言われるまでに関係が回復しています。
フィリピンは国土の80%が農林水産業に活用されている農業大国です。野菜栽培や食用作物・稲作栽培など農林水産分野の隊員が多く派遣されてきました。一方、2012年に新設された防災・災害対策もニーズが高い職種です。フィリピンは台風や水害など日本と似た災害が多い国のため、「災害からの復興を日本に学びたい」という声が強いです。
今後の派遣分野としては経済成長・人間の安全保障・保健医療を柱にしています。また、貧困問題に取り組む隊員を地方に派遣してほしいという政府からのニーズにも応えていきます。
フィリピン人は仕事とプライベートの分け隔てがあまりなく、配属先同僚が家族の誕生日会や親戚の集まりに招いてくれることもよくあります。最初は戸
惑うかもしれませんが、現地の文化を知る機会ですから参加してみるとよいと思います。
無数の島々と多様な言語があるフィリピンは、島や地域によって特長もさまざま。約15年間フィリピンにいる私でも、未だに初めて知る風習や文化、言葉に出合うことは多いです。
南国リゾートとして旅行でフィリピンを訪れる日本人は多いですが、数日の滞在では見られないフィリピン社会の現実を活動を通じて経験し、次の隊員たちにつないでいって欲しいと思います。
野菜/1965年度1次隊・東京都出身
子どもの頃に読んだ冒険漫画『少年ケニヤ』(山川惣治作)をきっかけに海外に興味を持つようになる。東京農業大学で学び、卒業後は八ヶ岳経営伝習農場で農業経営を重視した農家の子弟教育に従事する。協力隊では初代隊員としてフィリピンに派遣され、帰国後はOTCA(現JICA)農業研修員の技術指導に当たる。またネパール、スリランカ、パラグアイ、ドミニカ共和国に専門家として派遣され野菜栽培の指導・普及に努めた。定年退職後も地域の畑で野菜の有機栽培に取り組んでいる。
海外への渡航が一般的でなかった時代、「多くの人にとって未知の海外で活動したい!そのために農業技術を身につけよう」と考えた矢澤佐太郎さんは、農業大学で海外農業開発を学び、卒業後、伝習農場で農業経営の指導を行う中、海外協力隊員の初代募集を目にして応募した。訓練所で出会った同期隊員たちは皆若く、知らない国で活躍したいという意欲に満ちていた。
2カ月ほどの訓練を終えた矢澤さんは、1966年2月にフィリピンに到着。受け入れ機関は大統領府地域社会開発庁(以下、PACD)で、派遣地域はルソン島の北部地域だった。
「赴任した地域は山岳地帯で、中心都市のバギオには第二次世界大戦末期に日本軍の司令部が置かれ、その頃から治安が安定していて、現地の人々の日本人に対する印象も良好でした」
具体的な配属先や活動内容は決まっておらず、PACDの職員と共に10日間ほど地域を見て回った中から、「どこで活動するか決めてください」と言われた。
矢澤さんはバギオの隣町ラ・トリニダッドの町を拠点にすることにした。ここは比較的標高が高く、トマトやキャベツ、ジャガイモなど高原野菜の生産地だったからだ。しかし、農民たちには、雨期に野菜がうまく栽培できないという悩みがあった。
「熱帯気候のフィリピンでは高地は湿度が高く、特に雨期には雨で跳ね上がった土が葉につき、土の中の病原菌に感染する。高原野菜は病気に弱い種類が多いので、雨期の栽培は難しかったのです」
そこで矢澤さんが考えたのは、雨よけのビニールハウスを設置することだった。
「まずは圃場の確保と資金調達だ」と動きだした矢澤さんは、目星をつけた相手との交渉を始めた。カウンターパートはいない時代、ホームステイ先の大家のフォローにも支えられながら約4カ月後、圃場用地は地元の農学校の敷地内に確保でき、資金は町から「後で返済すること」という条件で借りることができた。
約0.7haの圃場は、現地の方と2人で草取りなど開墾作業から始め、ハウスは同期の土木隊員らに協力してもらい立派なものを設置した。矢澤さんは看板を立て、「ここは展示圃場です。興味ある人は見学してください」と書いた。
当初、「日本の青年が来て、いったい何をやっているのだろう?」と怪しむ様子だった現地の人々は、ハウスの中で雨期でも見事に野菜が育っていることを見ると、矢澤さんを見る目が変わった。
「農家の人から栽培に関する相談を受けるようになりました。そんな時は『君の畑を見せてよ』と現地を見に行き、竹などで組む簡易な雨よけハウスの作り方や栽培方法に関するアドバイスをしました。小規模農家の方々に直接教えることで技術が伝えられたと実感したし『おかげで野菜がたくさん採れたよ!』と報告を受けることが喜びになりました」
盆地であるラ・トリニダッドが巨大台風に襲われ、ハウスが半壊し水没するなど困難も経験したが、圃場では1年目から多くの野菜が収穫でき、市場に卸して町に資金を返還することができた。現在のラ・トリニダッドには、数多くのビニールハウスが立ち並んでいる。
看護師/2007年度1次隊・愛媛県出身
子どもの頃から看護師を目指し、専門学校を卒業後、総合病院の内科病棟や集中治療室、循環器疾患集中治療室などで約9年間勤務した。同僚から誘われて募集説明会に参加し協力隊に興味を持ち、看護師としての経験と視野を広げたいと参加した。帰国後は東日本大震災被災者の支援に携わった後、看護師として働きながら大学・大学院に進学。結婚し子育て中の現在は高齢者のデイケアに携わっている。
益田亜都美さんは2007年、看護師隊員としてレイテ島のタナウアン町役場の保健事務所に派遣された。保健事務所は保健所本部と5カ所の小保健所を統括しており、住民の健康維持のために医師による診察や巡回診療を行っている。益田さんへの要請内容は、母子保健と家族計画の質の向上を目指したスタッフの人材育成などだった。
「任地では自宅で出産する人が多く、伝統的産婆による介助では、へその緒を竹のナイフで切って縫い糸で縛るという処置がされる場合もあり、母子共に感染症を起こす危険性が大きい状況でした。配属先の医師に分娩施設の必要性なども話したのですが、『これまで施設なしでやってきた。住民からの希望がなければ要らない』と言われ、意識の違いを感じていました」
益田さんはまず地域の実態を把握するためにアンケート調査を開始した。看護師や助産師と共に村を回り、6歳以下の子を持つ母親を対象に全49問の質問
に答えてもらった。内容は出産回数、亡くなった乳児の人数、妊婦健診はいつ受けたかなど。そして「分娩のための施設が必要だと思うか」という質問も設けた。
60人の母親に聞いた結果、実に全員が分娩施設を希望していた。最も多い出産方法は自宅で伝統的産婆の介助を受ける人たちで約50%、自宅出産で助産師に来てもらう人が約22%、病院で出産できている人はわずか30%ほどだった。
益田さんは施設設置に向けて動きだした。資金は日本大使館の協力を受けることにして、申請書類作成を医師に依頼した。「外から来た私ではなく、現地の医師に必要だと認識して申請してもらいたかったのですが、なかなか手をつけてくれず、かなりストレスを感じました。最終的にはJICAフィリピン事務所の次長からもプッシュしてくれて、提出にこぎ着けました」。
調査結果からは、住民の母子保健に関する知識が不足している現状も判明した。看護師や助産師が妊産婦やその家族に対して正しい知識を教えるべきだが、彼女たちの腰は重かった。そんな中、配属先に生後2カ月の乳児が運び込まれてきた。全身の皮膚が赤くただれ、かさぶた状になっていた。
「その子の母親は『火曜日と金曜日に風呂に入れると病気になる』という迷信を信じ、しかも他の曜日にも入浴させていなかったのです。乳児の高い死亡率、感染症発生の多さを目の当たりにして、スタッフたちも本気で取り組まなければならないと徐々に意識が変わっていきました」
益田さんは毎週火曜日の妊婦健診に訪れた母親を対象にした「両親学級」を立ち上げた。教材や内容は益田さんが現地語のワライワライ語で作り、進行はスタッフに託した。彼女たちが自発的に取り組んでくれることを粘り強く待ち、両親学級を行った時には思い切り褒めた。沐浴、妊娠中の過ごし方、妊婦の栄養管理、子どもへの予防接種など、必要な知識を説明してもらった。そのうち、見学に来ていた小保健所の助産師から「私の地域でも行ってほしい」という要望も挙がるようになり、すべての小保健所に広がっていった。
資金協力を受けて建設が進められた分娩施設は益田さんの帰国後に完成し、数年後にフィリピンを再訪した際、実際に使われている様子を見ることができた。
防災・災害対策/2023年度2次隊・島根県出身
高校卒業後、地元の消防本部に就職し約4年間、消防・救急・レスキュー活動に従事してきた。地域の外国人に日本語を教えるボランティア活動を行う中で、異文化交流に興味を持つと同時に協力隊経験者とも知り合い、協力隊への参加を目指すようになった。帰国後も地元・島根に貢献できるよう、防災・災害対策を職種にし、知識を身につけながらフィリピンで活動している。
消防本部を休職して参加した山本士温さんは、ルソン島北部のラ・トリニダッド町役場の災害危機軽減管理事務所に赴任し、防災・災害対策隊員として活動している。
山本さんは配属先の上司から「小学生の災害対策意識の向上を図るために、先生が実施できる防災授業を提案してほしい」と依頼された。内容には地震・洪水・土砂崩れ対策を盛り込むように指示された。
山本さんが特に子どもたちに伝えたいことが、土砂災害のリスクについてだ。大半が山間地で占められるラ・トリニダッドでは、近年の人口増に伴い急傾斜地にも住宅が造成されており、土砂災害が発生しやすく、過去にも大規模な地滑りが起こっている。
「住民は災害は経験しているものの、災害が起きるメカニズムは意識していない様子でした。そのため、自分たちでできる対策への認識が欠けていると思いました。例えば、町の排水溝を詰まらせないようにごみを捨てないことなど、市民にできる対策もあるのです」
山本さんは防災授業で使うプレゼンテーションを試作して、実践の中でブラッシュアップしていくことにした。ポイントはアニメーションを取り入れたことだ。例えば土砂崩れが起きる仕組みを説明する時は、〈住民が増えた→ 傾斜地の木を伐採して土を盛った→その上に家を建てた→長雨が降ってきた→ 盛り土の部分が家ごと流される〉といった一連の流れをイラストの動きでわかりやすく示した。
「小学生の時、歴史の先生が授業で歴史を描いたアニメ作品を流して教えてくれて、その授業は成績がとても良かったことを思い出し、アニメーションを取り入れました」
5校で防災授業を行い、クイズ形式で進めたところ、子どもたちが集中して参加してくれた。アニメーションによって、災害に詳しくない先生方にとっても負担なく実施できるプレゼンテーションが完成した。山本さんは、子どもたちだけでなく家族も意識して「川の水の色が変わったら危険が近づいているサインだから、お父さんやお母さんに、一緒に逃げようと伝えて」と呼びかけた。
山本さんは、フィリピンに日本にはない良さを感じているという。「同僚に自分の考えを提案すると、快く受け入れてくれます。さらにより良くするためのアドバイスをくれることも嬉しいです。小学生向けに作った授業のマニュアルを基に保育園児向けを作ってくれた同僚もいました。小学校に巡回すると、子どもたちも先生方もとても歓迎してくれます。第二次大戦ではルソン島でも多くの被害者が出ましたが、フィリピンの発展に尽力してきた協力隊員の先輩方の存在があって、自分が受け入れられているのだと思います」。
「フィリピンでは『Ber months(バーマンス)はクリスマス』という言葉があります。12月(ディセンバー)だけでなく、最後にBer(バー)がつく9、10、11月もお祝いするという意味です。それでは年の3分の1ですが、決して誇張ではありません」
JICAフィリピン事務所の浅田恵理さんはそう話す。9月に入ると家々や街中には、大きなクリスマスツリーや伝統的な星型のランタン「パロル」が飾られ、マライア・キャリーのクリスマスソングが流れる。
「どの職場でもクリスマスパーティーに向けた委員会が結成され、ダンスの練習が始まります。この時期はクリスマスのために仕事と同じくらいのエネルギーが注力されているようです」
プレゼント交換も気前よく行われ、ドライバーや警備員などのスタッフ、マンションの管理人たちなど、日頃お世話になっている人たちに感謝の気持ちと共にプレゼントを贈る。パーティーが続くため、クリスマスでボーナスを使い切ってしまう人も多いとか。
Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位