派遣国の横顔

パラグアイ共和国パラグアイ共和国

累計派遣数1,800人を超える南米初の協力隊派遣国
農業や教育から環境・観光分野へとニーズが拡大

パラグアイ共和国

パラグアイの基礎知識

面積40万6,752㎢(日本の約1.1倍)
人口約684万人(2023年、世界銀行)
首都アスンシオン
民族混血(白人と先住民)95%、先住民2%、
欧州系2%、その他1%
言語スペイン語、グアラニー語(共に公用語)
宗教主にカトリック(信教の自由は憲法で保障)

※2025年2月18日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1978年2月24日
派遣取極締結地:アスンシオン
派遣開始:1978年2月
派遣隊員累計:1,862人
※2026年1月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)

パラグアイ共和国
お話を伺ったのは
谷川千幸さん
谷川千幸さん

エンカルナシオン日本人会事務局長。日系2世としてパラグアイに生まれ育つ。アスンシオン・カトリック大学卒業。アトリスパス旅行社勤務、パラグアイ地域農業研究センター(CRIA)におけるJICAプロジェクトの秘書兼通訳、ラパス国立高校社会科教師などを経て、2022年11月から1年間、JICAナショナルボランティアとして活動。

派遣国の横顔
エンカルナシオン市で行われた夏祭りでは、日系・非日系人合わせて延べ4,000人もの人々が共に日本の風物を楽しんだ。「パラグアイ人が受け入れてくれて日系人も共に社会を築いています。隊員活動でも交流を大事にしてほしいと思います」(谷川さん)

   日本人移民がパラグアイに初めて入植してから今年で90年を迎えます。現在では約1万人の日系人が暮らし、最初の移住地ラ・コルメナをはじめ、各地に築かれた日系社会は、農業分野を中心にパラグアイ経済・社会の発展に大きく貢献してきました。その結果、日本人は「誠実で信頼できる存在」として地域社会から高い評価を得ています。

   協力隊の派遣は1978年に南米で最も早く始まり、これまでに累計1,800人以上の隊員が、教育・保健医療・農牧開発など、さまざまな分野で活動してきました。日系社会で育った私にとって協力隊員は身近な存在で、通っていた日本語学校では音楽や体育を隊員から学びました。40年ほど前の隊員は今より厳しく、そうした教育に触れられたことは貴重な経験になったと思います。

   近年は日本のアニメ人気の影響もあり、非日系人も含めて日本語を学びたい子どもや大人が増えています。継続的に日本語教育の隊員が派遣されることで、学習者の日本語能力向上や授業の充実化につながると期待されています。

   一方、パラグアイは貧富の差が大きく、特に地方ではその傾向が顕著です。経済や社会インフラの整備も十分とはいえず、教育、医療などで多くの課題を抱えており、協力隊への期待は依然として高い状況にあります。

   近年のニーズとしては、ごみの分別やリサイクル意識を定着させるための環境教育の他、JICAの協力でホエナウ市などに整備された“道の駅”の活用を含め、地域資源を生かした商品開発や観光分野でも貢献が期待されます。

   パラグアイの人々は温かく寛容で、他者を受け入れる国民性を持っています。時間にルーズな一面もありますが、相手のペースに寄り添い、まずは信頼関係を築くことが円滑な活動につながると思います。また、日本語や日本食に触れたい時は、いつでも日本人会を訪ねてください。

村の女性の食生活改善、酪農家の生産性向上、
日本語教育を通じた日系社会との交流…
現地の人々に寄り添い活動してきた隊員たち

井上順子(旧姓 菊山)さん
井上順子
(旧姓 菊山)さん

パラグアイ/家政/
1987年度2次隊・三重県出身

大学の家政学部を卒業後、兵庫県尼崎市の学校栄養士として勤務している時、休職して協力隊に現職参加した。帰国・復職を経て、故郷の三重県伊賀市でブラジルやペルー出身の小学生たちに日本語学習指導を行う。その後、同市が在住外国人の人々と共に暮らせる町になるように多文化共生活動に取り組む。日本語ボランティア教室「伊賀日本語の会」代表のほか、NPO法人「伊賀の伝丸(いがのつたまる)」では立ち上げから参加し副代表理事を務める。

栄養についての知識を詰め込むのではなく
食事に“少しの変化”を促せれば大成功!

派遣国の横顔
管理栄養士としてのノウハウを生かし、村の女性たちに食事への野菜の取り入れ方を提案するために調理の実演を行う井上さん

   パラグアイでは1954年から長期的な独裁政権が続いていた。その時代が終息に向かっていた80年代末に活動したのが井上順子さんだ。兵庫県で学校栄養士として働いていた時、「世界を見てみたい、その土地の人々と関わってみたい」と応募した。家政隊員として赴任したのは、首都アスンシオンからバスで約3時間のウブクイ市。自然豊かで、出身地の三重県伊賀市にもどこか似たのどかな町。人々は素朴で、異国から来た井上さんを温かく受け入れてくれたが、下宿先の少女が子豚を抱えて帰ってきた時、「かわいいね」と声をかけると「クリスマスに食べるんだよ」と返され、ペットではなかったのかと文化の違いを実感したという。

   配属先は、農牧省農牧普及局ウブクイ事業所。主な要請は住民の生活改善だったが、着任後3カ月間は活動らしい活動ができず、もんもんとする日々が続いた。

「インターネットも携帯電話もない時代で、電話さえ電話局に行かないとかけられない。日本語を話す機会が全くありませんでした。同僚たちはテレレ(※1)を飲みながらおしゃべりしてばかり。スペイン語は派遣前訓練に加え、メキシコでの現地語学研修で学んだものの、何を話しているのかわからず、自分はいったい何しに来たのかと、落ち込みました」

   それでも同僚の輪に入り、テレレの回し飲みに参加するうちに、そののんびりしたペースに慣れ、「深く悩んだりせず、この国での暮らしを楽しもう」と腹をくくった頃、JICA事務所からバイクを貸与され、村々を巡れるようになった(※2)。

   当時のパラグアイの食生活は肉とマンジョカ(キャッサバ)が中心で、野菜を食べる習慣はほとんどなかった。栄養への意識も低く、生活習慣病などの罹患率が高いことが課題だった。そこで井上さんはバイクで時には60㎞離れた村を訪ね、そこの女性たちを対象に、農業分野の隊員の力を借りてキャベツやホウレンソウなどの栽培方法を教えたり、それらの野菜を使った料理の講習会を実施したりした。

   当初は栄養士として正しい知識を伝えようと思っていたが、突然来た日本人が押しつけても無理だと思い直し、いつか誰かが「野菜を取り入れるといいと順子が言っていたな」と思い出して、少しの変化を起こしてもらえれば大成功だろうと考えるようになった。

「講習会を通じて、最初は野菜を嫌がっていた人もおいしさに気づいてくれるようになりました。すると口コミでだんだん人が集まるようになって、小豆のケーキや大根サラダは特に好評でした。そんなタイミングで、『この野菜にはこんな栄養素があるんだよ』と教える。諦めずに伝え続けることで人は変わってくれると実感しました」

   任期中盤には、独裁政権が崩壊するという歴史的事件にも遭遇した。休日の夜に同期隊員と首都でカラオケを楽しんでいたところ、花火のような大きな音が聞こえた。「ずいぶん派手に祝い事をしているな」と思っていたが、後でそれが軍事クーデターだったと知った。

   帰国後は、スペイン語能力を生かし、地元・伊賀市に住む外国人やその子どもたちの支援を続けている井上さん。

「30年前、パラグアイの人々が私を温かく受け入れてくれたように、今、日本にいる外国人の方々の力になりたい。20代での経験は今も自分の中に生き続けています」

※1 テレレ…南米の一部で飲まれているマテ茶(通常は熱い茶)を、冷たい水で浸出したパラグアイ独特の飲み物。特殊なストローで回し飲みする習慣がある。
※2 現在は隊員のバイク使用は認められていない。

渥美 翔さん
渥美 翔さん

パラグアイ/家畜飼育/
2014年度1次隊・京都府出身

中学生で競走馬に興味を持ち、農業高校で動物バイオテクノロジーの基礎知識を身につける。帯広畜産大学では家畜飼料学や家畜栄養学などを学び、NGO主催の短期海外ボランティアも経験。卒業後、同大学とJICAの大学連携プロジェクト「イタプア県における小規模酪農家強化プロジェクト」の下、協力隊員としてパラグアイへ赴任。帰国後はホテルマンを経てシステムエンジニアに。

酪農家から“悪魔の子”と陰口をたたかれたが
相手の思いを優先する活動で反発を乗り越えた

派遣国の横顔
酪農家たちはスペイン語を話さない人も多く、渥美さんはホームステイ先の大家に協力してもらいグアラニー語の習得に努めた。「グアラニー語で挨拶すると、仏頂面だった酪農家の方も驚き、笑顔を見せてくれました」

   パラグアイでは農畜産品の輸出が経済の大きな部分を支えている。一方で国内で多くを占める小規模農家が品質の高い農畜産品を効率的に生産する体制は十分とはいえない。こうした課題に取り組むため、JICAは帯広畜産大学と包括的連携協力協定を締結し、2012年から「イタプア県における小規模酪農家強化プロジェクト」を実施。14年8月にパラグアイに赴任した渥美 翔さんは、同プロジェクトで長期派遣された第2期の隊員だ。

   大学時代、カンボジアでの短期海外ボランティアに参加したが、受け入れ準備をする現地の負担も軽くない状況を見て、「自分は本当に役に立てたのか?」という疑問を抱いたことから、改めて、長期的に現地の人々と向き合える協力隊への参加を決めた。

   任地は南部のイタプア県ヘネラル・アルティーガス市で、活動先は同市役所の農業課。要請内容は搾乳時の衛生面や繁殖管理を改善し、牛乳生産量を増やし収入を向上させることだった。渥美さんは農村地域の酪農家を巡回し、定期的な乳牛の乳房炎の検査や繁殖状況の確認などに協力してくれる人を探すことから始めた。15件ほどの酪農家の自宅に度々足を運び、牛の皮膚を軽く引っ張って脱水状態を確認する方法や、牛の歩き方から蹄の伸び具合を判断する方法など、自身の知識を伝えて信頼を得ようとした。

   しかし、酪農家たちはそれぞれ自分のやり方にプライドがあり、反発される場面も多かった。発情周期や乳量の記録を頼んでも、誰一人協力してくれない。牧場を見せてもらうことすら簡単ではなく、活動はなかなか進まなかった。

   そんな中、酪農家を訪ねた際に時々、耳にしていたグアラニー語(※3)の意味を知る。「悪魔の子が来たぞ」。自分が言葉を理解できないと思われ、陰口を言われていた事実にショックを受けた渥美さんだが、そこで冷静になれたと振り返る。「別の国から来た若者に、いきなりアドバイスされても煙たがられるのは当然でした」。

「結果を出すことよりも、まずは彼らとの関係性をつくって、“この人は何がしたいのか”を知り、それぞれにとって最も良い支援を考えることが大切だと思うようになりました」

   その心境の変化を、渥美さんは正直に酪農家たちに伝えた。すると、彼らの態度は次第に和らいでいった。渥美さんは相手の状況や希望をヒアリングし、それに応じた提案をするようにした。酪農家には、収入をさらに増やしたい人もいれば、他の仕事と兼業で酪農を営んでいて、現状維持を望む人もいた。

   意欲ある酪農家には環境改善や収支記録を勧め、現状維持を目指す人には生産量の減少を防ぐ提案をした。日本で一般的なアルカリ性洗剤による乳房の殺菌はコスト面から難しいため、大学の恩師に相談し、家庭用漂白剤を薄めて使用する方法を提案したこともある。

   そんな活動を続けるうち、渥美さんを“悪魔の子”と呼んでいた酪農家は、帰国間際、「帰っちゃダメだ!娘と結婚していいから残ってくれ」とまで言ってくれるようになった。

「知識や技術を定着させるのはなかなか難しいことですが、相手のことを思い、自分ができることをするという活動は、やり切れたと思います」

※3 グアラニー語…パラグアイの先住民族であるグアラニー族の言葉で、スペイン語と共に公用語となっている。パラグアイ国民の8割以上が理解でき、地方部では住民の半数がグアラニー語のみを母語としている。

五嶋友香さん
五嶋友香さん

日系/パラグアイ/
日本語教育/2023年度3次隊・
埼玉県出身

大学で英語学・英語文学を主専攻とする傍ら、副専攻として日本語教育について学び、大学院では現代日本語・日本語教育分野を修了。学生時代には、日本語学校の非常勤講師や定時制高校での日本語指導員、ミャンマーの難民などの背景をもつ在留外国人の支援団体での日本語支援、外国につながる子どもたちへのオンライン教科学習支援など、多様な日本語教育の現場に携わる。2024年2月から協力隊員としてパラグアイで活動。

日系社会の“分かち合う精神”に感銘
これからも日本語継承に関わっていきたい

派遣国の横顔
生徒ごとの日本語能力の差が大きく、高学年になるほど差が開いていくという課題に 対し、五嶋さんはペアやグループでの学習を取り入れることで改善を図った

   日本語教育の道に進むにあたって視野を広げたいと、大学院修了後すぐに協力隊に参加した五嶋友香さん。2024年2月からエンカルナシオン市にある日系日本語学校で活動を始めた。同市は首都から約370㎞離れており、戦後の日本人移住者がまずこの地に到着し、各移住地へ向かうまでの準備期間を過ごした「戦後移住の⽞関」と呼ばれる所だ。

   エンカルナシオン日本語学校には、幼稚園部から中学部まで約40人が在籍。日系・非日系の子どもたちが共に学んでいる。日本語学校は日本の文化や規律を身につける場であると同時に、日系の子どもたちにとっては自身のアイデンティティに関わる重要な言語を習得する場でもある。

   パラグアイの学校は2部制で、日本語学校に通っている子どもたちの場合、午前中はスペイン語で授業が行われる現地校で各教科を学び、午後は日本語学校で勉強している。五嶋さんは25年度、日本語学校の小学4~6年の複式クラスと中学生クラス(1~3年生が在籍)に教えた。校長、同僚教員共に日本語が通じる環境にある一方で、文化の違いに戸惑うことも少なくなかったという。

「特に驚いたのは時間感覚の違いです。日系社会の日本語学校でも、定刻どおりに授業が始まらないことが多く、日本的な規律をどこまで伝えるべきか悩みました。生徒を学校へ送迎する親の都合による影響もあるからです」

   そんな中、日本人会に所属する日系2世の人から、「時間を守ることも子どもたちに教えていく必要がある。私たちの子ども時代はもっとルールや規律が厳しかった」と言われたことが心に残った。現地文化を尊重しつつ、日本語教育を通じて何を伝えるべきか、試行錯誤の日々が続いた。

   授業では、同じ学年でも日本語や漢字のレベルがさまざまであったために、何をどのように教えるべきか頭を抱える日もあった。授業はインプット中心であり、学校外では日本語を使う機会も少ないようだった。そこで、五嶋さんはペアやグループでの学習を取り入れ、各グループに必ず1人は日本語が得意な生徒を入れるようにした。中学生クラスの学習テーマは、日本の文化や社会。日本語を話す時間が増え、苦手な生徒を得意な生徒が自然と助けるようになり、自信がなかった生徒も積極的に発言するようになっていった。

「最初はレベル別や習熟度別にクラス分けすることも提案しましたが、同世代の仲間と共に学び、地域社会の中でのつながりを育むことも学校の価値だと気づきました」

   五嶋さんの配属先となるエンカルナシオン日本人会では、敬老の日や運動会など、年間を通じて多くの行事が催され、日本語学校の生徒たちも参加することがある。五嶋さんも積極的に参加し、多くの日系人と親交を深めてきた。

「皆でつくり上げてきた社会だからこそ、例えば誰かに不幸があれば皆で助け合い、悲しみを分かち合う。一昔前の日本のような社会。そうした時代を知らない私にとっては、とても新鮮で貴重な経験でした」

   移住の歴史について学ぶ中学生の授業で、3人の日系1世からインタビューをする機会があった。「ゼロから開拓するという過酷な体験を経た1世の方々が、口をそろえて『楽しいことのほうが多かった』と語る姿に衝撃を受けました。苦労はあったけれど、その先にある喜びや楽しみを見つめる姿勢に大きな感銘を受けました」。

   帰国後は、「外国につながる子どもたちへの日本語教育とあわせ、日系社会での日本語継承について研究したい」と決意を新たにしている。

活動の舞台裏

人と人をつなぐテレレの時間

   パラグアイやアルゼンチン、ブラジルの一部などを含む南米大陸南東部を中心に飲まれているマテ茶は、ジェルバ・マテという植物の葉や小枝を乾燥させた茶葉に湯を注ぎ成分を浸出したもの。その茶葉に冷たい水を入れて飲む「テレレ」は、パラグアイ独特の飲み方であり、仲間がいれば回し飲みすることが人とのつながりを深める大事な習慣となっている。

「職場に着いたらテレレ、お昼の後にテレレ。毎回1時間くらい続いて、その間ずっとおしゃべりしている」と笑うのは井上順子さん。「言葉が話せなくても、テレレに参加していたら仲間になれる、良い習慣でした」と振り返る。

   酪農家がテレレに誘ってくれるのが、打ち解けた合図のようで嬉しかったというのは渥美 翔さん。思い出深かったのは、ホームステイ先のお父さんに「道を見よう」と誘われ、家の軒先で椅子に座って3時間ほどテレレを飲んだこと。「いつもの道路を眺めながらただテレレを飲む、何も特別なことが起こらない時間がとても強く心に残っています」。

派遣国の横顔
マテ茶やテレレを飲む時に使う器「グァンパ」とストロー「ボンビージャ」。牛の角を使ったグァンパ(中央の2つ)は熱に弱く、冷たいテレレ専用
派遣国の横顔
複数人がいる時は、グァンパにお湯や水を継ぎ足しながら回し飲みする。その習慣はコロナ禍でいったん行われなくなったが、現在は復活している
※写真提供:小田智子さん(JICAデスク長崎)

Text=秋山真由美 写真提供=ご協力いただいた各位