グアテマラ/水泳/1993年度1次隊・
静岡県出身
プールという舞台で言葉を発さず、コミカルな動きと表情で観客を驚かせ、笑わせる。水中パフォーマンス集団「トゥリトネス」で道化師として演じてきた不破 央さんは、平泳ぎの元日本記録保持者であり、グアテマラに水泳隊員として赴任した協力隊OVでもある。
「オリンピックの夢が破れ、現役引退を決めてこれからどうしようという時に電車で見かけたのが、協力隊募集の広告でした。何もない砂漠に、ひびの入った眼鏡をかけた男性が苗木を持って立っている写真になぜかジーンときて、自分もこういう場所で何かできるのかと問いかけられた気がしました」
勤めていた会社を退職して協力隊に応募し、配属されたのはグアテマラ南西部の都市マサテナンゴの水泳協会。そこで子どもたちに水泳指導をしながら組織づくりを支援することが要請されていたが、着任早々に衝撃を受ける。
「プールは草ぼうぼうで使われている気配がない。街外れの不便な場所で、誰も使わないので15年も放置されていたらしいのです。私一人で、草を鎌で刈り、ヘドロをブラシで取り除き、プールをきれいにすることから活動が始まりました」
プール掃除が終わり、水を入れられるようになったのが2カ月後。ようやく指導できる体制になったが、「最初、12人の子どもたちに日本のスイミングスクールのようなメニューを行うと、嫌だとかつらいとか大ブーイング。皆だんだん来なくなり、ついに2人だけになってしまいました」。
これは本末転倒だと思ったある日、破れかぶれで「今日は遊ぼう!」と水中鬼ごっこや水球をして遊ぶことにした不破さん。それから毎日プール遊びをしていたところ、辞めた子も顔を出すようになり、だんだんと増えていった。遊びを続ける中で不破さんはある時、重要なヒントを得た。
「子どもと鬼ごっこしても当然、僕は追いつかれません。すると1人の子が、『なぜそんなに速く泳げるの?』と聞いてきました。これはチャンスだ!と『クロールは、手をもっと前のほうに入れて、水を後ろのもものほうまで押すんだよ』と説明し、初めて水泳指導に近いことができたのです。学びの本質のようなものを目の当たりにして雷に打たれたような衝撃があり、それから教える自分も楽しくなりましたし、教わる子どもたちの表情も生き生きとしていきました」
その後、練習の時間も増やしていったが、常に笑い声のあるプールにすることは心がけた。不破さんがスペイン語で話す落語の小ばなしは子どもたちに大うけで、水泳教室の人数は、任期満了時には120人に。この時の子どもたちの笑顔が、帰国後の不破さんの進路を決めた。
「小ばなしの時に落語家のように上下を切ると、皆が面白がってくれました、その感覚がとても嬉しく、演じることも楽しかった。“表現”をもっとやってみたいと思ったんです」
表現といえば俳優。アルバイトをしながら俳優修業に励み、さまざまなワークショップに通う中で、“道化師”というせりふのない世界に初めて触れる。
「しゃべらずに人に伝えるのは、下手なスペイン語を駆使して表現で笑わせていた経験に通じます。ピンときて道化師の修業を始めたのですが、一般の役者以上に仕事がありませんでした。この道で成功している人は、一芸に秀でている。そこで自分の一芸は何かと考えると、水泳でした。ピエロがプールに来たら何するだろうかと考えてみるとネタがどんどん浮かんできて、1本のストーリーができました」
当初は1人だったが、仲間が徐々に集まって水中パフォーマンス集団を結成。グアテマラで出会った水泳チームの名前を取って、トゥリトネスと名づけた。スイミングクラブなどで公演する中で、水の楽しさを伝え、水泳の世界に導くという意味を込めて“水の導化師”と掲げるようになった。
日本代表時代の関係者の計らいでメディアに紹介されてからは仕事の幅が広がり、映画『ウォーターボーイズ』の水中演技指導などにも関わるうち、トゥリトネスとしてのイベントも増えていった。不破さんが出演した公演は26年間で1,015回。2024年の最終公演を最後にパフォーマーは引退したが、やり残した感覚はない。アスリートとしての挫折や隊員時代の試行錯誤、“水の導化師”への転身を振り返り、「将来こんな素晴らしい未来が待っていると、隊員時代の自分に伝えたい」と不破さんは口にする。
「隊員時代の経験は今もずっと生きています。現役隊員で、今がつらいという方も、よりつらいほど後で得られるものも大きいはず。もう嫌だと思った時は、目の前の出来事を楽しみ、目の前の相手を楽しませることに尽きると思います」
1968年
1986年
1992年
オリンピックの選考には3度挑戦しましたが、一度も出場できませんでした
1993年
現地の子どもたちが、これまでストイックに練習を重ねてきた自分とは全く違うアプローチで、
学び、成長していく姿を見て衝撃を受けました
1995年
1998年
水の導化師というニックネームはメディアで紹介されたのが最初ですが、後にトゥリトネスの公演を見たことで子どもがプールに行くようになったという保護者からの手紙をもらい、自ら水の導化師と名乗るようになりました
2000年
まず俳優たちを楽しませることを第一に考えました。泳ぐことで、こんなことができるという経験をしてもらってから、演技の練習に入る。この時もグアテマラの経験が生きました
2024年
2025年
ファンや法人からの支援金で製作。日本各地のトゥリトネスショーに加えて、グアテマラへもロケに行き、当時の教え子たちと再会しました
Text=池田純子 写真提供=不破 央さん