東方政策を通じて日本とつながりが強い高位中所得国
産業人材育成、社会福祉分野などで隊員が活躍
面積 | 33万k㎡(日本の約0.9倍) |
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人口 | 3,350万人(2023年、マレーシア統計局) |
首都 | クアラルンプール |
民族 | マレー系70%(先住民12%を含む)、中華系23%、インド系7%(2023年、マレーシア統計局) |
言語 | マレー語(国語)、中国語、タミール語、英語 |
宗教 | イスラム教(連邦の宗教)64%、仏教19%、キリスト教9%、ヒンドゥー教6%、その他2%(2023年、マレーシア統計局) |
※2024年3月27日現在
出典:外務省ホームページ
派遣取極締結日:1965年12月23日
派遣取極締結地:クアラルンプール
派遣開始:1966年1月
派遣隊員累計:1,660人
※2025年3月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)
(サモア/体育/1997年度3次隊・兵庫県出身)
JICAマレーシア事務所・企画調査員(ボランティア事業)。大学卒業後、私立中学校・高校で3年間体育の教員を務めた後、サモアへ体育隊員として赴任。帰国後、教員を経て2002年にJICAフィジー事務所のボランティア調整員に。24年から現職。
日本とマレーシアのつながりとして重要なことに“東方政策”、いわゆる“ルックイーストポリシー”と呼ばれる政策があります。1981年、マハティール首相(当時)がマレーシア発展のため、日本や韓国の成功から学ぶことを提唱し、スタートしました。これに基づき、JICAや日本の自治体、企業での各種研修や、大学などでの留学の受け入れが盛んになり、3万人近いマレーシア人が日本を訪れて学んでいます。
東方政策は協力隊派遣にも少なからず影響を与えてきました。日系企業進出に伴って日本語学習熱が高まる中、84年に国立の全寮制中等学校に日本語科が開設され、多くの日本語教育隊員が貢献してきました。その結果、派遣開始から今日に至るまで最も要請の多い職種が日本語教育です。
次いで2000年代初期までは幼児教育の要請も多くありました。最近では、自動車整備や電気・電子機器といった産業人材育成分野のほか、障害児・者支援や高齢者介護といった社会福祉分野も多く、25年4月現在派遣されている18人の約半数が社会福祉分野の隊員となっています。その他、日本人の強みが生かせる分野として期待されているのがスポーツです。今は柔道隊員が活動していますが、新体操とフィジカルアクティビティ隊員の派遣が決定しており、現地の人も心待ちにしています。
近年、目覚ましい発展を遂げているマレーシアは、高所得国入りを目前にしています。周辺国を支援する立場になりつつあり、マレーシアが行う支援に対して、日本も協力することが期待されています。その一例として、東南アジア全体の理数科教育の質向上を図るためペナン島に設立された理数教育センター(※)に、理科教育と数学教育隊員が派遣されています。
マレーシアでは、協力隊に求められるレベルが高く、ニーズの一つ一つをくみ取って期待に応えていくことが大事です。地域で見てみると、タイと陸続きのマレー半島と、南シナ海に浮かぶボルネオ島の北部に分かれていて、それぞれ文化や環境が異なっています。人種もマレー系だけでなく、中華系やインド系の人々も暮らす多民族国家ですから、一つの国でいろいろな文化や宗教に触れることができ、隊員たちは多くの学びを得ながら協力隊活動に励んでいます。
※理数教育センター…教育、科学技術、文化を通じてASEAN諸国間の協力を促進する目的で1965年に発足した、東南アジア教育大臣機構の専門機関の一つ。同機構の事務局はタイのバンコクにあり、ASEAN諸国および東ティモールの11カ国が加盟している。
マレーシア/稲作/1965年度1次隊・福岡県出身
砂糖工場に勤める父親の影響で、サトウキビ農園の運営を夢見て、東京農業大学農業拓殖学科(現 国際農業開発学科)に入学。学業が進むにつれ、OTCA(現 JICA)の技術協力専門家が途上国の農業開発に協力していることを知り、農業技術専門家として途上国支援を目指す。卒業後、マレーシアの初代隊員として協力隊に参加。帰国後は青年海外協力隊事務局に勤務し、隊員を支える立場で活躍。JICAの神奈川国際水産研修センター勤務などを経て2002年に定年退職し、現在は協力隊を育てる会の会員として協力隊活動を応援している。
草野忠征さんが初代隊員としてマレーシアに派遣されたのは、小田 実の旅行記『何でも見てやろう』などの影響もあって若者の海外志向が盛んだった1966年。大学で農業を学んでいた草野さんは、在学中に探検部による北ボルネオ(現 サバ州)の農業調査団に参加。調査団長の杉野忠夫教授から「こんな貧しい竹小屋で、ここの村人と生活ができるかね」という問いに「大丈夫です、まあ何とかなります」と軽く答えたが、卒業後すぐ協力隊に参加し、本当にこの地域で3年間生活することになるとは思ってもいなかった。
草野さんの配属先はサバ州農業局のコタベル農業事務所。任地のタングシ村は水田が一面に広がる穀倉地帯で、村人の住居は多くが高床式の木造家屋。草野さんも配属先が提供した同様の家屋に住んだ。配属先からは水稲栽培を営むバジャウ族の農家の収穫量予測調査を依頼され、単位面積の稲を刈り取って、全体の収量を算出する「坪刈り調査」を実施。
その後は中央農業試験場から、食糧増産を目指すため二期作に適した新品種の栽培適正試験や試験圃場の運営管理・調査を任された。さらに、山間部で住居を移動しながら焼き畑を行って陸稲を栽培する先住民のドゥスン族の定住化を促すため、サバ州政府が水稲栽培を勧めていたことから、水稲の二期作の普及活動や、それに必要となる耕運機のデモンストレーション・運転技術指導に取り組んだ。
「バジャウ族の農家から借りた田んぼを展示圃場とし、彼らにも手伝ってもらいながら雨期と乾期の2回、水稲を育てました。雨期に収穫した米は現金化し、乾期に収穫した米は自給用にするように助言しました」
ドゥスン族の人たちに水稲栽培のことを理解してもらうのに苦労した草野さんだったが、たくさんの水が必要なことを乳児への授乳のように身近なことに例えて説明するなど、工夫して活動を継続。やがて一部のドゥスン族の人や、バジャウ族の農家らが二期作に関心を持って始めてくれた。
当時、電気も水道もない環境での生活は厳しかった。水浴びも洗濯も川で行うため、服は泥水の色に染まった。飲料水はドラム缶にためた雨水で、側面をたたいてボウフラが底へ逃げた隙に上澄みをすくい煮沸して飲んでいた。それでも「ドゥスン族と水田を耕す作業中、土の中から逃げ出したネズミや、魚釣りのように針にバッタをつけて釣り捕った野鳥をさかなに、ヤシ酒を飲み交わしたことは良い思い出です」。
戦後まだ20年ほどの時代ながら反日的な嫌がらせなどもなく、活動は充実していた。水稲栽培の適性試験が続いていたため、任期を1年間延長して、帰国後は協力隊事務局に勤務し、協力隊員たちをサポートした。
「無事に3年間の活動を終えられたのは、村人たちが、豚を食べて酒も飲む異教徒の私を許してくれたからです。イスラム教の包容力を知ったおかげで、その後の人生でも『自分は自分、他人は他人』と割り切りつつ、相手の立場を尊重するという考えを大事にするようになりました。JICA職員としても、隊員の個性を尊重し、JICAボランティア事業を支えるボランティアという気持ちでやってきました。今、活動している隊員の方たちも、健康に留意しながらいろいろなチャレンジをしてほしいですね」
ザンビア/自動車整備/1991年度3次隊、SV/マレーシア/自動車整備/2019年度2次隊、2022年度7次隊・大分県出身
高校卒業後、海上自衛隊で機械整備の楽しさに触れ、自動車メーカーへ。現場で自動車整備を10年間経験した後、スーパーバイザーとして後進の指導に携わる。身につけた自動車整備技術を途上国で恩返ししたいと、55歳の役職定年を機に協力隊に参加。2019年度2次隊で19年12月にトレンガヌ州の産業訓練校に赴任するも、コロナ禍で20年3月に帰国し、22年度7次隊として同じ配属先へ再赴任。帰国後は、自動車整備関係の会社に勤める外国人技能実習生のサポートに取り組んでいる。
コロナ禍による待機期間を経た2022年、長年自動車整備に携わってきた安藤裕治さんは、今まさにマレーシアからの期待が最も大きい産業人材育成の分野で、自動車整備隊員としてトレンガヌ州の産業訓練校に派遣された。
「マレーシアは40年までに電気自動車の普及率を38%にするという目標を掲げています。それにあたり、電気自動車やハイブリッド車を整備できる技術者を増やしたい。そこで産業訓練校の先生に向けて、電気自動車やハイブリッド車の整備技術を指導してほしいという要請でした」
しかし現地に入ると、先生たちは電気自動車やハイブリッド車の整備技術の指導など求めていなかった。それよりも今、流通している車の修理方法を教えてほしいという。「どうも要請した人と現場の人とのコミュニケーションが取れておらず、私が来た目的も理解されていなかったようです」。
特に赴任先のトレンガヌ州は、99%がイスラム教という地域。よその人間に対して警戒心が強く、現地の人にとって安藤さんは異邦人。そこで安藤さんは指導うんぬんよりも、まず自分が何者であるか、存在を知ってもらうことから始めた。
「着任時が、ちょうどラマダン明け。学校主催でお祝いのハリラヤ(祝祭日)が予定されていて、これをチャンスと捉えました。同僚にマレーシアの衣装を借り、カラオケで日本の曲を披露したら大うけ。みんながゲラゲラ笑いながら、動画もたくさん撮ってくれました」
そこから扉が一気に開き、輪の中に入れるようになった。
「先生たちの授業を見学する機会が増えて、そこから先生たちが何を知りたいのか、どんな技術を求めているのか、といったことが把握できるようになりました」
そして一人の先生から、昨今の車に搭載されているコンピュータシステムについて質問を受けたのをきっかけに、先生向けの講義を2カ月に1回ペースで行うことになった。実は、先生たちの学ぶ意欲をかきたてた理由がもう一つあった。
「派遣後すぐ、配属先の代表チームが年に1回行われる全国の産業訓練校対抗の自動車整備技術大会に出場しました。結果は惨敗。学校もショックを受けて、指導を立て直そうという機運があったのです。これは私にとってラッキーでした」
安藤さんは先生向けの講義の中で、先生たちが授業でまねできるように資料作りにも工夫を凝らした。
「イラストや図形を組み合わせたり、大事な言葉はスライドに入れたり、とにかく伝えたいことをわかりやすくまとめました。先生たちもそれを見て、資料作りのコツがわかってきたようで、生徒たちのやる気を引き出す授業ができるようになってきました」
先生への働きかけはうまくいったが、心残りだったことがあるという。翌年の整備技術大会にエントリーしなかったことだ。「前年の結果に学校側がおじけづいたんです。私としては基礎の部分を積み上げて、少しずつでも順位を上げていけば、どんどん伸びていくと思っていましたから、そこを説得し切れなかったのは残念でした」。
しかしながら、先生たちの知りたいことを引き出せたのは大きな成果だったと振り返る。
「日を重ねるごとに『次はいつ?』『講義が楽しみ』といった声が増えて、先生たちを“もっと知りたい”という気持ちにさせられたのは嬉しかったです。電気自動車やハイブリッド車の知識や技術を身につけるという当初の目標まで、もうすぐというところまで来ています」
マレーシア/理学療法士/2022年度2次隊・大阪府出身
専門学校卒業後、豊中市立児童発達支援センターをはじめ、市保健所や市立病院、市立障害者福祉センター、ホスピス型介護付き高齢者住宅などで理学療法士として39年間勤務。かつて協力隊に興味を持っていた時期があり、協力隊OVと知り合ったり、元職場の先輩や専門学校の同級生、後輩が相次いで亡くなったことを受けて「やりたいことはやっておこう」と協力隊に応募。2022年からクダ州にある0~14歳の重度障害児が入所している施設で、理学療法士として活動。現在も半年間の任期延長中。
現在、理学療法士隊員として活動しているのが宮本浩徳さんだ。クダ州の重度障害児入所施設で子どもたちの理学療法に当たっている。日本での現場経験が豊富な宮本さんだが、赴任した当初は、現地の環境に衝撃を受けたという。
「暴れる子はひもで縛られ腕に傷があったり、走り回る子は鉄格子で区切られたスペースに隔離されていたり、まるで40年前に日本の精神科で見た閉鎖病棟のようでした。重度障害や知的障害のため寝たきりの子どもも、反応や動作を引き出すための働きかけをあまり受けていない様子でした」
しかし、その状況も、その国の長い歴史や経緯の上で今がある。配属先の同僚に対して一方的に「こうした方がいい」と言っても、おそらく通じないと考えた。
「その代わり、『こうすれば、こんな変化があったよ』ということを実際に見せて伝えるようにしました。例えば、寝たきりの子には、クッションなどを使って楽な姿勢を取らせると、呼吸が楽になり、手足の硬直を防げるんです。また、初めはほとんど反応がなかった何人かの子どもたちも、繰り返し声がけしていくうちに発声で返してくれたり、笑ってくれたりするようになりました」
宮本さんが継続的にやり方を見せていくうちに、だんだんと同僚たちもまねしてくれるようになったようだ。
「同時にSNSのグループに日々の活動と写真を投稿し、私の活動を知ってもらうようにしました。そのうち施設長からも『ありがとう』『いいね』と言ってもらえるようになり、同僚もSNSを活用してくれるようになりました」
マレーシアには重度障害の子どもたちが教育を受ける機会はない。支援学校はなく、一般校の支援学級はあるが、そこでもついていけなければ、専門職のいない地域のリハビリセンターに行くことになる。そこで宮本さんは、社会福祉分科会のメンバーと共に日本の重度障害児の教育について紹介しようと、クダ州の教育局や福祉局の担当者や施設職員ら約40名を集めて、研修会を開いた。
「日本で行われている重度障害児教育の実際、たとえばパラバルーン(※)やお店屋さんごっこ、手作りおもちゃで遊んだりして、子どもたちが楽しんでいる様子を実際に見てもらい、参加者にも体験してもらいました。問題意識を持っている人は何かを感じてくれたようです」
配属先から任期延長を要望された宮本さんは、自分も「もう少しやりたいことがある」と半年間延長。
「マレーシアではあまり使われていない“プロンボード”という訓練器具を作って紹介しようと思っています。前傾位で立つ姿勢をサポートし、体の筋肉を鍛えたり、手を使いやすくする器具で、施設の多くの子どもたちに効果的ですから、ぜひ活用してほしいと思っています」
活動を振り返り、「マレー系、インド系、中華系の人たちはもちろん、マレーシアに住む日本人との関わりも、かけがえのないものになった」と話す宮本さん。中には奇跡的な出会いもあった。
「昔、JICAの研修プログラムで日本に来ていたマレーシア人の知人と約30年ぶりに再会できたんです。本当に嬉しい出来事でしたし、マレーシアに縁があったのかなと心から感じました」マレーシア政府が40年以上前にまいた種は、確実に育ち、実を結んでいるようだ。
※パラバルーン…直径3 ~ 8mの円形の布のふちを複数人でつかみ、タイミングよく上下させたりして遊ぶ遊具。感覚への刺激、協調性の向上、運動能力を高める効果などが期待できる。
「マレーシアで多数派を占めるマレー系の人たちはイスラム教徒なので、女性は肌を露出しませんし、男女が人前で触れ合うこともありません。住居に関しても、マレー系の大家さんだと契約書にノンハラルの食物の持ち込みは禁止、と書いてあります。そのためマレー系の人の前では豚肉やアルコールは口にしない、また断食の時期は日中、人目につく場所で飲食をしない、などといった配慮は必要です」
そう話すのは、企画調査員(ボランティア事業)の浅井浩史さん。一方、中華系やインド系の人たちも多いことから、イスラム教以外にも、仏教やキリスト教、ヒンドゥー教などの宗教が混在している。
「ここで生活していくには、いずれにも肩入れしない中立的な姿勢を保つことが大切です。現地の人たちは互いに尊重し合いながらつき合っているので、それをまねて、どの民族や宗教でも、同じように対応するとよいと思います」
Text=池田純子 写真提供=ご協力いただいた各位