政府からの協力隊活動への評価が高く
今後も教育分野などで大きな期待がかかる
面積 | 1万8,270k㎡(四国とほぼ同じ大きさ) |
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人口 | 93万6,375人(2023年、世界銀行) |
首都 | スバ |
民族 | フィジー系(57%)、インド系(38%)、その他(5%)[2007年、政府人口調査] |
言語 | 英語(公用語9のほか、フィジー語、ヒンディー語を使用 |
宗教 | フィジー系はほぼ100%キリスト教、インド系はヒンドゥー教、イスラム教。全人口に占める割合はキリスト教 52.9%、ヒンドゥー教38.2%、イスラム教7.8% |
※2025年1月21日現在
出典:外務省ホームページ
派遣取極締結日:1982年8月5日
派遣取極締結地:スバ
派遣開始:1983年7月
派遣隊員累計:767人
※2025年2月28日現在
出典:国際協力機構(JICA)
JICAフィジー事務所長。1999年、IT企業を経て国際協力事業団(現JICA)に入職。本部大洋州課のほか、JICA沖縄とJICAフィジーにそれぞれ2回赴任(最初のフィジーは2005年から3年間)。情報システム部門を3回経験していることもあり、「島とIT」が自身の主たるキャリアテーマ。情報システム部次長を経て、23年12月より現職。
フィジーと日本との関わりは、19世紀末にサトウキビを栽培するプランテーションの労働者として日本人が渡航したことに始まったといわれ、その後も真珠の採取や、カツオ・マグロ漁などの水産業を通じたつながりが続いてきました。現在は、美しい海や自然豊かなリゾート地としてのほか、語学留学先としても人気があります。
協力隊の派遣は40年以上の歴史があり、かつては農業土木分野、自動車整備など多様な職種の隊員がいました。過去にクーデターが数回あり、直近では2006年に発生し、以降は政情不安定な時期があったものの、コロナ禍で一斉帰国するまで派遣は続けられてきました。現在は、廃棄物管理の啓発を行う環境教育や、生活習慣病対策を中心とした保健医療分野の派遣が多く、野球やラグビーといったスポーツ系の隊員もいます。
フィジーは2年前、16年ぶりに政権交代をしており、政府からは日本が得意とする教育分野への支援再開が期待されています。かつて情操教育の質向上を中心とした活動で評価が高かった小学校教育隊員などから派遣を増やし、要望の多い日本語教育についても受け入れ態勢を確認しながら派遣を検討していきたいと考えています。
この国は歴史的経緯から、主に先住民系フィジー人と、インド系フィジー人(※)の2つの民族から成り、それぞれの文化や風習に配慮した活動が求められます。基本的にはフレンドリーでホスピタリティがあり、国民の幸福度調査で世界一になったことがある国です。小さな島嶼国で人的なつながりが強いため、政府高官もJICA海外協力隊の活躍をよく知っており、温かく受け入れてくれます。
“フィジータイム”といわれるように、時間に縛られず今を楽しみ、家族を大切にして助け合って暮らすのがフィジーの人々の生き方です。隊員の皆さんには、時間や働き方に対す る姿勢が日本人とは異なることを理解し、活動を進めることをあまり焦らず、「あの日本人ボランティアが来てくれてよかった」とフィジーの人の心に残る活動になることを期待しています。
※インド系フィジー人…イギリス植民地時代にサトウキビのプランテーションで働く契約労働者としてインドからフィジーにやって来て、契約終了後もフィジーにとどまったインド人およびその子孫の人々。
都市計画/1987年度2次隊・東京都出身
大学卒業後、都市計画コンサルタントとして建築事務所に勤務。海外で経験を積みキャリアアップにつなげようと協力隊に参加。帰国後は国連難民高等弁務官事務所での国連ボランティアを経て、1991~94年、アメリカの大学に留学し修士号を取得。国連食糧農業機関でのインターンを経て、国連児童基金(ユニセフ)のジュニアプロフェッショナルオフィサーとしてモンゴル事務所に勤務。正規職員となりコソボとモンテネグロで事務所長、タジキスタン、ウクライナ、キルギス共和国、レバノンの各国での事務所代表を経て、2022年より民間支援企画調整局副局長を勤める。
1987年、フィジーに都市計画隊員として派遣され、首都スバの開発調査や企画、環境問題などの調査に携わったのが、現在、国連児童基金(ユニセフ)で民間支援企画調整局副局長として活躍する杢尾雪絵さんだ。
日本の建築事務所で都市計画コンサルタントとしての仕事にやりがいを感じていた頃、直面したのは男女差別だった。「当時は女性というだけでクライアントは男性と同等に扱ってくれなかったのです。協力隊で海外に出て語学力も身につけて帰ったら箔がつくと思って応募しました」。
フィジーでは、先住のフィジー系が人口の約6割、インド系が約4割を占める。英国からの独立後はインド系が経済を回すようになり、民族による貧富の格差が生まれた。政治はフィジー系が担ってきたが、87年の総選挙でインド系の勢力が強まり、危機感を覚えた軍によるクーデターが起きた。
杢尾さんの派遣はそれが治まった直後に当たる。配属先は都市開発省・都市計画局で、同僚にはフィジー系・インド系双方がいて問題なく一緒に仕事をしていたが、「仕事以外の場では自然と民族ごとのグループに分かれていました」。
杢尾さんが開発計画のための現状調査をした場所の一つがスバ郊外のラミ。観光客が足を運ばないこの地域には当時、大量投棄されたごみの山と不法占拠によるスラム街があった。その不衛生で劣悪な住環境に驚いた。
杢尾さんは住民の多くが地方の農村から出てきたと知ると、半年間、農村に住み込み、生活の様子やその課題について調査した。そこには現金収入はなく、電気や水道もないが、ゆったりとした時間が流れる中、自給自足で助け合って暮らす人々の姿があった。子どもたちはココナッツの実をラグビーボール代わりにして遊んでいた。「時間にこだわらず、モノがなくても自分らしい暮らしをする姿に、お金では測れない豊かさを感じるようになりました」。
そんな杢尾さんの活動で大きな壁になったのは言語だった。都市計画の活動は、読み・書き・交渉がメインとなる。公用語は英語だが、配属先にはフィジー系、インド系の職 員の他に、オーストラリア、ヨーロッパなどからのボランティアもいて、それぞれ日本人が学校で習うアメリカ英語とは全く違うアクセントや発音だった。
「同僚たちが話すことがほとんどわかりませんでした。調査結果を書類にまとめて提出することはできても、口頭で交渉することが難しく、劣等感に苛さいなまれていました」
しかしある時、杢尾さんは自分の英語力の低さを気にしている人は誰もいないことに気づいた。「同僚たちは寛容で楽観的で、『英語ができないから、この人に仕事をさせられない』ということは皆無で、気持ちが楽になりました。現在、国連で仕事を始めて30年近くになりますが、フィジーと同様で、出身国によって発音やアクセントが異なるのは当然のこととして認められています。自分の英語の発音を気にするのは日本人だけかもしれません」
任期終了を前に、民族や経済、地域格差から来る問題を解決に導けずに心残りを感じていた杢尾さんは、欧米の大学院で国際開発を勉強することに決め、国際協力の道に進んだ。「思い切って踏み込んだ協力隊経験で私の人生の扉が開きました。若い隊員の方たちにも、『世界を変えていこう』という気概で頑張ってほしいと思います」。
SV/廃棄物処理/2015年度4次隊、
SV/キューバ/廃棄物処理/2022年度3次隊・和歌山県出身
10代の頃にアフリカ飢餓のニュースに衝撃を受け、大学生時代に協力隊の説明会に参加したが専門性や経験がないため応募を断念。和歌山県田辺市役所に就職。廃棄物処理施設に勤務したことから環境分野に関心を持つ。仕事の傍ら地球温暖化防止活動推進員として活動し、和歌山大学南紀熊野サテライトの環境分野の講座を受講、大学院で木質バイオマスをテーマに研究し修士号を取得した。定年退職を機に協力隊に参加。キューバからの帰国後は、熊野古道英語ガイドを行っている。
フィジーでは経済発展と人口増加に伴いごみが増え続けているが、最終処分は主に埋め立てで、狭い島国のため処理能力を増やすことは容易ではなく、ごみの減量など適切な対策が課題となっている。
松下精二さんは、2016年にスバの保健局に派遣され、18年から27年までの廃棄物処理基本計画の策定に携わった。日本の市役所に長年勤め、その中で廃棄物管理業務を担当した経験を生かして活動した。
松下さんは計画作成を行う職員に助言やサポートをするものと思っていたが、配属先の上司から「あなたの考えで基本計画を作ってほしい」と原案作りを一任された。「フィジーにとって最も良いごみ処理方法を考えよう」と他の自治体の状況を調べたり、同様の課題を抱える大洋州9カ国を対象にJICAが行っている廃棄物管理改善プロジェクトから情報収集をしたりしながら原案作りを進めた。
当時のスバには管理型の最終処分場があり、廃棄物から発生する水を土壌と遮断・処理し排出していた。家庭ごみの収集も週3回行われ、公設市場から出た青果類の廃棄物をコンポスト化する取り組みも行われており、「途上国としては進んでいる印象を持ちました」。ただ、家庭ごみの分別は行われておらず、環境への影響が懸念された。
そこで松下さんは、ごみを出す側である住民の意識を変えることを考えた。ごみ処理料金を上乗せした指定ごみ収集袋の導入、5R(※)の推進、分別回収、市民と企業が連携して環境に配慮した活動を行うことなどを盛り込んだ。
松下さんが作成した「原案」を2人の同僚が検討した上で、課長や部長など上司の承認を受けて「素案」とし、有識者からの意見、国との協議、他の市や事業者などへの説明会を経て、最後に市議会で採択される仕組みだ。
上司から「8月までの3カ月で原案を作ってほしい」と言われた松下さん。今までの経験から、こうした計画は最後の段階で変更などが予測され、時間がかかることがあるため、できるだけ早く進めよう」と意気込んだ。原案を急ぎ、予定より早い7月には上司を交えた検討会を持とうとした。
しかし、同僚や上司が他の業務と兼務だったことや同僚の家族の病気、冠婚葬祭などによる休暇でスケジュールがなかなか合わなかった。初めて検討会が開けたのは11月末。その後も進展は遅かった。さらなるデータ収集や調査、それに基づき詳細を詰める作業が1年以上続き、英文チェックや検討を経てようやく素案となったのは翌17年8月。松下さんの任期中での実現も危ぶまれる中、有識者や関係者による検討が済んで計画が市議会で採択されたのは18年2月、松下さんの任期終了1カ月前にギリギリ間に合った。
「フィジー人はのんびりしているけれど最終的にはなんとかすると聞いていて、そのとおりでした。計画策定を焦って一人でイライラしていましたが、私ももっとのんびり構えてよかったのかもしれません」と振り返る。帰国直前、同僚たちが計画のお披露目式をしてくれたことに松下さんは感激し、彼らが熱意を持って計画を進めてくれることを願いながら帰国した。
※ 5R … 3R(リデュース・リユース・リサイクル)に加え、リフューズ(断る=ごみの元になるものを買ったりもらったりしない)、リペア(修理=壊れたものを修理しながら長く使う)の2Rを含めた5つの行動。
コミュニティ開発/2023年度1次隊・福岡県出身
大学時代にアジア各国を回り、貧困や格差に疑問を感じて大学院で国際開発学を修了。協力隊参加を考えたが社会人経験を積もうとテレビ局に勤務。転職し、化粧品メーカー2社で新規事業立ち上げ、電気機器メーカーでリサーチ、マーケティングに従事。趣味のヨガを仕事にすることにしヨガスタジオを約15年間主催した。海外にいる師匠の下でヨガ修行をするため毎年3カ月~半年を海外で過ごす生活を送る。コロナ禍で海外に出られず時間が生まれたため、以前から考えていた協力隊に参加。
フィジーでは家父長制に基づく慣習が依然として残っており、社会における女性の立場は男性よりも弱い。2023年7月から派遣されているコミュニティ開発隊員の永原 朱さんは、女性・子ども・社会的保護省(以下、女性省)女性局で女性の経済的地位向上を目指す活動に当たっている。女性省が主導して各村につくった女性グループのうち40余りに産品作りのノウハウやビジネスの基本、貯蓄などについてワークショップ形式で教えている。
対象となる女性グループは主島のビチレブ島をはじめ、他の島にも広がっている。スバからフェリーやボートを乗り継ぎ1日がかりで訪れたカンダブ島ティリバ村では、トイレットペーパーやせっけんなど生活用品を売る小さな店の立ち上げに携わった。道路が整備されていないため生活用品の購入には島の中心的な港まで船で行くしかなく、売店ができることは村を挙げての願いだと聞いていた。
「訪れて初めて、この村では誰かしら店を出しては経営が続かずに閉めるということを繰り返していたことがわかりました。なぜ閉店になったのか、店を出した経験がある女性たちに原因を見つめ直してもらうところから始めました」
すると、店舗の外観・内観共に体裁を整えていない、営業時間を守らない、帳簿をつけないなど、運営の基本がおろそかになっていたことがわかってきた。
「店舗として認識してもらえなかったり、開店時間が遅れたりしたら、その分、お客さんを失ったことになりますよ」
永原さんはビジネスの基本を話し、収支の仕組みはもちろん、店を運営する際に必要な店番や在庫管理など、それぞれの役割について説明した。座学を受けることに慣れていない彼女たちのため、イラストによる説明やグループワークを取り入れ、店舗運営のさまざまな場面を設定しロールプレイをしてもらった。
永原さんが感じたのは、先住系フィジーの人たちのお金や貯蓄についての理解が十分でないこと。貨幣経済の歴史が浅いことや、村では今も自給自足に近い生活をしていることなどが背景にある。
それは女性省の同僚たちも同様で、「給料日に全部使ったり、親族に分けてしまったりで、『通勤のバス代がなくなってしまったから貸して。ケレケレ』と言われるんです」。
“ケレケレ”は「助けて・ちょっとちょうだい・お願い」といった表現で、伝統的に共同体内で物々交換やモノの貸し借りをし、皆で助け合うという価値観に基づく言葉だ。しかし、女性の経済活動をサポートしている同僚たちには金融リテラシーを高めてほしい。永原さんは配属先でも貯蓄についての講座を開き、「少し貯金してみない?」と勧めている。そのかいあって最近は、「自分の子どもにも貯金を教えたよ」という同僚も出てきた。
昨年、子どもからお年寄りまで村全体で楽しむイベントを企画し、他の隊員たちの協力を得て高齢者介護や野球などのプログラムを行い、男性に女性の地位向上について理解を促す機会としたところ、村からも女性省からも高く評価されたため、地域を拡大して今年も行う予定となった。
「できるだけ多くの村に出かけて、村の人々の暮らしを見ながら取り組み方を考え、同僚たちと共有していきたい。小さな種をまき続けたいと思っています」
カバはフィジーをはじめ大洋州で親しまれている飲料で、ヤンゴナという木の根を細かくし水で抽出したものだ。アルコールは含まれていないが酩酊感があり、鎮静効果がある。
伝統的な儀式のための飲料でもあり、「外国のトップを歓迎する式典や建物の落成式などでも“カバの儀式”が行われます」と若杉 聡さんは言う。「20年ほど前は夕方になると原料を金属の器具でつぶす音が聞こえてきましたが、近年は手軽に作れる粉末が売られています。街中にはカバを提供する店、いわば“カバ・バー”があり、インド系の人たちも一緒に飲んでいます」。
永原 朱さんも村に行けば毎回、カバ会に参加する。「私は住民とのコミュニケーションの場と捉えています。皆、飲みながらおしゃべりしているのですが、数時間たつと、その作用から無口になり、ぼーっとなった後、解散していきます。村では数少ない娯楽の一つにもなっているようです」。
Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位