今月のお悩み体育の授業が“遊び”のように見なされて、
校内で軽視されているように感じます
(アフリカ/体育)

   体育授業の質向上を支援する要請で、地方の中・高等学校に赴任しました。政府が体育教育の充実化を掲げており、基本的な道具・備品が各校に配られるなど授業をする環境は整っているのですが、教員も生徒も体育はサッカーなどをして遊ぶ時間という認識のため戸惑っています。

   主要教科のために体育のコマを削ろうとする教員もいるので、自分は何のためにここにいるのかとむなしい気持ちを抱えています。

小林先生からのアドバイス価値や意義が否定されているのではなく、
社会的な“位置づけ”が異なるだけかもしれません

   数学や理科、語学などの教科と比べて体育や美術、音楽といった副教科が軽んじられ、とりわけ体育が余暇時間のように扱われがちな状況は、多くの途上国の教育現場で共通して隊員を悩ませていると聞きます。体育の意義が否定されたように感じて、自信を失ったり憤ったりする方がいるのも無理はありませんが、その前に、現地社会における運動やスポーツの位置づけを確認してみるとよいでしょう。

   例えば、日本では明治時代に富国強兵政策の下、規律ある行動・動作のできる国民を育てる教科として体育が掲げられ、学校教育の中で運動習慣などが発展してきた歴史があります。他方で世界の多くの地域では、運動をすることは教育の一環ではなく、余暇や競技スポーツとしてのみ位置づけられていることが珍しくありません。歴史・社会的背景が異なるところへ私たちのイメージする“体育”を持ち込んでも、そもそも理解されるはずがない。ある物事の社会的な位置づけ・意味づけのことを社会学などで「コンテクスト」と呼びますが、単に運動についてのコンテクストが日本と異なるだけで、必ずしも現地の人が体育の価値を強く否定しているとは限りません。まずそう考えてみると、いくらか気持ちが楽になるのではないでしょうか。

   外国人である私たちが現地のコンテクストをすぐ理解できるものではありませんが、ひとまず自分の常識はのみ込んで、黙って現地の様子を見聞きする期間を何カ月か置くのは有効でしょう。当たり前なようで難しいことですが、そうして現地での運動の捉え方や社会事情が多少でもわかると、自分の知る体育の概念の中から適合させられる要素を見つけられるかもしれません。単に日本式の概念をそのまま持ち込むのではなく、現地に適した形を探り、無理なく受け入れられるように“翻訳”して伝えることは、途上国の社会に根差して人々と同じ目線で活動する協力隊員が本領を発揮できる場面でもあります。

   言い換えれば、体育の概念を受容する基盤が整っていないからこそ、隊員の存在意義があるのだとも考えられるでしょう。そして国際協力の面白さは、まだ整備されていない余白の部分にありますし、そこに絶対的な正解はありませんから、悩み過ぎずに楽しみながら取り組んでほしいと思います。

今月の先生
小林 勉さん
小林 勉さん

バヌアツ/サッカー/1995年度1次隊・福島県出身

筑波大学卒業後、同大学大学院修士課程修了。協力隊員としてバヌアツで活動し、帰国後は名古屋大学大学院にて国際開発学で博士号取得。信州大学教育学部専任講師、中央大学総合政策学部准教授を経て、2014年より同学部教授。研究と実践の両面から、スポーツを地域・政策・若者・国際協力と結びつけるアプローチを展開。専門は国際協力論、スポーツ社会学、スポーツ政策論。著書に『スポーツで挑む社会貢献』(創文企画)ほか多数。


Text=飯渕一樹(本誌) 写真提供=中央大学広報室