TICAD 4で掲げられたコメ生産倍増
現場で奮闘した隊員たち

坪井達史さん
坪井達史さん(写真:篠田有史/JICA)

   2008年、TICAD 4においてJICAはアフリカでのコメ生産量倍増を目指すイニシアティブ「アフリカ稲作振興のための共同体(CARD)」を発表した。急速な人口増加や都市化でコメの需要が急増し、輸入依存や価格高騰といった課題が生じる中、向こう10年間で生産量を2倍にするという目標を掲げた。この目標は宣言通り18年に達成され、さらなる生産増に向けた目標が掲げられるに至ったが、その背景には協力隊OVの稲作専門家である坪井達史さん(フィリピン/稲作/1975年度1次隊前期)と、数多くの“ネリカ隊員”たちの努力があった。

   日本大学農獣医学部拓殖学科を卒業した坪井さんは、旅行で訪れたインドでOTCA(現 JICA)の技術協力を見たことがきっかけで協力隊への参加を決めた。

歴史に息づく隊員の奮闘   TICADと協力隊
広域研修で周辺国から集まった隊員たちに稲刈り技術を指導する坪井さん(写真:篠田有史/JICA)

   赴任したフィリピンでは稲作とスイカ栽培の二毛作の指導に取り組み、任期終了後も稲作技術で国際協力に携わり続ける意志を固めて帰国した坪井さん。当時開始されたJICA海外長期研修制度の第1号生として、1979年から2年間フィリピンの国際稲研究所に所属し、稲作について体系的に学んだ。その後、81年からJICAの稲作専門家としてフィリピン、インドネシアなどアジアの国々で稲作指導に取り組み、「アジアではやり尽くした」と感じていた92年、今度はアフリカのコートジボワールへと派遣されることになった。

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研修では縄のない方など、現地で役立つ技術を指導した(写真:篠田有史/JICA)

   坪井さんが西アフリカ稲作開発協会(WARDA)で目の当たりにしたのは、従来不可能とされてきたアジア種とアフリカ種の交雑種だった。それまでは実がなる例はまずなかったので、たとえわずか3粒であっても、実際に籾が稔実するとは想像さえしなかった。

   アフリカでコメは食料であると同時に換金作物でもあり、コメの増産による現金収入は、農民の生活水準の向上にもつながる。

   坪井さんが本格的にアフリカでネリカ米と向きあうのは2000年代に入ってからで、アフリカ各地の事前調査を経て坪井さんはネリカ米の拠点をウガンダに定め、04年から品種試験や増産の準備を進めた。そして08年のTICAD 4でのコメ生産量倍増の表明を経て、ネリカ米普及の活動が本格化する。

ネリカ米とは

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写真:佐藤浩治/JICA

   病気や乾燥に強いアフリカの在来種であるオリザ・グラベリマ種と、高収量のアジア種であるオリザ・サティバ種の長所を併せ持つ新しい品種は、後に「アフリカのための新しい稲(New Rice for Africa)」=「ネリカ米」と名付けられた。

   現在ネリカ種は陸稲・水稲など合わせて約80の品種に分かれている。コメが一般的に生育に150日程度かかるのに対して90~120日程で成熟し、収穫までの期間が短いという特性があるため、短い雨期でもコメを収穫できる可能性が高くなり、また、雨季に湛水して従来の畑作物が栽培できない未利用の低湿地が適地となる。栄養価に関しては、アジアの品種よりタンパク質の含有量が平均25%も高いものもあり、当時新たに誕生したネリカ米はまさに夢のコメといえた。

ウガンダでのネリカ米普及

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コロナ禍後に赴任した田中 慧さん(ケニア/コミュニティ開発/2021年度7次隊)は農家の収入向上のための新たな選択肢としてネリカ米を提案。任地の農家に好評を博し、急速な普及を実現した

   標高が高く、赤道直下ながら年間を通じて気温が快適で、2回の雨期による豊かな降水量から一年中稲を栽培できるウガンダは、ネリカ米普及の拠点として最適な場所であった。陸稲、天水稲作だけでなく、種まき、田植え、稲刈り、精米と各種実習も同時に行うことができるというメリットもあった。他方、稲作の伝統があるアジアとは違って専門知識を持つ人はおらず、コメは店先に並ぶ高価な商品程度の認識しかない。コメ作りのすべてをゼロから教えていかなければならなかった。そんな状況の中、ネリカ米普及を進める坪井さんの活動を支えたのが協力隊員たちであった。

   ウガンダでは01年から協力隊の派遣が始まり、坪井さんのウガンダ赴任と時を同じくし、隊員数も順調に伸びていき、08年時の隊員数は100名を上回った。協力隊員を通じたネリカ米普及という坪井さんの構想に、当初はJICAウガンダ事務所も懐疑的だった。それでも同時期に国立ドホ灌漑施設に派遣された中村麻依子さん(ザンビア/稲作/2002年度2次隊、短期/食用作物・稲作/2005年度9次隊)の「今話題のネリカ米の栽培を始めたが、これは圃場を訪れた農民の興味を一番引いていた」という報告から、現地での関心の高さがうかがわれた。坪井さんは06年、隊員5人にネリカ米の普及を依頼。隊員たちを「ネリカ隊員(※)」と呼び、共に活動を始めた。

   もっとも、彼らの多くは村落開発普及員などの職種であり、農業経験は乏しかった。坪井さんは、やると決めたのであればCARDの一翼を担う1人として自覚とプライドを持つことや、素人だからと言い訳せず少しでもプロに近づけるよう勉強し経験を積むことを求めた。そして机上の理論ではなく、実際にコメをつくり「1haあたり2トンの現状で満足している農家に、5トンの収穫を見せて驚かせてやろう」と士気を高めた。

   14年、坪井さんは10年間活動したウガンダを離れ日本に帰国する。しかし、坪井さんの帰国後も11年から開始されたコメ栽培の普及・定着を目的とした「コメ振興プロジェクト」(PRiDe)が24年3月まで続き、コミュニティ開発、食用作物・稲作栽培などの職種で、プロジェクトを現場で遂行するための隊員も派遣された。現在、24年7月から始まった「持続的なコメ振興プロジェクト」(Eco-PRiDe)が継続中だ。

   TICAD 4で掲げられた目標通り、サブサハラ・アフリカのコメ生産量は08年の1,400万トンから18年には2,800万トンを実現。CARDフェーズ2ではさらなる倍増計画として、30年までに5,600万トンの生産を目指しているが、現在はネリカ米だけでない多様な品種の開発、バリューチェーン構築や官民連携など支援の幅が広がっている。当初は陸稲中心だったネリカ米もさまざまな水稲品種が開発されており、多くの国で重要な品種としての地位を占めている。


※…ネリカ隊員の数は2019年末時点で350人に上り、その後も増え続けてきた。


そもそもTICADとは?

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2016年にナイロビで開催されたTICAD 6でJICAが立ち上げた「サヘル・アフリカの角砂漠化対処を通じた気候変動に対するレジリエンス強化イニシアティブ」の準備会合(写真:JICA)

   TICADの正式名称はTokyo International Conference on African Development(アフリカ開発に関する東京国際会議)で、日本政府の主導により始まった。第1回は冷戦終結後の1993年、アフリカに対する国際社会の関心が薄れつつある時代背景下で、東京にて開催された。東京宣言での「アフリカの自助努力の必要性」や「南南協力の推進」への言及のほか、当時の細川護熙首相の基調演説での「改革支援」「人造りへの積極支援」「援助国、被援助国を超えた良き友人関係の構築」など、現在の日本政府の支援方針につながる理念が示されている。

   2008年、横浜開催のTICAD 4では福田康夫首相が全体議長を務め、基調演説で「対アフリカODAの倍増」や「対アフリカの民間投資の倍増支援」といった支援策を打ち出し、コメ生産量倍増にも言及。その後、横浜のほかナイロビやチュニジアでの開催を経て、今年8月20日から22日まで横浜で開催されるTICAD 9では、ユース政策提言プロジェクトの一環としてYouth TICAD 2025が行われる。

Text=飯渕一樹(本誌) 写真提供=ご協力いただいた各位