フィリピン/コミュニティ開発/2014年度2次隊・大分県出身
一般社団法人 多文化人材活躍支援センター 代表理事 「2カ国以上の文化背景を持つ『多文化人材』がその経験や能力、知識、ネットワークを生かし、誰もが生まれた国や在留資格に関係なく活躍でき、平和で幸せに暮らせる社会に貢献する」という目的の下、多文化共生や特定技能外国人支援、国際協力などを行う。2023年10月に正式に法人化し、能登半島地震の際にはウクライナ避難民による炊き出しの実施など、在留外国人が支援する側に回る取り組みも実現した。
西日本新聞の記者を経て2014年に協力隊員としてフィリピンへ赴任し、有機農業の普及に携わった山路健造さん。大型台風が上陸した時に現地のニュースで流れるタガログ語が理解できず、JICA事務所から日本語で情報を得た時の安心感を今も鮮明に覚えているという。
その“外国人”として生きた経験が山路さんを駆り立てた。帰国後、認定NPO法人「地球市民の会」に入職し、在留外国人支援に取り組んだ。18年には、佐賀に住むタイ人同士の横のつながりをつくろうと「サワディー佐賀」を設立。19年の佐賀豪雨では、多言語の災害情報を発信した。最初は自動翻訳による誤訳で混乱を招くという失敗をしたが、以降は「緊急時に間違った情報を流したら取り返しがつかない」と、母語話者によるダブルチェックをしてから発信する体制をつくった。
活動の幅は広がり、県を超えた多文化共生セミナーの開催や、多言語ハンドブックの制作も行った。22年にロシアのウクライナ侵攻が始まってからは、全国初の官民連携のウクライナ支援プロジェクトの事務局を担当し、避難民の生活支援に奔走。外国人が地域の一員として力を発揮できる社会を目指し、「多文化人材活躍支援センター」を設立した。
転機となったのが24年1月の能登半島地震だ。知人からの依頼で、輪島市で被災した人々の生活実態や避難の状況を全戸調査したが、外国人の姿が見えず、「どこにいて、どう暮らしているのかと不安な思いを持ちました」と振り返る。
後に、避難所や仮設住宅に散らばっていることがわかったが、支援の輪からは取り残されていた。そこで山路さんは炊き出しをして同じ国同士の人が集まる場をつくり、多言語での情報発信も開始した。じかに足を運び、声を聞いて回り、家の修繕や食料の買い出し、寒さ対策など、それぞれの困り事を解決するためのボランティアや支援制度の窓口につなげた。“よそ者”である山路さんは、「能登の人たちは優しくて、いい意味でおせっかい。フィリピンにも似た居心地の良さがある。きちんと外国人との接点をつくればもっと化学反応が起きるはず」と確信し、輪島に拠点を置くと決めた。平日は輪島市社会福祉協議会の職員として在宅生活者の見守り活動に当たり、週末は外国人住民との交流イベントを企画する。
行政の理解や連携には課題も残るとしつつ、「外国人は助けられる側であると同時に、支える側にもなれる存在です。今後は地域の人と外国人をつなげ、お互いの顔が見える関係性をつくる活動を展開したい」と山路さん。地域と外国人を“つなぐ”役割である「多文化ケアマネージャー」を育成することも視野に入れ、能登から新たな多文化共生の形を描く。
Text=秋山真由美 写真提供=山路健造さん