ルワンダ/コミュニティ開発/2018年度1次隊・長崎県出身
広島県・長崎県から派遣される協力隊員は赴任前に、それぞれの地域のJICA拠点などが実施する平和学習や被爆者講話を受ける機会がある。これに影響を受けるなどして原爆展・平和展を開催する隊員もおり、世界各地でヒロシマ・ナガサキについて伝えることに貢献している。
「今も人が住めないんでしょう?」。被爆地である長崎県に生まれ育ち、地元の金融機関を経て協力隊員としてルワンダに派遣された田川統子さんが、現地の人々から幾度となく投げかけられた言葉だ。ルワンダの首都キガリからバスで約3時間の東部県ンゴマ郡庁に赴任したのが2018年。初対面の人や道行く人と話していて、自分が日本の長崎から来たことを話すと、「I’m sorry」と気の毒そうな顔で、前出の言葉を投げかけられた。
「作物が育たないんでしょう」「何もない原っぱなんでしょう」「手足のない人がたくさんいるんだよね」といった言葉の数々に、「いや、今はそんなことないよ」とやわらかく否定していたが、そうしたやり取りは何度も続いたという。70年以上も前の出来事であり、何より自分は現にこうして元気なのにもかかわらず、なぜいまだに当時のままのように言われるのかと、モヤモヤが募っていた。そんな中、同じ長崎県出身のルワンダ隊員から平和展を一緒にやらないかと誘われたのが19年6月頃のことだった。
「正直、自分が平和展を開催するなんて考えてもみませんでした」と振り返る田川さん。長崎県民として小学校時代から毎年平和教育を受けていて、被爆者の話を聞く機会もあり、協力隊員としての派遣前には平和教育プログラムもあった。忘れてはいけない、二度と繰り返してはいけない歴史だと理解していたが、だからこそ自分がうまく伝えられる自信がなかったからだ。
それでも、現地の人から言われた言葉が頭をよぎった田川さん。ルワンダで原爆について知る人たちにとっては、学校で習う1945年のヒロシマ・ナガサキがすべてで、以降の知識がない。だとすれば、必要なのは“今”の広島と長崎を知ってもらうことではないか。「過去ではなく今に焦点を当てた平和展をしたい」。田川さんの提案に、平和展を発案した隊員も賛成してくれた。
開催日時は土日にしようと考え、8月6日と9日に一番近かった8月10、11日の2日間に決めた。場所はもう1人の隊員の任地だった南部の都市フイエにある、JICAの支援で建てられたばかりの施設。さらに田川さんの同期で広島県出身の隊員にも声をかけ、計3人となったメンバーはまず、FacebookなどのSNSを介して、“今の広島・長崎”をテーマにお気に入りの写真を広く一般に募集することから始めた。原爆投下時の写真はインパクトが強く印象に残りやすいからこそ、今回は原爆の悲惨さを伝えるのではなく、今の広島・長崎を見てもらいたいと考えた。
「条件はあまり指定せず、人、風景、物、場所や食べ物など、広島と長崎に関係があるお気に入りの写真を送ってくださいとお願いしたところ、たくさんの人たちから300枚以上の写真が集まりました」
その中から「明るい雰囲気が伝わること」と「ジャンルが偏らないようにすること」を意識して厳選し、50枚ほどに絞り込んだ。かつ、人が写っているものは使用許可も取った。
苦労したのは3人の任地がバラバラだったため、実際に集まって準備することができなかったことだ。
「LINEのグループをつくってそこでやりとりしていましたが、前日まで会場の下見もできませんでしたし、写真パネルの飾り方もほとんどぶっつけ本番でした」
企画書の提出やチラシの印刷、原爆に関するパネルの借用などのためにキガリのJICAルワンダ事務所に行く必要もあったが、3人ともキガリから離れた任地で活動していたため、誰かが上京した際に立ち寄るなど、連携して準備を進めていった。当日に向けた集客はSNSとチラシ配布を行ったほか、会場であるフイエにあるプロテスタント人文社会科学大学で長年にわたり平和構築について教えている佐々木和之氏を通じて、同校の学生に呼びかけるなどした。
開催前日は、メンバーの1人、広島県出身の同期隊員が体調を崩し入院するというハプニングがあり、2人だけで会場作りを行うことになった。事前に厳選した写真は印刷して広島か長崎かがわかるように示してパーテーションの壁に貼り、英語で簡潔な説明文を添えた。
「原爆の悲惨さばかりが強調されないように、被爆者の写真はできるだけ少なめにしました。原爆がどういったもので、どんな被害をもたらすのかといった説明の後に、投下前・直後の街の風景とその1年後の街の風景、最後に現代の広島・長崎の写真50枚というように、人の動線に合わせてパネルと共に配置し、展示の流れをつくりました」
プリンターやパネルはJICA事務所で借りたほか、会場で流す動画には佐々木氏から借りたDVDとプロジェクターを活用するなど、極力予算を抑えた。さらに、会場の一角に折り鶴の体験コーナーを設け、千羽鶴の意味を伝えながら一緒に鶴を折るワークショップも準備。こうして開催にこぎ着けた「〈ヒロシマ・ナガサキの今を伝える〉平和展」には、現地の大学生や子どもたちなど、若い人たちが多く訪れた。
「みんな真面目で、とても関心を持ってくれる人ばかりでした。今の広島や長崎のことを知りたいと言ってくれ、授業で習った“ヒロシマ・ナガサキ”のままではない今の様子をわかってくれました。先の戦争やルワンダ大虐殺のことなど、私たちは学校や教科書で歴史上の惨劇を多く学びますが、その場所がどのように復興し、現在どうなっているのかは誰も教えてくれません。自ら知ろうとし、考えなければいけないのだという気づきにもなったのではないかと思います」
田川さんは帰国後、長崎県職員として地元への貢献のために尽力している。「私のモヤモヤした思いから始まった企画でしたが、もし平和展をやらずに帰国していたら、『ルワンダの人から長崎はまだ人が住めないと思われていた』という記憶だけで終わっていたかもしれません」と振り返る。ルワンダで広島と長崎の“今”を伝えたことは、過去が今と地続きであることを体感し、自分たちと来場者それぞれが、平和の意味を自分事として考えるきっかけになった。
「必ずしもイベントという形でなくても、普段から折に触れて周囲の人たちに長崎のことを話そうと思えば、もっと話せたのではないかとも思います。それでも、多くの人たちの協力で平和展を開催でき、とても良い経験になりました。助けてもらった分、私にできることがあればこれからも誰かの力になっていきたいと思います」
Text=秋山真由美 写真提供=田川統子さん