派遣国の横顔

チュニジア共和国チュニジア共和国

青少年活動や音楽、スポーツ系職種の派遣が盛ん
壮大な歴史が培った遺跡群など見どころも豊富な国

チュニジア共和国

チュニジアの基礎知識

面積16万3,610k㎡(日本の約5分の2)
人口1,246万人(2023年、世銀)
首都チュニス
民族アラブ人(98%)、その他(2%)
言語アラビア語(公用語)、フランス語(国民の間で広く用いられている)
宗教イスラム教スンニ派(ごく少数だがユダヤ教、イスラム教シーア派、キリスト教も信仰されている)

※2025年1月17日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1974年7月22日
派遣取極締結地:東京
派遣開始:1975年4月
派遣隊員累計:532人
※2025年4月30日現在
出典:国際協力機構(JICA)

チュニジア共和国
お話を伺ったのは
相澤葉子さん
相澤葉子さん

JICAチュニジア事務所・企画調査員(ボランティア事業)。大学を卒業した後フランスに留学し、帰国後は通算16年以上、駒ヶ根青年海外協力隊訓練所で英語とフランス語の講師を務めた。その間、カナダ人の夫と共にサウジアラビアやチェコ共和国などの海外各国にも在住。2020年から企画調査員(ボランティア事業)としてJICAラオス事務所に勤務。23年より現職。

派遣国の横顔
チュニス湾を見下ろす断崖の上にある町、シディ・ブ・サイド。観光地として名高く、アラブ建築やアンダルシア建築が組み合わされた白い壁と青い扉の住宅が地中海に映える

   チュニジアがフランスから独立した1956年、日本はすぐに国交を樹立していて、来年で70周年を迎えます。今年は当国への協力隊派遣開始から50周年を祝し、2月に首都チュニスで日本祭りを開催しました。隊員の皆さんも、配属先の青少年と共に日本の踊りや日本語スピーチコンテストを実施したり、聴覚障害児による劇を企画したりとイベントを盛り上げてくれました。会場にはチュニジア人約2,000人以上が来場して熱気にあふれ、現地の人々が日本にとても友好的で高い関心を寄せてくれていることを嬉しく感じました。

   協力隊派遣開始当初は医師も含めた保健医療分野のほか、電子機器や自動車整備といった職業訓練分野など専門職種の派遣が中心でしたが、社会・経済の発展に伴い職種が多様化。スポーツや地方での農業、福祉の分野へと広がりました。2000年代以降は経営、工業分野といった専門性の高いシニア海外ボランティアが大半を占めた時期もあります。15年のテロ事件後の約4年間の派遣中断、コロナ禍による一斉帰国を経て、現在は、青少年活動や音楽、スポーツ、障害児・者支援などの隊員が、首都にアクセスしやすい沿岸部で活動しています。今後は、都市部との経済格差が大きい南部地域への派遣も検討していく方針です。

   チュニジアで活動する際は、自分の考えを言葉にして相手に伝えることが大切だと思います。困り事や不満があっても遠慮しがちな日本人と対照的に、チュニジアの人々は気持ちを率直に主張するのですが、言い争いになっても根に持たず、明るく陽気な国民性です。思っていることを自分の中にため込まず、
拙い語学力でも一生懸命話せば、きっと受け止めてくれるでしょう。

   チュニジアは豊かな文化も魅力的な国です。アラビア語のチュニジア方言の朝の挨拶一つ取っても、「スベールヒール(良い朝)」の他に「光の朝」「花の朝」「ジャスミンの朝」「デーツとミルクの朝」など詩的な言葉を交わします。隊員の皆さんには、好奇心を全開にして新たな文化を学んでほしいですね。

職業訓練、障害者福祉、スポーツ分野で専門のスキルを生かして
チュニジアの期待に応える隊員たち

八角幸雄さん
八角幸雄さん

チュニジア/電子機器/
1975年度1次隊後期組・千葉県出身

大学卒業後、千葉県庁に技術職(電気技師)として2年間勤務した頃、通勤電車内で協力隊員募集の広告を目にし、技術を生かして海外に貢献したいと協力隊に参加。帰国後もJICA専門家としてチュニジアに家族同伴で3年間赴任。その後外務省に入職し、本省および在外公館に勤務。通算25年ほどをモロッコ、セネガル、コンゴ民主共和国、ベルギーなどフランス語圏の各国で過ごす。退官後の2012~20年は千葉県JICA協力隊を育てる会の理事を務めた。

“ハイテク日本”からの隊員として
向上心ある生徒たちに電子技術を指導

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電気・電子技術職業訓練センターの実習室。八角さんはカラーテレビの仕組みや修理方法などを教えた

   1975年、チュニジアへの協力隊派遣は看護師隊員の女性2人から始まり、半年後に男性隊員第1号となる電子機器隊員の八角幸雄さんが派遣された。元々はラオス派遣の予定だったが、日本での訓練期間が終了する間際、隣国ベトナムでの戦争激化の影響を受けて派遣中止となり、チュニジアへ任国を変更することになった。

「訓練期間中に学んだラオス語が役立てられないことになり、どうせなら、まったく予備知識のない国へ行ってみようと、同じ職種の要請があった中から国名さえ知らなかったチュニジアを希望しました」

   首都チュニスに赴任した時の印象は、「とても都会で、南フランスの避暑地のように美しい街でした。生活についても不自由なく、人々の意識は高く、マナーも良かったです」と振り返る。配属先は電気・電子技術職業訓練センター。この国で最も歴史ある職業訓練校で、高校を卒業して入学してきた生徒たちに、電子機器について教えることになった。

「ラオスでは放送機材のメンテナンスをする技術者としての要請だったため、電気技師としての経験が生かせると思っていましたが、チュニジアではフランス語で、経験したことのない教員をしなければなりません。訓練所で1カ月しか教わっていないフランス語で理論を講義するのは難しかったため、実技を中心に教えることにしました」

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八角さんは職業訓練校の生徒や教員たちとチュニジア各地を旅した。写真はチュニジア最大のローマ遺跡であるドゥッガ遺跡を訪れた時のもの

   教材用の電子機器などを使い、英語の技術用語を交えながら、基礎的な仕組みを教えることからスタートした八角さん。最初は簡単なラジオの組み立てなどを、最終的にはカラーテレビの修理までを指導した。「語学力の向上に励みながら、必死で授業を行っていました。その結果、生徒が教えたことを理解してくれるようになった時は、嬉しかったですね」

   日本の家電メーカーが次々と革新的な製品を発売し、海外への輸出が活発だった当時、チュニジアでも“ハイテク日本”というイメージが浸透していた。

「生徒たちは先端技術を知りたいと積極的に質問してきました。チュニジアでは知識や情報がフランスから入ってくるため、私が教えることをフランスの技術と比較して、『やはり日本はすごいんだな』と認識したようでした」

   八角さんは、生徒や教員たちが日本を高く評価してくれることに嬉しさを覚える一方で、「文化的に開発途上にある国に、技術を教えに行くと思っていましたが、そうした意識は間違っていたと感じるようになりました」。

   チュニス旧市街にある巨大な石門、中部の町エル・ジェムにある円形闘技場など、古代ローマ帝国の名残をとどめる遺跡の数々を訪ねた八角さんは、特に紀元2世紀に造られた世界最長の水道橋の設計と建設技術に感嘆した。

「ローマ文明をはじめとする地中海世界の歴史を感じ、日本とは異質な文化の荘重さに圧倒されました」

   八角さんの活動は高く評価された。帰国後にもチュニジア政府からの要望でJICA専門家として同校に再赴任し、3年間、教育のレベルアップを図った。チュニジアでの活動経験はその後、外務省職員としての25年にわたるフランス語圏勤務へとつながっていく。

「今の自分があるのは協力隊のおかげだと感謝しています。日本だけが世界ではありません。多くの方々に、協力隊に参加して視野を広げてほしいですね」

霜鳥千佳子(旧姓 齋藤)さん
霜鳥千佳子
(旧姓 齋藤)さん

チュニジア/青少年活動/2009年度4次隊・千葉県出身

大学の福祉学科で学び、保育士の資格を取得。子どもの頃から海外に憧れ、児童養護施設で4年、子ども交流館で1年の経験を積んだ後、協力隊に参加。2010年3月~11年1月までカスリン県フェリアナにある聴覚障害者施設で活動するも、「アラブの春」の影響で一時帰国を余儀なくされた。その間、東日本大震災の被災者避難所となった二本松訓練所でボランティアを行う。11年5月~12年7月に再赴任し、配属先をケルアン県の聴覚障害者施設に変更して活動。現在は民間の療育施設で児童発達支援に携わっている。

聴覚障害者支援施設で図工やダンスを教え、
子どもたちから笑い声を引き出した

派遣国の横顔
「日本ってどんな国?」と聞いてくる子どもが多かったため、日本文化紹介の一環として皆でひな人形を作って浴衣を着つけた。「子どもたちに自分の好きな色紙を選んでもらい、自由に表現してもらいました」(霜鳥さん)

   2010年から中東地域に広がった民主化運動「アラブの春」。そのきっかけはチュニジアの「ジャスミン革命」だ。12月、内陸部のシディブジド県で失業中の若者が焼身自殺したことが引き金となり、当時のベン・アリ政権に対する抗議運動が発生した。

   政情混乱を受け、隊員たちは日本に一時帰国した。その一人が、焼身事件が起きた県に隣接するカスリン県の聴覚障害者支援施設に赴任していた青少年活動隊員の霜鳥千佳子さんだ。日本に帰国して約4カ月後、任地が変更となり、5月にチュニスから南に160㎞ほどのケルアン県にある聴覚障害者施設に再赴任した。

   配属先では、聴覚障害児・者が幼児・小学・中学の各部に分かれて基礎教育を受けたり、経済的自立のために職業訓練に取り組んだりしていた。霜鳥さんは、情操教育を行うという要請に基づき、幼児部・中学部を対象に、手先を使
って自由に表現する図工やダンスを教えることになった。

   ところが同僚の先生たちは「チュニジアは援助を受ける国ではない」とプライドが高く、教育方針は保守的だった。例えば図工の授業では、塗り絵は見本と同じ色に、絵に線を引くときは定規を使うなど、先生の指示どおりの作品を作ることを良しとしていた。「私が行う自由な表現を重視した授業は“遊び”と捉えられ、それよりもアラビア語や計算について学習することが大事という考え方でした」。

   そこで霜鳥さんは一部のクラスで時間をもらい、図工に“学び”の要素を取り入れるようにした。時間の読み方を教わっているクラスではオリジナルの時計作りを、数の数え方を習っている子どもたちには切った紙が何枚あるかを数えるゲームなどを取り入れた。

   ある日、発声がなかなかできない聴覚障害の子どもたちに、息を吹くことに慣れてもらおうと、折り紙の風車作りを教えたところ、子どもたちは息を吹きかけて風車を回し、声を出して笑った。教室に響く笑い声を聞いて先生たちが集まり、「初めて笑い声を聞いた、こんなに笑うとは!」と驚いた。その後は先生たちも自由な表現の大切さや教育効果に理解を示してくれるようになった。

   悩みは、先生たちに一緒に授業をしてもらえないことだった。放課後は同僚の先生たちが、「一人で家で過ごすのは寂しいでしょう」と日替わりで家に招いて夕食をごちそうしてくれるほど仲良くなったが、霜鳥さんが授業を始めると教室からいなくなってしまう。もどかしさを抱えながら教室で後片づけをしていると、一人の先生から、「あなた、お掃除係の仕事を取るの? あなたが掃除しちゃうと、あの人クビになるよ」と言われた。チュニジアには各人に与えられた役割を他人が邪魔してはいけないという文化があり、それは自分の授業にも当てはまるため、先生たちが教室に来ないのだとようやく理解した。

   霜鳥さんは自分のチュニジア方言の拙さを逆手に取り、「助けて! 私の語学力では子どもたちに伝えられないから一緒に来て」と先生を巻き込むようにした。そうして一人だけで授業をすることは減っていった。「私の帰国後も、子どもたちの個性や表現力を引き出す授業をしてほしくて、先生たちに教えることの喜びを伝え続けた1年でした」。

城間春香さん
城間春香さん

チュニジア/卓球/2023年度1次隊・沖縄県出身

卓球選手だった父の影響で6歳から卓球を始め、大学ではスポーツ科学を専攻する傍ら、九州学生大会で個人・ダブルス・団体の各戦で優勝。卒業後は大学に助手として勤務し、卓球部のコーチを担当した。子どもの頃から海外に興味があり、大学生の時、サッカー隊員として活動した協力隊OVの先輩の話を聞いたことがきっかけとなり、卓球の知識と経験を生かして貢献したいと協力隊に参加。

選手たちの感情コントロールを大きな課題に
応援をもらえるプレーができるよう指導

派遣国の横顔
グロンバリア金のぶどう協会で卓球に打ち込んでいる選手たち。チュニジアへの卓球隊員派遣の歴史は長く、約40年にわたって多くの隊員が技術だけでなく礼儀や正しい心構えを指導してきた

   2023年7月から派遣されている卓球隊員の城間春香さんは、地中海沿いでブドウの産地としても有名なナブール県にある女子卓球クラブ「グロンバリア金のぶどう協会」で6歳から17歳の選手の指導をしている。

   配属先はチュニジア卓球連盟傘下の全国に45ある組織の1つで、約40人の選手が所属。練習場は市から提供された専用施設で、道具などは協会から貸与されており、遠征費も関係者からの寄付で賄われるという恵まれた環境だ。

   同僚コーチ2人は30年以上の卓球経験があり、東京五輪の出場選手も輩出してきた。そんな高レベルの協会で、ナショナルチームに参加できる選手を育成することが城間さんに求められている。練習は火曜から土曜の8時~10時と15時~17時の2部制で行い、日曜には公式試合にコーチとして帯同し、試合中のアドバイスなどを行う。

   城間さんが試合を見て驚いたことが、配属先のチーム、相手チーム共に選手がしばしばイエローカードによる警告を受けていることだった。打ち返せなかった時に怒りをあらわにするほか、卓球ではネットインやエッジボール(※)で得点した時は謝るのがマナーだが、謝らない選手もいるため、それに対して怒ってラケットをたたきつけたり、ボールを蹴ったりして“バッドマナー”として反則を取られるのだ。

   卓球を通じて礼儀や規律を学び、数々の大会で上位の戦績を残してきた城間さんは、「まだ勝てる可能性があるのに試合途中で諦めて負けてしまう選手も多かったため、感情のコントロールが大きな課題だと思いました。礼儀正しいプレーや一生懸命に試合に打ち込む姿は応援したくなりますし、団体戦でもチームが一丸となり、良い流れをつくってくれるものです。だから、チームメイトからも、観客からも心から応援してもらえる選手になってほしいのです」。

   道具を粗末に扱う選手がいれば、「限られた道具を大切にしよう」とその場で注意し、試合では「対戦相手へのリスペクトを忘れずに」と言い続けると、徐々に態度を改めるようになった。さらに「選手自身が目標を立て行動する力」を身につけてもらうため、それぞれの選手が大会に向けて目標を立て、そのために何をすべきかを考えさせる指導も実施。達成できると、さらに上の目標を持たせるようにした。

   一方、今まであまり時間が割かれていなかった選手たち個々の課題や練習メニューの改善点について資料にまとめ、同僚コーチと3人で話し合う機会を設けて実践につなげた。

   こうした積み重ねが実り、24年のシーズンは、団体戦で15歳以下が銅メダル、11歳以下が8位と成績を上げ、また自らも選手として参加した一般部門の団体戦では全国優勝を果たした。結果、12歳以下のナショナルチームに3名の選手が選ばれ、3月に行われた合宿には城間さんもコーチとして参加した。合宿で行われた試合では、以前は勝てなかった相手を破る選手、負けたものの最後まで真剣に試合に挑む選手の姿があった。イエローカードも見られなかった。

「残された任期で、選手たちが昨シーズン以上の成績を目指して努力し、最終的には優勝できるようサポートしていきたいと思っています」


※ネットインやエッジボール…卓球で打ったボールがネットに触れて相手コートに入った場合を「ネットイン」、台の角やふちに当たった場合を「エッジボール」と呼び、どちらも正しいリターン(返球)として得点になる。ただ、ボールが不規則に跳ねるため非常に打ち返しにくく、得点した側が手を挙げて相手に謝罪することが一般的マナーになっている。

活動の舞台裏

多様な自然・文化や古代遺跡が特色

   チュニジアの自然の魅力について、「狭い国土ながら、地中海沿いのリゾート地や、内陸部のなだらかに連なるオリーブ畑。砂漠、そして雪が降る地域もあって、さまざまな風景が見られる国です」と話すのはJICAチュニジア事務所の相澤葉子さん。

「南部の砂漠に近い地域には、映画『スター・ウォーズ』の撮影地として有名なマトマタの竪穴式住居や、タタウィンのクサール(穀物倉庫)があり、初めて見た時は本当に地上の風景なのかと思いました」

   世界文化遺産として有名なのが、3世紀に建てられたエル・ジェムの円形闘技場で、最大3万5,000人が収容できる大規模建築だ。八角幸雄さんは、「巨大建築を実現し、当時の人々が娯楽場として楽しんでいたと思うと、日本とは違う文明なのだと驚嘆せざるを得ません」と讃える。城間春香さんの任地からは電車で3時間ほど。「夏の夜に闘技場で行われたコンサートに行った時は、ライトアップが幻想的でとてもすてきでした」。

チュニジア南部のタタウィン周辺には約150のクサールが残されている。写真はクサール・ウレドスルタンで、16~17世紀にかけて築かれたといわれる
直径最大148mの楕円形で4階建てという巨大なエル・ジェムの円形闘技場。夏に行われたコンサートの様子

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位