派遣国の横顔

ラオス人民民主共和国ラオス人民民主共和国

現在も隊員への高い期待が続く
青年海外協力隊初の派遣国

ラオス人民民主共和国

ラオスの基礎知識

面積24万㎢
人口758.2万人(2023年、ラオス統計局)
首都ビエンチャン
民族ラオ族(全人口の約半数以上)を含む計50民族
言語ラオス語
宗教仏教

※2025年8月14日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1965年11月23日
派遣取極締結地:ビエンチャン
派遣開始:1965年12月
派遣隊員累計:1,110人
※2025年8月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)

ラオス人民民主共和国
お話を伺ったのは
吉村由紀さん
吉村由紀さん

JICAラオス事務所次長。2004年にJICA入構。約半年間の海外OJTをラオス事務所で行う。その後、青年海外協力隊事務局、人間開発部を経て、09年にラオス事務所へ。財務部、南アジア部などを経て、24年6月から3度目のラオス駐在中。

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メコン川とビエンチャンの街並み(2004年撮影)。チベットから南シナ海に至るメコン川は、全長4,200kmと東南アジア最長の河川で、内陸国のラオスでは貴重な漁場でもある

   ラオスは日本が最初に青年海外協力隊を派遣した国で、1965年12月に稲作1人、野菜2人、日本語教師2人の隊員が、ラオスの地を踏みました。内戦や政変を受け、78年の隊員任期満了をもって派遣が中断されましたが、その後、市場経済導入などの改革路線に転換したラオス政府から派遣再開の要請があり、90年から再び隊員を派遣。現在まで累計1,000人以上が活動してきました。

   ラオス政府からの協力隊への厚い信頼は、毎年、首相への表敬が行われることからも感じます。コロナ禍の一時期を除いて続けられており、派遣中の全隊員が首相官邸に伺い、ラオス語で活動報告を行います。ある政府高官から「隊員の皆さんがそれぞれ任地の方言で報告する様子をとてもほほ笑ましく感じました」と伺ったこともあります。

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ビエンチャンにそびえ立つ「アヌサーワリー・パトゥーサイ」は、内戦による戦没者の慰霊碑として1960年代から建設が始まった建物で、パリの凱旋門を模している。写真は66年に撮影された一枚

   派遣職種は、教育では小学校教育・理科教育、保健医療では看護師・助産師が多いです。バレーボールや陸上競技、体育などのスポーツ分野、伝統手工芸品の生産者やコーヒー農家などを支援するコミュニティ開発もニーズが高い職種です。60年前と変わらず農林水産分野の要請も根強くあります。

   ラオスは国土の約7割が森林で人口密度も低いため、都市化が著しい首都のビエンチャン以外は開発が進みにくい状況にあり、経済危機が長期化しています。しかし、農業が盛んで、果物や昆虫まで豊かな自然から得られる恵みがあり、食べることには困らない国です。

   人々は優しくてちょっとおせっかいで、家族や知人との結びつきを大切にし、時間に縛られずにのんびり暮らしています。こうしたラオスでの活動は、心の豊かさとは何かということについて改めて考えさせてくれるでしょう。活動の中では事前の想定と異なる状況が起きたり、物事がなかなか進まず焦ることもあるでしょうが、隊員の皆さんにはそうしたことも含め、楽しんで過ごしてほしいと思います。

1960年代のラオス王国時代の農業から、
ベトナム戦争後の復興支援まで
ラオスの発展・復興に貢献した隊員たち

大西規夫さん
大西規夫さん

ラオス/稲作/1965年度1次隊・北海道出身

稲作農家に生まれ、子どもの頃から家業を手伝う。高校卒業後にアメリカで農業研修を受ける中でケネディ大統領の演説やPeace Corpsの活動のほか、学生との交流を通じて途上国の状況を知る。日本でも若者の海外派遣が始まると知り、帰国後すぐに日本青年海外協力隊に応募、応募者700人の中から31人の合格者の1人に。帰国後は民間企業を経てOTCA(現JICA)に入団し、ネパール、タンザニア、エチオピア、ポーランドに駐在し、協力隊事業を支えた。

米自給に向け日本式稲作を紹介した
隊員番号1番の大西さん

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空港で手を振る大西さん(中央)らラオスの初代隊員5人(写真提供:JICAラオス事務所)

   1965年12月、ラオスに派遣された5人の初代隊員のうちの1人が大西規夫さんだ。首都ビエンチャンから南に13kmのサラカム郡にある稲作試験場で、各種の栽培を行い推奨品種の普及を進め、米の収量増を目指すという要請だった。

   派遣前訓練でフランス語を習得し、ラオスに赴任すると、「誰もフランス語を話しておらず、所長と副所長が片言の英語を理解する程度。私は配属先が決まっていましたが、野菜隊員の同期2人は配属先も要請も全く定まっておらず、自分で開拓するしかない状況でした」。在外事務所はなく、隊員のサポート態勢が整わない中での派遣開始だった。

   現在も人口の7割が農業に従事するラオス。当時から自給的農業が大半で、焼き畑による陸稲栽培などが行われていた。「日本式の米作りでは、直線上に間隔を空けて苗を植え、水量を適切に管理し、除草を行いますが、ラオスでは種を田に直接まき、水は雨まかせ。雨期には雨で種が流されてしまうし、乾期は米作りができない状況でした」。

   ラオス語で稲作について詳しい説明ができなかった大西さんは、所長にかけ合って、試験場内に圃場を確保し、子どもの頃から身につけてきた水田作りを見せることにした。しかし障壁もあった。大西さんがはだしで田んぼに入り苗を植えると、農水省の役人である職員たちは、「そんな粗野な作業は私にはできない」と拒否するのだった。それでも、米が大きく実ると感心し、大西さんが日本から取り寄せた足踏み脱穀機を「とても便利だ」と感謝してくれたという。

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当時のラオスの高床式住居(『若い力』1967年7月号より、住人は大西さんの同期隊員)

   大西さんは初代隊員としてラオスに貢献したいと意気込んで活動したが、「一つのきっかけを見せたにすぎなかった」と振り返る。「日本の稲作のように、労力を投入して良い米を多く収穫するという意識は当時のラオスの農家にはなく、長年続く農法を変えるには時間がかかると感じました」。

   当時の職員住宅には自炊設備がなく、食事は買ってくるパパイヤなどの熱帯フルーツと湯でやわらかくしたフランスパンばかり。当時はラジオもない。そんな生活を彩ってくれたのが「リンサオ」(娘さんと遊ぶ、の意)という風習だ。毎晩、同僚たちから誘われ近くの集落の若い女性のいる家を訪ねた。涼しい高床式の家に上がり、ロウソクを囲んで家族と話すのだ。大西さんは情報収集やラオス語習得の機会としたが、現地の若者にとっては唯一の出会いの方法だった。

「家の前を通りかかると、『大西さん、ご飯食べたか』と聞いてくれて、貧しいながらももち米のご飯をごちそうしてくれました。つらい時にはその優しさにどれだけ助けられたか。ラオスの人々との友情は私の国際協力の原点です」

   任期満了が近づくにつれ、隣国ベトナムでの戦争が激しさを増し、軍用トラックの姿を多く見かけるようになった。ある日、大西さんの住まいに軍の反乱で落とされた爆弾の破片が飛来、屋根を突き破り大西さんのベッドが黒焦げになった。「外出中だったため助かりましたが、寝ている時だったらと思うと、今でもぞっとします」。

   それから約60年。大西さんの後任の稲作隊員をはじめとする長年の農業支援が実り、ラオスは2000年に米の国内自給を達成した。「先日お会いした駐日ラオス大使からも、もち米の収量が当時の10倍に増えたと聞きました。ぜひ再訪してその様子を見たいですね」。

河本順子さん
河本順子さん

ラオス/建築設計/1990年度3次隊・大阪府出身

大学で建築工学を学び、卒業後は企業に2年間勤務。子どもの頃から海外への興味があり、協力隊に参加した。帰国後は、開発コンサルタント会社を経て、JICAのラオス森林保全プロジェクト、シニア海外ボランティア案件開拓に従事。2000年には、ラオスでの協力隊員時代の同僚と教え子と共に日本の大学院で4年間学び博士号を取得。その後も、ミャンマーで教育分野のNGO代表を務め、JICAのインドとパキスタンでの大学支援プロジェクトなどにも携わった。

1990年代、これからのラオス復興に寄与する
建築科の学生たちの学びをサポート

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建築学校の教員たちと授業について意見交換する河本さん

   戦乱や政変を受け協力隊派遣が中断していたラオスだが、1986年に経済開放を柱とする改革路線を取り、国交や経済の正常化を目指した。90年には15年ぶりに協力隊派遣が再開され、その翌91年、河本順子さんは通信運輸郵政建設省管轄の建築学校に建築設計隊員として赴任した。

「ビエンチャンの町自体が暗い雰囲気で、学校などの建物は壁がボロボロ、道路は舗装が剥がれてぬかるみ、ソ連やフランス製の車がたまに走っているものの、信号機は大半が作動していなくて、長い混乱期を町が物語っているようでした」と河本さんは当時の印象を語る。

   河本さんへの要請は、同僚の教員と共に建築科の学生を指導することだったが、赴任早々、壁にぶつかった。実は河本さんは大学で建築学を学んだものの、
教えた経験はなかった。協力隊の村落開発普及員や青少年活動に憧れて応募したが不合格で、3度目の応募時には建築設計で応募してみてはとの助言に沿い、合格していた。配属先で講義の様子を見ると、ソ連や東ドイツ、ベトナムに留学した教員が、各留学先で学んだ建築学をベースに担当科目を教えていた。学生には意欲があり、教員の板書を熱心に書き留めていた。「子どもが話すようなラオス語しかできず、教員経験がない私が何の役に立てるのかと悩みました」。

   一方、生活面では、当時のラオスでは日本人が珍しく、河本さんは配属先でも町中でも目立った。世代の近いカウンターパート(以下、CP)や同僚、知り合いのさらに知り合いのような人たちからも誘いを受けた。冠婚葬祭だけでなく、「家族で川遊びに行くから一緒に行こう」「ヤギを買ったから焼き肉をしよう」などと内容もさまざま。河本さんは分け隔てなく参加し、アヒルの血を固めた伝統料理を食べ、アルコール度数50°のラオラオ(現地の蒸留酒)も飲んだ。「出されたものはすべて食べ、飲む覚悟で臨みました」という河本さんの心意気はラオス人たちに喜ばれた。

   1年近くたった頃、河本さんの専門知識が生きてきた。さまざまな建築基準がまとめられた日本の参考書や、母校から送ってもらった建築雑誌を持っていた河本さんのもとに、学生たちが勉強の相談に来るようになったのだ。さらに河本さんは、日本で行われる学生向け国際コンペに学生が参加できるように手配し、作品づくりを支援した。

   河本さんは、授業が各教員の留学先国の専門用語を交えた板書ばかりで、ラオス語による教科書がないことに気づいた。偶然、在ラオス日本大使と話す機会があり、教科書の必要性を訴えたところ、「賛同していただき、小規模無償資金協力を使って、ラオス語による教科書を印刷することができました。完成後まもなく私は任期満了で帰国しましたが、教科書はその後も3代にわたって派遣された後輩隊員たちが、内容を改良していってくれたと聞いています」。

   配属先は95年に設立されたラオス国立大学工学部に編入されることになり、そこで教えていたかつてのCPや同僚教員、河本さんの教え子が、大学の教員になるのに必要となる学位取得のため、留学先として河本さんの母校の大学院を選んだ。河本さんも彼らに合わせて博士課程に入り、留学生活をサポートした。元配属先は、現在は建築学部として独立し、日本の大学とのスタディーツアーや共同研究を行うまでに発展している。

「日本の大学との連携が広がったのは、私や後任の隊員たちがきっかけとなったのかもしれません。当時の私は何も貢献できなかった思いでいっぱいでしたが、結果として、今の展開に至る過程に関われたことを幸せに思っています」

大谷祐樹さん
大谷祐樹さん

ラオス/自動車整備/2019年度3次隊・神奈川県出身

専門学校で自動車整備士の資格を取得、二輪車販売店勤務を経て運送機器メーカーの開発実験職を14年ほど務める。海外への関心はあったが自分には難しいと考えていた。しかし業務で東南アジアの人々と触れ合う中で、やはり海外で活動したいと協力隊に応募。コロナ禍の影響で派遣が1年延期になり、待機中は実務経験を積むため自動車整備工場で研修を受けて派遣に備えた。帰国後は通関士の国家試験に挑戦して合格し、2024年から通関業に従事している。

現地でのロックダウン、配属先変更を乗り越え
不発弾処理組織の車両整備環境の向上を目指す

派遣国の横顔
シェンクワン県事務所で不発弾探査の準備をする、地元住民から成るスタッフたち

   ラオスでは1964年から75年のベトナム戦争中、約2億6,000万発もの爆弾がアメリカ軍によって投下され、その数は戦争当事国だったベトナムを上回り世界最多だ。投下された爆弾の約3分の1が不発弾として今も残り、除去完了には数百年かかるといわれている。大谷祐樹さんは不発弾の調査・除去を行っている政府組織UXOラオに配属され、その問題を身近に感じた。

   大谷さんは赴任早々から困難に見舞われた。コロナ感染者数の抑え込みに成功していたラオスに渡航した直後、現地でパンデミックが起きてしまい、2カ月以上ホテルに缶詰めになった。大谷さんへの要請は、UXOラオのチャンパサック県事務所で、不発弾処理に使う車両の管理方法や整備技術などを整備士にアドバイスすることだった。しかし要請は白紙となり、首都にある同組織の本部に配属先を変えることとなった。その後も感染者数がぶり返したため自宅待機となり、渡航から実に9カ月後に活動がスタートできた。

「本部の業務は各県事務所のマネジメントが主で、車両はあるものの整備士は配置されておらず、整備や故障時には車をディーラーに持ち込んでいました。私は何をしたらよいのか、途方に暮れました」

   それでも大谷さんは本部の車両管理をしているマネージャーやドライバーの仕事を観察しつつ、できる活動を探り始めた。一つの機会となったのが、UXOラオの全体会議だ。大谷さんは地方事務所のスタッフのニーズを探るチャンスと捉え、会議に来た各県事務所のドライバーにアンケートを実施。車両や整備機材の不足や、特に地方では部品供給に時間がかかることなどが問題として挙がった。

   そこで考えたのが、点検を定期的に効率よく行ってもらうためのリストと手順書の作成。故障を未然に防げれば業務効率の改善につなげられる。

「どこをどう見て行えばよいか具体的に示し、点検スキルの向上を目指しました。また、部品名などは地域や人によって言い方が異なり専門用語が不統一で混乱を招くため、今後日本などから支援を受けることも想定してラオス語と日本語の対応表も作成し、電子データで提出しました」

   大谷さんは2年目に入って、ようやく不発弾除去を行う現場の整備状況を知る機会を得た。不発のクラスター爆弾が国内で最も多く埋没するシェンクワン県だ。

「町が爆撃でまるごと焦土となり、町ごと高台に移設された地域でした。貧しい地域の人は不発弾の残骸を生活用具に使ったり、再加工してアクセサリーにして観光客に売ったりしていて、残骸を拾う時や再加工中に不発弾被害に遭うこともあると聞きました」

   除去は地元住民を中心に1チーム8名、13チームで作業をしており、所有車両はフル稼働だった。整備担当は1人だけで業務負担が大きい上に、整備用設備の不足や作業環境の悪さが目についた。そのため大谷さんは、シェンクワン県事務所の業務改善提案書をまとめ、本部に提出した。

   困難な状況で活動した大谷さんだが、それでも後任隊員が必要だと考えている。「ラオス全土の不発弾の量や被害を考えると、UXOラオが事業を継続できるよう、継続的な支援が必須だと感じました」。

活動の舞台裏

心温まる儀式「バーシー」

   ラオスで参加すると忘れられなくなるのが「バーシー(正式名称:バーシースークワン)」という伝統的な儀式だ。結婚や出産、新年、新築、病気からの治癒などのお祝いや旅の安全など人生の節目に皆で祈る。その日の主役を中心に祈とうして参加者全員から白い糸が手首に巻かれた後、参加者同士も互いに糸を結び合い、安全や健康、仕事や勉強の成功を祈り合う。
 大西規夫さんは集落の正月(4月)のバーシーに招かれ、「相手を重んじる心の温かさを感じて、結んでもらった糸を帰国するまでつけていました」と振り返る。今でも隊員が帰国する時はバーシーで送られることが多い。JICAラオス事務所の吉村由紀次長は、「ある小学校では低学年の児童たちが緊張しながら隊員へのお礼の言葉を述べた後、儀式が執り行われました。良い活動をしたんだなと見ていて胸が熱くなりました」と話している。

派遣国の横顔
バーシーの様子。花や竹ひご、後で巻き合う白い糸が結わえられた「パークワン」という飾りから伸ばされた白い糸を持ち、参加者全員で祈る

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位