派遣国の横顔

エルサルバドル共和国エルサルバドル共和国

長きにわたりスポーツ・文化系の要請が続く
中南米初の協力隊派遣国

エルサルバドル共和国

エルサルバドルの基礎知識

面積2万1,040㎢(九州の約半分)
人口約603万人(2024年、国勢調査)
首都サンサルバドル
民族スペイン系白人と先住民の混血約84%、先住民約5.6%、ヨーロッパ系約10%
言語スペイン語
宗教カトリック教、プロテスタント

※2025年2月4日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1968年7月26日
派遣取極締結地:サンサルバドル
派遣開始:1968年9月
派遣隊員累計:635人
※2025年7月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)

エルサルバドル共和国
お話を伺ったのは
グスマン奈緒(旧姓 小林)さん
グスマン奈緒
(旧姓 小林)さん

エルサルバドル/体育/2000年度3次隊・福岡県出身
JICAエルサルバドル事務所・企画調査員(ボランティア事業)。大学卒業後、中高一貫校で教員を務める中、日本と途上国の子どもの幸福感の違いに関心を抱き、協力隊に参加。活動中には任地でM7.7の地震が発生し、被災者支援にも尽力した。帰国後はJICAコスタリカ駐在員事務所勤務、佐賀県のJリーグチームでの通訳、中学校の特別支援学級担任を経て、2022年から現職。

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ラリベルタ県にあるサンタテクラ区文化芸術宮殿は、元は市役所として造られた建物

   エルサルバドルへの派遣は中米で最も早く1968年に始まりました。駐日大使時代に日本文化への見聞を深めたワルテル・ベネケ教育大臣(当時)が、メキシコオリンピックに向けた選手指導のために協力隊受け入れを強く希望したことがきっかけだと聞いています。そのため初代隊員は、陸上競技3人と水泳2人をはじめとした8人のスポーツ分野の隊員でした。

   オリンピックの選手強化には十分な期間がなかったものの、隊員たちはベネケ大臣が推進していた体育教員養成学校の設立に大きな力となりました。競技の幅を広げながらスポーツ分野へのニーズは現在も続いています。

   しかし79年、内戦の激化を受けて派遣が中断。内戦が終結した翌年の93年に再開されましたが、エルサルバドルの困難は続きました。若年層が結成したギャング団が勢力を拡大し、2015年には殺人事件の発生率が世界最多といわれるまでに治安が悪化したのです。

   19年に大統領に就任したナジブ・ブケレ氏の主導でギャングの取り締まりが徹底され、現在は安全な国へと劇的な変貌を遂げています。一方でコロナ禍を経て新たに家庭内暴力や性被害、青少年の望まない妊娠などの増加が問題化しました。そうした中、青少年活動やスポーツ分野の隊員による若者の健全育成への貢献が求められています。

   近年ではJICAの技術協力プロジェクトとの連動を重視していて、例えばJICAが開発協力した算数教科書の使い方を現地の教員に伝える数学教育隊員が派遣されたり、観光分野や、地震や津波に備えるための防災分野でもプロジェクトと連携した要請を開拓しています。

   エルサルバドルは「中米の日本」といわれることもあり、勤勉かつ優しい国民性を持っています。若い協力隊員の提案や相談にしっかりと耳を傾け、活動に対して積極的に協力する現地の方々の姿が見られます。

   他方、内戦やギャング団がはびこった時期を経験した結果、外部から来た人間に対して進んで交流はしない傾向もあるようです。隊員の方々は、そうした背景も理解した上で、ゆっくりと信頼関係を築いていってほしいと思います。

教育分野や生活改善で
エルサルバドルに貢献

臼井香里さん
臼井香里さん

エルサルバドル/美術/1974年度2次隊後期・神奈川県出身

大学卒業後、東京の公立中学校で3年間美術を教えた。美術大学の教員の紹介で後の配属先となるエルサルバドルの芸術高校の校長と出会い、協力隊の存在を知る。応募したいエルサルバドルの美術隊員の要請は“男性”となっていたが、協力隊事務局に毎週通ってデッサン力をアピールしたところ、女性も応募できるようになり、現職教員特別参加制度を利用して赴任。帰国後の1983年、教育関係のOVらと共に「開発教育を考える会」を立ち上げ、フォトランゲージ教材や絵本『地球の仲間たち』の普及に取り組んでいる。

美術隊員として1970年代に教えた生徒が
今では大学教授として教壇に立つまでに

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生徒たちが描いた石こう像のデッサンを講評する臼井さん

   1971年、ワルテル・ベネケ教育大臣(当時)の強い希望を受け、できたばかりの美術職種の隊員がエルサルバドルに派遣されたのを皮切りに、美術分野への派遣が続いた。同国で芸術教育充実への機運が高まっていた75年、臼井香里さんは国立芸術高等学校に赴任して、新たに設置された科目である基礎デッサンを教えた。

   しかし、活動のスタートは順調とはいえなかった。

「日本の中学校で教えていたので、あまりの違いに驚きました。雨期のスコールが授業時間に重なると平気で遅刻したり、悪気はないのですが授業に使う材料を持ち帰ろうとしたり、日本では考えられないことばかりでイライラしっ放し。私は生徒たちから“怒りんぼう”と言われていました」

   生徒たちは14~17歳を中心に20人ほどだった。貧しい家庭の子どもも多く、「家から通えない子は学校の宿泊所で寝起きしていて、持ち物は段ボール箱1個分だけ。鉛筆1本握って教室に来ていました」。

   そんな生徒たちだが、絵を描くことが好きで、自分が描きたい絵のイメージをしっかり持っていた。しかし美術を学んだことがないため、技術や理論を教える必要があると臼井さんは考えた。「入試の時、自分の手を描いて影もつけてと言うと、紙に手を置いて手を鉛筆でなぞって輪郭を描き、半分を真っ黒に塗りつぶす生徒がいました。立体物を2次元に解釈して描くということができていなかったのです」。

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芸術高等学校の生徒たちと臼井さん

   臼井さんは配属先の授業アシスタントと共にカリキュラム作りから始め、立体の見方、輪郭線でなく面として考えることなど、絵画の基礎を授業に組み入れ、まずは単純な球体などから描くことにした。ところが1カ月もたたないうちに事件が起きた。「カオリの授業はわからない。こんなつまらない絵は描きたくない!」と生徒たちが授業のやり方に抗議してきたのだ。

「自分たちの好きに描きたいと言うのです。私は『描きたい絵を描きたいように描くためにもデッサンは必要だよ。現実の物には輪郭線はないでしょう?線ではなく立体の面を表現できるようになるために練習しているんだよ』と話すと、生徒たちの態度が変わりました。この先生についていけばうまくなれると信じてくれたのだと思います」

   それから生徒たちは目覚ましい上達ぶりを見せた。「本当に立体的に、空気感まで描けるようになっていって驚いたし、嬉しかったですね」。

「先生は地球の裏側に住んでいる子どもたちを助けに行ってくるね」。教え子たちにそう伝えて日本を後にした臼井さん。しかし、「助けられたのは私のほうでした。考え方や価値観の違いに触れ、技術は教えることができる、でもその土地の気候風土や歴史から生まれた文化や生活習慣は尊重すべきだと感じました」。そう振り返る臼井さんは、帰国後、日本の子どもたちに、世界にはいろいろな価値観や文化を持つ人たちがいることを伝えたいと、同じ考えを持つOVらと「開発教育を考える会」を立ち上げ、異文化理解を支援している。

   エルサルバドルでの任期終盤には、軍による政権掌握などに対立する左派ゲリラの活動が活発化し、臼井さんも少年兵が銃を手に街角に立つ姿や、軍に殺された民衆がトラックで運ばれる場面を目にしたという。内戦へと徐々に進んでいった時代だった。それから約40年後の2014年、臼井さんはエルサルバドルを再訪。芸術高校がなくなった代わりに美術は大学で教えられており、そこではかつての教え子やアシスタントが教授となり、学生たちと作品づくりについて話し合っていた。70年代には想像できないほど向上した教育環境に、臼井さんは深く感嘆を覚えたという。

久保元城さん
久保元城さん

エルサルバドル/小学校教諭/2013年度1次隊・北海道出身

大学卒業後、小学校の教員を8年間務めた。2011年の東日本大震災の時はボランティアとして現地に入り、その経験から、自分の命の使い方について熟考した結果、人が喜ぶことをボランティアとしてやりたいと協力隊に参加。帰国後は、小学校への復職、コロンビアの日本人学校での教員を経て、現在は軽井沢で自然を生かした子育て家庭支援活動に取り組んでいる。

語学力の不足をカバーしてくれたのは
授業の記録として撮りためた写真だった

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公開授業の様子。生徒たちの後ろで先生たちが見学している

   エルサルバドルへの派遣開始以来、変わらずニーズが高い分野の一つが教育だ。特に算数教育ではJICAのプロジェクトによって開発された教科書を教育現場で活用するための活動に取り組む隊員も多い。久保元城さんはそのプロジェクトが始動する以前の2013年に小学校教諭隊員として派遣され、主に教員の算数指導力向上を目指して活動した。配属先は東部のウスルタン県にある私立小学校、サンタヘマ・カトリック学校だった。

   久保さんはまず、現状把握のため、先生方がどんな授業を行っているかを見せてもらうことにした。

「実際の授業では、多くの先生が自分なりに工夫して指導をしている印象でした。例えば、授業についていけない生徒に一対一で教えていたり、授業前に
ちゃんと準備をしていたりしていました。私はそうした場面を記録のために写真に残していくことにしました」

   一方で、生徒が言うことを聞かないと感情的になって押さえつけるシーンも目にした。「日本と違って研修などがなく、“教え方”を学ぶ機会がない。プライドが高い一方で、自分が正しいのかわからない不安もあって、つい高圧的になることがあるのでしょう」。先生方の良い取り組みがもっと広がれば、生徒がより良く学べる環境になると久保さんは思った。

   現地の人たちに喜ばれる活動をするには、配属先の先生を理解し、自分のことを知ってもらうことが先決だと考えていた久保さんだったが、その壁となったのが語学力だった。「スペイン語が得意ならもっとコミュニケーションできるのに」ともどかしく、貢献できていないという思いに落ち込むこともあった。

   その流れを変えたのが撮りためてきた写真だった。「先生の頑張りが素晴らしいと言葉で伝えられない分、写真を見せて他の先生たちにも知らせようと考え、プリントして休憩室に張り出しました」

   反応は久保さんの想像以上だった。今までたわいのないおしゃべりしかしていなかった先生たちが、授業について会話するようになったのだ。「あなた、きちんと授業の準備してるのね」「この子はていねいに教える必要があるよ」などと写真を前に話し、授業改善への機運を高めただけでなく、よほど嬉しかったのか、先生たちはすべての写真に飾りつけをして休憩室の一番目立つところに張り直した。

   着任から約1年が過ぎ、同僚たちとも打ち解けた久保さんは、授業研究の実践に取り組んだ。最初は久保さん自身が公開授業を行い、その後、同僚の先生に2回、できるだけ日本と同じように指導案の作成などの事前準備をして、公開授業を行ってもらった。

「初めは恥ずかしがって誰も引き受けてくれませんでしたが、あなたの授業はこういうところが優れているから、ぜひ他の先生に伝えてほしい、と促しました。本番では、エルサルバドル人の気質なのかプレゼン力がとても高く感心しました。算数の教授法にはまだまだ向上の余地がありますが、良い関係を築き、お互いを好きになり、後任の派遣につなげる。それは技術向上より大切なことだと思います」

窪田 淳さん
窪田 淳さん

エルサルバドル/コミュニティ開発/2023年度4次隊・鹿児島県出身

大学1年の時に旅行でインドを訪れ、物乞いや物売りの子どもたちを目にし、その状況に衝撃を受けた。彼らの人生にプラスになるような支援をしたいと志し、イギリスの大学院に留学して教育開発を学ぶ。学生同士の議論を通じて自身の経験値を強化したいと協力隊に参加した。

女性のコミュニティを対象に生活改善支援
“貧しいけれど、困らない”社会を目指し活動中

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コミュニティを訪問して女性の意見を聞く窪田さん

   窪田 淳さんはエルサルバドルの東南端に位置するラウニオン市のコンチャグア区役所で2024年5月から活動中だ。コンチャグアは、太平洋に面する港やビーチ、山々を擁する自然豊かな町で、住民は漁業や観光業などに従事している。

   ただ、援助慣れした住民に依存傾向が根づいていることや、内戦の影響による集落内の協力体制不足が課題として横たわり、地域発展の妨げとなっている。そこで同市とJICAが連携して、住民の主体性を引き出し、地域を担う若者を育成するプロジェクト(※)が21年から24年にかけて行われた。

   窪田さんは同区役所の地域開発課の一員として、地域のコミュニティを訪問し、生活改善や生計向上のためのワークショップを中心に行っている。その中
で窪田さんが気づいたのは、この地域の女性たちはどこか自信なさげで、あまり発言しないことだった。「男尊女卑の意識が残っていることや、内戦や治安状況などさまざまな原因が絡み合っていて、家庭においても女性は発言しにくい状況があるようです。私はそうした女性たちに自信を持ってもらいたいと思いました」。

   窪田さんが目をつけたのが、過去にこの配属先で活動した料理隊員が残した成果だった。コミュニティの中に、その隊員から栄養バランスの良い料理を教わった女性が何人かいたため、その女性たちに頼んで、他のコミュニティでの料理教室の先生役になってもらったのだ。生活改善の観点から良いことであると同時に、彼女たち自身に、教えるという経験を通して自己肯定感を高めてもらうことが狙いだ。

「一番の問題は、貧困そのものよりも、貧困の中で限られた思考しかできなくなることだと思います。そのため、ネガティブからポジティブへ考え方を変えてもらうことを重視して活動しています」

   住民の考え方に変化が起きた一つの例が、ごみ拾い活動だ。

「赴任した時からポイ捨ての多さを問題視していて、はだしで遊んでいる子どもたちに危険だと住民に言ったところ、『私たちの悪い習慣だから仕方ない』と諦めてしまっていました」

   そうした状況に変化が起きたきっかけがワークショップだった。1人でできること、10人でできること、今できること、近い将来できることなどに対してアイデアを出し合ったところ、ごみ拾いが多く挙がったのだ。「お金がかからず、外部支援を待つこともなく、できることだと気づいたようでした」。3時間のごみ拾いの後、「皆でやったら、短時間でこんなにきれいになった」という驚きの声も上がった。

   残る約1年間での目標の一つは、同僚たちの意欲を高めることだ。すでに、他区の職員向けの講習会を開き、職員に講師を任せ、「あなたたちの知識と経験が、地域の人にも他の区にも役立つ」と励ましている。

「貧困をなくすことは難しく、長い時間が必要。ならば、“貧しいけれど、困らない”という状況になればいい。社会的連携が薄いといわれているこの地域でも、人同士の関係を良くし、家族との関係、コミュニティ内での関係、コミュニティ同士の関係へと広げていき、自由に発言してアイデアを出し合い、助け合うことで、そんな理想を実現できるはずです」


※JICA草の根技術協力事業として2021年4月~24年5月に実施された「エルサルバドル国女性の生活改善と青少年のビジョン形成を通じた幸せに過ごせる地域づくり事業」。

活動の舞台裏

クリスマスの日は食べ過ぎに注意!

「エルサルバドル人は楽しみ上手」と話すのは、久保元城さん。同僚の誕生日には、必ず職場を挙げて全員とハグして祝い、ダンスをしたという。また、久保さんのホストファミリーのクリスマス会では、祖父母がハグし合い、大家であるお父さんは、ごく普通のバスタオルがプレゼントされただけで、大喜びしてタオルにキスする。「皆で楽しむことは大切だと気づきました。仕事だけの関係でなく、垣根を越えた関係がつくれるからです。私は帰国後にも小学校の職場でエルサルバドル式に誕生日会を開いていました」。

   現在、活動中の窪田 淳さんによると、クリスマスの伝統料理にパン・コン・ポジョというものがある。大きいバケットに、骨つきフライドチキン、丸ごとのゆで卵、野菜を挟む。1個でもかなりのボリュームだ。クリスマスイブに窪田さんはホストファミリーの子どもたちと遊んでいた。子どもたちに連れられ近所のおばあさんの家に行くと「パン・コン・ポジョを食べていきなさい」と言われ1つ食べた。帰りに隣の家の人に呼び止められ、また1つ。どこも食べるまで帰さない勢いで勧めてくる。最後は当然、ホストマザーの作ったものを食べ、「あんなに苦しい思いをしたことはありませんでした。でも、高級なものでなく、自分たちが普通に食べているものを一緒に食べようという気持ちが、とても嬉しかったです」。

派遣国の横顔
窪田さんがクリスマスイブに食べたパン・コン・ポジョ
派遣国の横顔
久保さんのホストファミリーのクリスマス会の様子

Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位