派遣国の横顔

ケニア共和国ケニア共和国

協力隊初代派遣の一国にしてアフリカ初の派遣国
人材の育成に数多くの隊員が貢献

ケニア共和国

ケニアの基礎知識

面積58.3万k㎡(日本の約1.5倍)
人口5,403万人(2022年、世界銀行)
首都ナイロビ
民族キクユ民族、ルヤ民族、カレンジン民族、ルオ民族、カンバ民族など
言語スワヒリ語、英語
宗教伝統宗教、キリスト教、イスラム教

※2024年10月21日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1966年3月31日
派遣取極締結地:ナイロビ
派遣開始:1966年3月
派遣隊員累計:1,820人
※2025年5月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)

ケニア共和国
お話を伺ったのは
晋川 眞さん
晋川 眞さん

(ケニア/食用作物・稲作/1994年度3次隊・大阪府出身)
JICAケニア事務所長。1995年、協力隊員としてケニア西部のブンゴマに派遣され、農家への養鶏普及や学校でのヒヨコのふ化・販売の指導などを行う。98年に国際協力事業団(現 JICA)へ入職し、農村開発部、JICAガーナ事務所、JICAエチオピア事務所、人事部などを経て2024年から現職。

派遣国の横顔
ナイロビ郊外のジョモケニヤッタ農工大学では40年以上もJICAの協力が続き、現在も土壌肥料隊員が赴任中。プロジェクトのチーフアドバイザーとして赴任している専門家も、元ケニア隊員だという(写真:久野真一/JICA)

   ケニア独立から3年目の1966年3月、当国初の協力隊員として建設機械隊員2人と電気工事隊員1人が赴任しました。その後、理数科教育などの人的資源部門のほか、職業訓練部門、スポーツ部門まで幅広く派遣されていて、81年にJICAの支援で創立したジョモケニヤッタ農工大学では多くの隊員が人材育成の土台づくりに貢献してきました。同校は今、日本やアフリカ国内の大学、また日本企業らの連携を包含するプラットフォームとしてさまざまな人が活用する場になっています。

   現在の隊員派遣は、対ケニアのODA基本方針であるインフラ整備、産業開発、農業開発、保健、環境、地域安定化の6本柱にひもづけた要請が中心で、コミュニティ開発や青少年活動、環境教育に関わる職種が多い傾向です。青少年活動隊員の中には、非行少年の更生など、非常に難しく、現地でも人材が不足している分野に取り組んでいる方もいます。

   事務所長として各地の行政関係者らと話すと、協力隊活動への理解が深く、JICAや日本に対する評価も高いことに驚かされます。また、中学校で協力隊員に教わっていたというナイロビのタクシー運転手から、「時間を守る大切さは隊員から教わった」と聞いたことも印象に残っています。彼はおかげで多くの人と信頼関係を結ぶことができ、仕事に役立っていると話してくれました。歴代隊員の地道な活動が着実に足跡を残しているのだと、さまざまな場面で感じています。

   私が隊員としてケニアにいた30年前と比べると都市化・デジタル化が進み、協力隊の現場も様変わりしていますが、根本的に変わらないのは、常に隊員が“理不尽”にさらされながら活動や生活をしていること。水が出ない。電気も来ない。人も時間どおりに来ず、しばしば約束が裏切られる。そういった理不尽さに対処していく中で、隊員たちは日々鍛えられ、成長していくのだと思います。ただ、ケニア人は日本人と非常に似ている面もあります。家族を大切にして礼儀正しく、相互扶助の精神があり、空気を読む。日本人が評価されるのもそんな国民性に合っているからかもしれませんし、隊員たちの中には、それを踏まえて接することでより円滑な活動を展開している人もいます。

奥地前進主義の時代から現代まで
ケニアの発展に貢献してきた協力隊員たち

白鳥くるみさん
白鳥くるみ
(旧姓 川野)さん

ケニア/家政/1978年度2次隊前期・大分県出身

大学卒業後、家政隊員としてケニアで3年間活動。その後は夫の留学や仕事での随伴、自身の日本語講師やJICA専門家としての仕事でスリランカ、イギリス、タンザニア、インドネシア、エチオピアなどで計30年間ほど海外生活を送る。特に長く暮らしたアフリカに恩返しをしたいとの思いから、2003年に夫やアフリカのOVらと共に「アフリカ理解プロジェクト」を立ち上げ、開発教育の教材作りを中心にセミナーや講座などに取り組んでいる。

アフリカ観の原点となった現地訓練
協力隊で「生きる力」を教わった

派遣国の横顔
調理実習の一コマ。家政コースには観光業を目指す生徒が多かったが、村落出身で近代的な家屋やホテルにまったくなじみのない人ばかりだとわかり、現地に駐在しているヨーロッパ人の自宅を借りてベッドメイキングなどの実習を行った

   白鳥くるみさんが家政隊員としてケニアへ赴任したのは、1966年の同国への協力隊初派遣から13年後。約120人いたケニア隊員たちは、当時の協力隊のイメージとして語られる“奥地前進主義”の言葉どおり、大半が地方に散らばっていて互いの連絡もままならないほどだった。

   白鳥さんの任地は首都ナイロビから北東に約100㎞、ケニア山の麓に位置する町、ムランガ。日本からの着任直後に一般家庭で3週間ホームステイする現地訓練があり、ムランガの村人が暮らす、マッシュルームハウスとも呼ばれる土壁でできた円形の小屋に滞在させてもらうことになった。

「この生活が過酷で、水くみに往復2時間。食事は豆を煮込んだギゼリと、炭火で焼いたデントコーンがほぼ毎日。寝床のマットレスはダニやノミだらけで、番犬代わりのヤギが隣に寝ていました。ですが、家族やご近所同士が集まって談笑しながらご飯を食べ、ゆったりした時間の中で暮らす姿が印象的で、現地に受け入れられた感覚がありました。見たり聞いたりではなく、体験的に人々の暮らしを知った経験は大きく、私のアフリカ観の原点になっています」

   体中をくまなく虫に刺されながらも3週間の訓練を終え、配属先のムランガテクニカルカレッジでの活動に入った白鳥さん。当時、配属先で家政コースが新たに立ち上がったことから、カリキュラムの策定やコースのマネジメント全般が要請されていたが、活動はスムーズにはいかなかった。

「とにかく物がないんです。ミシンの講習に布がなく、調理実習に砂糖や小麦粉がない。布の代わりに新聞紙を使ったり、食材は手に入る時にストックしておいたりと、臨機応変に対応する力が鍛えられました」

   ケニアに限らず、先が予測できないアフリカで生きる人たちは、未来のことよりも目の前のことに重きを置きがちだという。「そうした背景を理解しつつも、少しは未来にも備えることを現地の人にわかってもらうのは、非常に難しくて。今なら経験も積んでいて具体的な解決策を示すこともできるでしょうが、当時はどう伝えたら響くのかも分からず、思いつく限りのことをするしかありませんでした」。

   未来をあまり思い煩わないだけに、寛容でおおらかな傾向の強いケニア人。ただ、さまざまな民族が混在していて、民族ごとの特徴もある。例えば、ムランガで多数派を占めるキクユ族は、政治に関わる人材を多く輩出しているためかプライドが高い傾向があった。

「家政コースの主任もまさにプライドの高い性格で、よく意見の対立がありました。例えばケニアでは教員がとても厳しく高圧的なことがあるのですが、配属先は職業訓練校なので生徒は子どもではなく、20歳前後の大人です。もっと対話的に接したほうがよいのではないかと提案すると、それはケニア的なやり方ではない、とぶつかるわけです」

   意見が食い違う中でも、人前で否定するようなことを言わず、相手のプライドを尊重しつつ、言うべきことは伝えるというスタンスで活動を続けた白鳥さん。帰国にあたって主任から思いがけない言葉をかけられた。

「あなたに来てもらってよかった。周りには上司である私に意見を言う人がいない。意見をぶつけ合ったことで自分も学校も成長できた」。相手を尊重しながらも、はっきりと意思を示して相手に接してきた苦労が実を結んだ瞬間だった。

   任期を1年延長して3年間の活動を経た白鳥さんは、その後アフリカを中心に約30年を海外で過ごしてきて、協力隊経験が今も生きる基盤になっていると振り返る。

「物がなくても楽しく暮らせるなんて最初は信じられませんでしたが、その考えがケニアで大きく変わりました。壊れた道具を修理して使い、助け合い、笑い合うのが村の日常でした。物はなくても人生は豊かになる。私の中で、価値観や物事を見る視点が変わった経験でした」

芦川 咲さん
芦川 咲さん

ケニア/保健師/2016年度2次隊・静岡県出身

静岡県沼津市役所で保健師として勤務し、母子健康保健に従事。偶然手に取った本で途上国では手洗い習慣の欠如で命を落とす人々がいるということを知ってボランティアに興味を持ち、協力隊に応募。保健師隊員としてケニアに赴任する。帰国後は保健師として作業研修やコロナ禍時の対応を経験し、2023~24年に外務省の国際保健戦略官室で勤務した後、シンガポールで化粧品会社を起業。現在は女性の健康問題解決に取り組む会社を経営している。

段取りや管理、整理は日本人の得意技
チャンスを見極めて改善を提案

派遣国の横顔
巡回先の村で生ポリオワクチンを接種する様子。管轄域が広大な一方で、芦川さん自身には自転車しか移動手段がなく、各地の医療施設を訪ねるにも苦労した

   芦川 咲さんが保健師隊員としてケニア西部、ビクトリア湖の近くのシアヤに赴任したのは2016年。すでに奥地前進主義という言葉は聞かれなくなった時代だったが、それでもまだまだ厳しい環境の任地だった。

「西部は東部に比べて標高が低く、とにかく暑い地域です。マラリアなどの感染率・死亡率も高く、経済状況も西へ行くほど悪くなります。シアヤはインフラも貧弱で、ロバの引く台車で水を売りに来る人がいて、停電も頻繁に起きていました」

   配属先の保健センターも課題だらけ。「できそうなところからやってくれたら嬉しい」と言われたが、何かやろうとしても、日本の何十倍も時間がかかる。

「なんてところに来てしまったんだろうと、毎晩泣いていました。でも、とにかく人に頼るしかなかったので、同僚の行くところには全部ついていきましたし、ご近所さんにも挨拶してお茶に行かせてもらい、教会やイベントにも顔を出しました。とにかく現地の人と一緒にいる時間を長くして、助けてもらわないと、どうにもならないと思ったのです」

   やがて芦川さんの目に「できそう」なこととして見えてきたのが、巡回診療と予防接種だった。

「配属先の管轄地域には医療施設のない村落が多くあるため、医療機器を載せた車で巡回診療に赴き、住民に対して病気の診察や薬の提供をします。ただ、予定が全く決まっていなくて、『今日は行けそうだ』という日に突然スタッフを集めて出かける状態。巡回先の最寄りの診療所でピックアップすべきナースも当然おらず、住民も日程を知らなくて集まることができません。前もってナースとも巡回日時を調整してスケジュール表を作って配属先内で共有し、住民にも予定を周知するといった段取りを行いました」

   未来よりも今を重視しがちな文化がまだまだ色濃く、将来に備えて備品などを管理・整理する習慣も乏しかった。芦川さんがそれを痛感したのは、予防接種に使うワクチンの消費期限がきちんと管理されておらず、実に4,000人分がダメになってしまった時だ。

「古いものから順に使う考えがなく、しかも冷蔵庫の中身がグチャグチャなので、手前の新しいものからどんどん使っていて、ある時、奥に残っていたものの期限が切れて使えないと判明しました。さすがにスタッフたちも『やっちゃった…』と反省している様子だったので、今がチャンスだと思い、すぐに冷蔵庫内の整理・整頓や期限のマネジメント表の作成を提案して進めるようにしました」

   もっとも当のスタッフたちは、一時的に落ち込んでも翌日にはケロッとしていたと苦笑する芦川さん。それもケニア人のいいところだという。

「ケニアの人たちはとにかく陽気で明るく、一日一食おなかいっぱい食べたらものすごく幸せ。もう何もいらないから仕事もしない(笑)。お金を無心されたりして閉口することもありますが、根本的には優しさにあふれた人たちです。『1人で日本から来て寂しいでしょ』『一緒にご飯を食べよう』と、温かく受け入れてもらえたことは、本当に嬉しい経験でした」

   帰国後は保健所勤務を経て、大学院で公衆衛生の修士を取得し、外務省国際保健戦略官室での仕事も経験した芦川さん。協力隊経験は帰国後のキャリアの土台になったようだ。

松井秀人さん
松井秀人さん

ケニア/青少年活動/2023年度2次隊・長野県出身

大学在学中から「海外で子どもに関わる仕事をしてみたい」という思いはあったものの、具体的なイメージが湧かない中、長野県内の学校で教職に就く。3年目頃から、海外で働きたいとの気持ちが再燃すると共に、「日本の子どもより不遇な立場にある、海外の子どもたちの成長に関わりたい」とも感じ始め、4年間の教員生活に終止符を打って協力隊に応募。現在、ナイロビの北東部のティカで活動中。

日本式のやり方を一方的に伝えず、
行動を見せながら少しずつ変化を目指す

派遣国の横顔
配属先の子どもたちと、学校から帰る道を歩く松井さん。「現地語学研修で1カ月いた大都会のナイロビとはガラリと様子が違い、自然が豊かで広々とした雰囲気。着任してみて、ここで2年間活動できるなんてとてもすてきだと思いました」

   日本での教員経験を経て、念願だった協力隊に応募、2023年からナイロビの北東に位置する町、ティカで活動しているのが松井秀人さんだ。親から虐待を受けたり養育環境が悪かったりと、不遇な立場にある6歳から20歳の子どもや青少年およそ50人が暮らす、ティカ一時保護施設が配属先だ。松井さんへの要請は主に子どもたちの余暇活動を充実させることで、体育、美術、音楽など何でもOKと言われた。

「子どもたちが学校から帰ってくる午後2~3時からが、僕の活動時間の中心になります。従来の余暇は外でサッカーをするくらいしかなく、スポーツが苦手な子もいるので、そういう子も楽しめる時間をつくりたいと試行錯誤してきました。最近は、絵を描くことにはまっている子が増えています」

   紙やペン、絵の具は全くなかったので、寄付で調達した。「駒ヶ根協力隊を育てる会を通じた支援で、文房具のほか鍵盤ハーモニカも頂きました。JICAの『世界の笑顔のために』プログラムも活用していますし、元々配属先にさまざまな援助が入っていることもあり、ナイロビの日本人学校やインドのチャリティ団体からも支援を得ています」

   物もそろって、子どもたちの意欲もあるが、なかなか活動が進まないこともある。

「子どもたちは学校から帰っても、施設を管理する社会福祉士のスタッフたちから草刈りや水くみなどの仕事を指示されて、なかなか自由な時間が取れません。僕はオフィスの扉を開けっ放しにして、仕事を終えた子が自由にやって来て、やりたい活動ができるようにしています」

   松井さんのオフィスをリラックスできる場所だと感じたのか、最初は警戒心の強かった子も松井さんにハグをしたり、手をつないだりと愛情表現を示してくれるようになった。

「この施設には3人の社会福祉士がいますが、忙しく、管理で手いっぱい。甘えさせる余裕はありません。また、ケニアではしつけの一環で子どもを棒でたたいたりする体罰が当たり前。初めて見た時には衝撃を受けました」

   現地の文化や社会事情に基づく習慣でもあるため一概に否定はできないものの、棒でたたかれた子どもには、声をかけたり頭をなでたりとフォローするようにした松井さん。

「僕のオフィスにいる時は悪いことをしても、言葉で説教をするだけで棒は絶対に使わない。ありのままの姿でいてもいいという環境をつくりたいからです」

   子どもにとって、甘えられる人や場所は必要。松井さんの接し方は現地スタッフたちにも伝わってきている。

「施設長が僕のオフィスにやって来て、子どもたちと一緒に遊ぶ機会が増えました。いきなりやって来た日本人が自国のやり方を訴えても受け入れられないでしょうが、現地の人と時間をかけて関係性をつくりながら、実際にやってみせていくと、なるほど、日本はそうなんだ、と納得してくれることが多いように思います」

   配属先での活動の傍ら、ケニア隊員有志による学生支援団体「KESTES(※)」の活動にも関わる松井さん。

「僕はグッズ班の一員として、日本文化イベントなどで寄付を集めるため、ケニア人にチャリティグッズを作ってもらったりする役割を担当しています。配属先での活動と別の角度からも児童支援ができて意義を感じますし、隊員同士のつながりができ、互いに活動のヒントを得られることも多いです」

   残された任期はあと3カ月。9月にナイロビで開催される「日本人ふれあい祭り」に向けて配属先の子どもたちとダンスの練習をするなど、最後まで活動の予定が詰まっている。

「ケニアでいろいろな人と関わる中で、僕自身も人生の楽しさを知ることができたと思います。配属先への支援はまだまだ足りているとは言えないのですが、物がなくても工夫して楽しむ子どもたちの姿からも学ぶことは多いです」

※KESTES…KEnya STudents' Educational Scholarshipの略で、人格・成績が優秀ながら経済的理由で就学できないケニア人生徒に対し、奨学金支給や学習・生活のフォローを行うケニア隊員有志の団体。現役隊員とOVの連携で運営され、1983年の発足から40年以上の歴史を持つ。

活動の舞台裏

年功序列が根づいた社会

   アフリカには「年上の人を尊重する」文化があると話すのは白鳥さんだ。「年を重ね、今では現地の人から『ママ・シラトリ』と呼ばれて若い頃より信頼・尊重されるようになりました。年長者は経験や知恵をもつ指導者・助言者として扱われ、活動もスムーズです。ただ、年長者の言葉に反対する人は少ないので、本当にいいの?と不安になることもあります(笑)」。

   特にケニアでは老人は知恵の宝庫とされ、一人の老人の死は“図書館一つがなくなる”ほどの損失と考えられているという。「今思うと、若い隊員が立場ある人にいきなり意見するなど、現地文化ではあり得ないことだったんです。それを理解せず行動していたのが今は恥ずかしく思えます」。

   現在活動中の松井さんも「大人に対して偉そうな口のきき方をする子どもはいない」と話すように、年長者を敬うという伝統は、現代の若者たちに至るまで、まだまだ健在なようだ。

派遣国の横顔
年長者や目上の人を敬うことは幼少期からのしつけで定着している(写真:佐藤浩治/JICA)

Text=池田純子 写真提供=ご協力いただいた各位