モンゴルの理学療法の課題に挑む試み
日本の理学療法ガイドラインを翻訳・提供

久保田 凌 さん(写真右から2番目)

モンゴル/理学療法士/2019年度1次隊、2022年度7次隊・青森県出身

▼取り組んだのは?▼

[日本理学療法士協会によるガイドラインの活用]

理学療法士の職能団体として1966年に設立された日本理学療法士協会では疾患・外傷の種類や患者の条件に応じてエビデンスに基づく治療
や評価の指針となるガイドラインを取りまとめている。オープンソースとしてインターネット上でも公開されており、久保田さんは協会の許可の下、これをモンゴルの医療現場で活用することを試みた。

日本人だからこそできるコト!   日本を生かした活動あれこれ
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理学療法に従事する人員に対して患者数が多い状況下、比較的軽度の患者にはモンゴル語に訳したガイドラインの一部を渡し、自らリハビリに取り組んでもらえるようにした

   学生時代から海外に興味があったという久保田 凌さん。親の勧めで理学療法士の資格を取得して4年間臨床経験を積み、協力隊員として2019年7月にモンゴルへ赴任した。首都ウランバートルにあるウヌ・エンフ神経リハビリテーション病院に派遣されたが、赴任してみるとモンゴルのリハビリテーション(以下、リハビリ)の現場は思いがけないことばかりだったという。

「日本で理学療法士の資格制度が誕生したのは60年も前ですが、モンゴルでは07年に群馬大学とモンゴル国立健康科学大学が理学療法士の教育課程を立ち上げたばかりで、まだまだ歴史が浅い状況です。理学療法士隊員を受け入れる病院側にも理学療法士に対する知識が乏しく、私の配属先も、日本であれば施設基準も満たしていない状況でした。いわばシェフとして店に勤め始めたのにキッチンがないような状態で、最初はあぜんとしました」

   配属先は主に脳卒中や脊髄損傷などからの回復期にある患者を受け入れていたが、モンゴル人の理学療法士はたった1人。温熱療法のような物理療法やマッサージなどの伝統療法に基づいた治療が中心で、リハビリについて適切な助言はできていないようだった。

「医師や看護師との連携が不十分で、医師の診断結果を基にリハビリを実施するにも課題があって苦労しました。医療現場ではちょっとした判断ミスが患者さんの生死に直結するため、さまざまなリスクを考慮し慎重に対応する必要がありました」

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現地の患者がリハビリに取り組む様子を確認する久保田さん

   さらに赴任3カ月目に、勤めていた理学療法士が辞めるという出来事が起きるなど、慢性的な人手不足の状況もあった。

「人員が乏しい中、今後を見据えて、指針とすべきガイドラインなどを共有して残しておく必要性を強く感じました」

   そこで久保田さんは病院での活動の合間を縫って、日本理学療法士協会のガイドラインを翻訳することを思い立つ。念のため日本理学療法士協会に問い合わせて、翻訳と現地への提供の許可も得た上で、まずは自分一人でもできる英訳から始めることにした。

「医療分野の専門用語ばかりで、分厚い本2、3冊分のボリュームがありました。今のようにパソコンやスマートフォンの翻訳機能が充実していなかったこともあり、翻訳に半年くらいはかかりましたね」

   苦労して翻訳したガイドラインだったが、病院に共有してもファイリングされて目立つ場所に飾られたまま、同僚たちが目を通す気配がないことに閉口した久保田さん。英訳したものの中から、特にモンゴルの現場で重要度の高い症例だけ抜粋して同僚の協力の下でモンゴル語に訳し、退院指導の現場などで使えるように図った。

「同僚に共有するだけでなく、必要箇所だけプリントしたものを患者さんに渡すことで、在宅でのリハビリなどの参考にしてもらえたことは、一定の意義があったと思います」

   ガイドラインに関する試みと並行して、日本の病院現場のようにスタッフの間でスケジュールの共有ができるようにも働きかけた。

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北海道大学の医学生が配属先を訪問した際には院内を案内し、 モンゴルの医療についての情報共有などをした

「日本では患者さんの情報やスケジュールを理学療法士と医師や看護師の間で共有するのが当たり前ですが、モンゴルではその観念がなく、みんなバラバラに動いていました。特に管理ツールの類は使わず、とにかく口頭で、『何時から診察』『何時に点滴』といった情報を地道に共有し続けました。すると、徐々にスタッフ間でもスケジュールを事前に確認し合う習慣がついていきました」

   課題は他にもあった。ある時、変形性膝関節症と診断された患者に対する治療を見た同僚が、それから膝に関する疾患を持って来院する患者すべてに対して、同じ治療を行うようになってしまったという。

「同じ膝の疾患でも、その症状を根本から治療するための“臨床的推論思考”がモンゴルでは定着していないことを肌で感じた瞬間でした。これは養成の過程で現場での実習を経て培われていくもので、既存のガイドラインで展開されている治療はそれらを前提として作られています。理学療法の歴史が浅いモンゴルでは、実習現場を担当できる療法士が不足していることが同僚の治療からも感じられました。同様の経験は他の理学療法士隊員からも多く寄せられ、医療現場ではなく教育現場に隊員を派遣することがより効果的なのではないか?と話し合うことも多々ありました」

   さらに、モンゴルの医療制度では入院期間が原則14日間までという制約があり、患者に対する継続したリハビリの実施が困難だった。久保田さんは、退院後に注意すべき事項、自己管理方法、今後起こり得るリスクなどをできる限り患者に伝えるようにして、医師だと勘違いされるほどに信頼を得たが、一方で、モンゴルの医療現場で1人の理学療法士ができることの限界を感じるようにもなっていった。

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元横綱の日馬富士が現地に設立した学校で、日本へ留学予定の学生たちに向けて日本の医療制度について講義した

   コロナ禍による一斉帰国を経て、22年6月に再赴任した時には、日々の活動の中で脳卒中における装具の重要性を再認識し、最後の半年間は実地調査に力を入れた。他の病院にも赴き、リハビリの実施状況や装具の認知度などについてアンケートを実施し、調査結果をモンゴル国看護学会にて発表した。

   日本のガイドラインを導入しようという試みを通じて、現地が抱える構造的な課題を改めて認識した久保田さん。それらを解決するためには、政策から変えていかなければならないと考えるようになり、任期中に在学していた大学院を修了した現在、国際協力分野に進路を定めている。

「理学療法のガイドラインも本来はその国の状況に合わせた形でなければいけませんし、他方で現地の社会保障制度や教育環境を整備するアプローチも必要です。これはモンゴルだけではなく、他の途上国も同じこと。今後は国際協力の立場からこれらの課題や政策について提言していきたいと思います」

Text=秋山真由美 写真提供=久保田 凌さん