派遣国の横顔

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農業分野から始まり他分野に広がる貢献
内戦時も続いた派遣に国民からも高い評価

ネパール

免責:本地図上の表記は図示目的であり、いずれの国および地域における、法的地位、国境線およびその画定、ならびに地理上の名称についても、JICAの見解を示すものではありません。

ネパールの基礎知識

面積14.7万㎢(北海道の約1.8倍)
人口2,969万4,614人(2023年、世界銀行)
首都カトマンズ
民族パルバテ・ヒンドゥー、マガル、タルー、タマン、ネワールなど
言語ネパール語
宗教ヒンドゥー教徒(81.3%)、仏教徒(9.0%)、イスラム教徒(4.4%)ほか

※2025年10月14日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1970年2月2日
派遣取極締結地:カトマンズ
派遣開始:1970年9月
派遣隊員累計:1,466人
※2026年2月28日現在
出典:国際協力機構(JICA)

ネパール
お話を伺ったのは
飯塚健一郎さん
飯塚健一郎 さん

ネパール/理数科教師/
1997年度2次隊・東京都出身

JICAネパール事務所次長。1997年12月に協力隊員としてネパールの極西部の小中学校で理科と算数を教えた。2001年に国際協力事業団(現JICA)へ入職し、東京国際センター総務課、中東・欧州部アフガニスタン支援チーム、ネパール事務所、青年海外協力隊事務局海外業務調整課、駒ヶ根訓練所などを経て、23年から現職。

派遣国の横顔
ヒンドゥー教寺院やかつての王宮などネパールの見どころは数多い。写真はカトマンズから程近い「チャンドラギリの丘」から眺められるヒマラヤ山脈の景色

   今年はネパールと日本が国交を樹立して70周年になります。その間、日本は主要援助国の一つとしてネパールの発展に協力してきました。

   協力隊派遣は、中南部ナラヤニ県に東京農業大学が設立した実験指導農場の要員だった同大卒の3人が、1970年9月に「日本青年海外協力隊員」となった時から始まりました。90年代後半までは山岳部を含め東西に長い国土の広い地域に隊員が派遣され、96年から約10年間続いた内戦下でも活動地域を制限しながら継続。コロナ禍による一時中断を除いて、1,400人を超える隊員が活動してきました。長期間にわたり派遣を継続できている背景には、ネパールの人々が優しく穏やかで、比較的治安が良いことが挙げられます。不便もある生活を送りながら、地域に受け入れられて活動する隊員たちの姿は人々の印象に残り、高く評価されてきました。

   農業と教育の2分野が派遣の中核ですが、農業は自給自足のための技術支援を中心とするものから、付加価値がある農産品の開発・販売へと転換しつつあり、教育については初・中等学校で教員の一人として教壇に立つ活動から、近年は算数教育のレベル向上や体育などの教科に焦点を置いた派遣へと変化しています。

   2015年にネパールを襲った大地震からの復興に伴いインフラ開発や経済発展が進む一方、都市と地方の格差が拡大し、依然として貧困層とされる人々も少なくありません。今後も同国が抱える課題に合わせた職種の隊員を派遣していきます。

   自然に目を向けると、ヒマラヤ山脈から南部の平原地帯まで国土は変化に富んでいて、首都カトマンズからも時折、ヒマラヤが望めます。文化も多彩で世界文化遺産も多数あるので、今後、当国を訪れる方や隊員となる方は、ぜひネパールを楽しんでください。活動ではネパールの人々を敬いながら寄り添い、焦らず地道に取り組むことが大切だと思います。

山岳地域での教育、首都の環境問題、名産の果樹栽培など、
広い分野でネパールの発展に貢献する隊員たち

半田好男さん
半田好男さん

ネパール/理数科教師/
1991年度1次隊・栃木県出身

大学卒業後に協力隊に一度合格するも高校教員になり、4年間勤めた後に現職参加で協力隊に。理数科教師としての活動に加え、成人向け識字教室を開く。任期満了後に現地教員や村人とNGO団体ディーヨ・フォーラムを組織し、日本で教員を続けながら30年余り支援を継続してきた。活動は学校施設建設や職業訓練、障害者支援へと拡大したほか、長野県駒ヶ根市とネパールの交流・国際協力にも発展した。

大人を対象に識字教室を開講し
帰国後も30年以上続く活動の原点に

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識字教室に通う女性たちは1本の鉛筆を大事に使ってノートの隅から隅まで文字の練習をした。「彼女たちの白いノートは、農作業で手に付いた土や汗、かまどの煙など、日々の労働の中で色や匂いが染み付いていきます」

   ネパールの山岳地域の人々の教育・自立支援を30年以上続けている半田好男さん。原点は、理数科教師隊員として配属されたトカルパ村にある。カトマンズから北東にバスで5時間、谷あいのバス停から山を3時間登った先にある2,000m級の山全体が村の土地で、急峻な山肌に段々畑が連なり、上部に中心集落がある。電気も水道もない自給自足に近い生活は経験がなく衝撃的だった。配属先近くの家に間借りし、水場から水をくみ、薪で煮炊きする生活が始まった。

「店もなく、米やミルクなどは村人から分けてもらいました。支援するつもりで来たけれど、逆に村人に支援され『生かされている』と感じ、恩返しをしたいと思いました」

   活動先のバグ・バイラブ小中高校の授業は暗記中心だった。半田さんは6~10年生の理科を担当。現地教員と共同で授業を行い、実験を導入して授業改善を目指した。冷蔵庫がないため自然に降った雹(ひょう)を生徒たちと集め凝固点降下について教えたり、谷の向こうから大声で呼ぶ人の声がこちらに聞こえるまでに時間差があるという日常体験を通じて、音が伝わる仕組みを説明した。

   生徒数や男女比は学年によって異なるが、誰も村の学校に通う子どもの人数を把握していなかった。そこで半田さんは校長に掛け合い、村内の学校すべてを訪問し村全体の生徒数を調べた。すると、2年生は1年生の4割に減り、10年生は1年生の1割しかいないと判明。女子に限ると1年生は175人在籍していたが、10年生は2人しかいなかった。その理由は貧困のほか、子どもが家事や仕事の担い手になっていることや、教育に対する親の認識不足などが推測された。

   半田さんは10年生に顔つきの違う男子生徒がいることに興味を持った。離れた集落から通うパハリ族の生徒だった。パハリ族は村では3番目に人口が多いが、10年生には彼1人しかおらず、パハリ族の最高学歴者であった。なぜ彼だけは学校に通い続けているのかと家庭訪問をすると、父親が村の外で働き識字教室で学んだ経験があることを知った。

「教育を受けた親は認識が変わり、子どもを学校へ通わせるようになる」。そう仮説を立てた半田さんは、同僚の先生たちに学校調査の結果を示し、就学率向上のために生徒の親を対象にした識字教室の開催を訴えた。村に赴任してまだ2カ月程度、「外国人の提案を受け入れてくれるだろうか」と心配したが、一人の同僚が「自分もそう思う」と申し出てくれて、二人で夜間の識字教室を開くことになった。その教員は、村に小学校しかなかった時代に苦労して教員になった人で、教科書や教室の手配に奔走してくれた。

   女性や、廃止されたカースト制度で低い地位にいた人を優先的に学べるよう配慮すると、10代から50代の女性が集まった。重労働の疲れがある中、松明を手に暗く急な山道を歩いてきて熱心に学んだ。半田さんは学校での活動後、識字教室に行き、病気への対処法など生活改善に役立つ内容も教えた。

「1カ月もたつと、最初は恥ずかしがって小声で話していた女性たちが、顔を上げ、声が大きく、表情が明るくなって、互いに教え合ったりするようになりました。そのうちの一人から、『真っ暗だった心の中に光が差し込んだようだ』と言われ、素晴らしいことが起きていると感じました」

   半田さんは2年目からカトマンズの教育省に活動先を移し、教科書改訂や教員研修に当たることになっていた。トカルパ村を離れる日が近づくと、「識字教室を続けてほしい」との声が多く寄せられた。識字教室は村人と日本の有志の協力を得て教室数を増やして継続することができ、半田さんも週末、カトマンズから通って支援した。

   日本への帰国後には識字教室を継続できるよう活動先の校長に代表を務めてもらいNGO団体ディーヨ・フォーラムを立ち上げ、日本で教員として働きながら支援を続けてきた。

小口聡美さん
小口聡美さん

ネパール/コミュニティ開発/
2014年度1次隊・埼玉県出身

中学時代から国際協力と教育に関心があり「学校の先生になり協力隊に参加する」という夢を持つ。アメリカの大学院で平和教育を専攻し、カンボジアでのインターン、外資系企業勤務を経て、埼玉県さいたま市の英語教員に。5年後に現職教員特別参加制度を利用して協力隊へ。帰国後は復職し中学校に3年勤務後、さいたま市教育委員会へ異動し、英語カリキュラムの策定や国際理解教育などに従事している。

ごみ問題が起きていた古都で
子どもたちに分別や美化習慣を啓発

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小口さんは時には1時間以上歩いて学校を巡回し環境教育を行った。写真は新聞紙で作るエコなごみ箱の作り方を教えた時の一枚

   2014年にコミュニティ開発隊員の小口聡美さんが配属されたキルティプール市は、ネワール族(※)の文化と伝統が残る静かな街だが、カトマンズのベッドタウンとして人口が増え、ごみ問題が深刻化していた。廃棄物は収集車が回収して約30㎞離れた埋め立て処分場に運ぶが、市の予算不足から収集・運搬が追いつかず、ごみ削減が課題になっていた。

「ネパールでは過去のカースト制度による職業固定の名残もあって清掃は清掃業者が行うものとされ、また、多くの大人は自然分解される素材を使っていた時代の感覚のまま、プラスチックのポイ捨てにも抵抗がないようでした」

   小口さんは市役所の一般廃棄物管理課に所属し、教員経験を生かして市内の学校を対象に環境教育を行った。内容も、教員研修の実施や授業で取り上げてもらうなど、学校ごとの意欲や予算に合わせてアレンジした。ある学校では日本の廃棄物管理の事例を伝え、教員と協力して週1回の清掃時間を設定。美化委員会を立ち上げて校内の美化チェックやごみ箱設置による分別管理を行うよう促し、清掃活動が定着するよう頻繁に学校に通い見守った。朝礼で清掃や分別を呼びかけ、放課後には生徒たちと一緒に教室を回ってチェックをし、記録を残した。さらに優秀なクラスを表彰し、分別したごみを資源として売却した。

「特に低学年の子どもたちの変化は大きなものがありました。『学校がきれいだと気持ちいい』『ごみを片づけたら遊具が使えるようになって嬉しい』と感じてくれて、ポイ捨てしている子がいたら注意し、分別も行うようになりました。さらに町で児童の親から家庭でもごみの捨て方を話していると聞いて、幼い時期での習慣形成が重要だと感じました」

   活動に手応えを感じる一方で、やり場のない思いを抱えることもあった。時間が守られないことや決まったことが実施されないことがたびたびあり、ストレスとなった。ある時、教員向け研修を行う予定で準備をして待っていたが誰も現れなかった。窓口となった先生は「いい研修だね」と参加者集めを確約していたが実際は誰にも伝えておらず、小口さんは裏切られた気持ちになった。日本での研修経験があり協力隊にも理解のあるカウンターパートに相談すると、「ネパールだから仕方ないよ」と言われた。

「日本のように予定どおりにはいかないという慰めだったのでしょうが、その時の私は同僚たちの何かに取り組もうとする意欲の低さと捉え、いら立ち、悲しくなりました」

   15年4月25日、ネパールはゴルカ郡(カトマンズより西へ約80㎞)を震源とする大地震に見舞われた。キルティプールでも歴史的な建造物が多数倒壊。多くの犠牲者が出て、電気も水道も物流も止まり、小口さんも不安のただ中にいた。自分や家族のことで精いっぱいになってもおかしくない状況の中、人々は「なんとかなるよ、大丈夫」と不足しているお茶や食事を惜しげもなく出してくれ、避難場所まで気にかけてくれた。知人だけでなく、見知らぬ人も同様だった。小口さんが地域の学校で活動し、伝統的な祭りに参加する姿を覚えてくれていたのだ。

「それまでイライラさせられてきた、楽観的でいいかげんさもある彼らの性格ですが、被災時にはそれに救われました」

   どんな時も人を思いやるネパールの人々のゆとりある生き方に小口さんが引かれていく転機になった。


※ネワール族…カトマンズ盆地を中心に古代から暮らしてきた先住民族。独特の都市文明を築き、建築や宗教、言語などの文化を発展させてきた。現在、ネパール国内で6番目に人口の多い民族とされている。

川尻 渚さん
川尻 渚さん

ネパール/果樹栽培/
2024年度1次隊・埼玉県出身

幼少期に国際協力に興味を持ち、高校時代はフィリピンのセブ島を支援する学生NGOで活動。JICA海外協力隊を目指し、JICAとの連携派遣協定を結んでいる拓殖大学の国際学部国際学科農業総合コースに進学。卒業がコロナ禍に重なったため、1年余り飲食業で働く。ネパールへの派遣が決まった後、和歌山県海南市の伝統的な蔵出しミカンがある地域で1年間、栽培から保存方法までを学んだ。

ミカン栽培のノウハウをYouTubeで公開し
日本の技術を応用した保存実験を実施

派遣国の横顔
川尻さんの活動の柱の一つとなるミカン収穫後の保存方法について、現地の農家の人の協力を得ながら実験している

   2024年8月から派遣されている川尻 渚さんは、ネパール中部のプタリバザール市役所農業開発課で農家への技術支援を行っている。同市はミカンの名産地。川尻さんは果樹栽培隊員としての派遣が決まった後、1年間、和歌山県海南市でミカン作りについて学んでから赴任した。

   ネパールでは農業が主産業だが、それだけでは生計が成り立たず、家族を支えるため多くの人が海外に出稼ぎに行く。川尻さんの配属先へ相談に来るのは、帰国して農業を再開した人や、海外からの送金以外の収入を増やそうとミカン栽培を始めた人が多い。活動していて気づいたのが、自己流の作業で栽培がうまくいかない農家がいたり、農薬や肥料を使うにもパッケージにある説明文を読んで理解することができない人も少なくないことだった。

   遠方から相談に訪れる農家も多いが、人手不足で十分に対応できず、門前払いされる例も出ていた。同期の果樹栽培隊員の配属先である園芸開発センターにも気候や環境に合った知識や技術を持った専門家がいるものの、それらを本来必要とする農家に情報が届いていない。

「私たち協力隊員が間に入って技術者と農家をつなぎ、帰国後も残るような活動をしたいと思い、SNSで見てもらう動画作成を始めました」

   ネパールでもスマートフォンが普及して生活の一部となっているため、動画共有サイトのYouTubeなどに投稿すれば見てもらいやすい。動画ではカウンターパートらにミカンの接木方法などについてネパール語で説明してもらい、監修者としてクレジットも入れた。あえて字幕をつけずに目と耳から情報を伝えることで読解が苦手な農家に直感的に理解してもらえるようにした。ミカンに限らず、ブドウの品質向上や高級食材として人気が出てきたシイタケの原木栽培方法など、農家からの要望の多いテーマの動画も作成して投稿している。

「周囲の農家の人たちから、『次回はこの問題を動画にしてほしい。一緒に畑に来てくれ』と言われることが増えました」

   これまで作成した動画は12本。任期満了となる今年8月までに1本でも多くの動画を作成して残したいと考えている。

   現在、もう一つ取り組んでいるのがミカンの保存実験だ。プタリバザール市では、ミカンを長期保存し収穫期以外の時期にも販売したいと市内に大きな冷蔵庫を導入したが、実際にミカンを保管したところ、すべてが腐敗し廃棄となる問題が起きた。その原因を探り、再発を防ぐための実験だ。派遣前に学んだ和歌山の「蔵出しミカン」(完熟ミカンを土壁の貯蔵庫で保存・熟成させる)の方法を応用した。

   市内のミカン農園のサポートを得て大型冷蔵庫や実験用ミカンを提供してもらい、実験用ミカンの収穫や作業は農業分野の隊員たちに手伝ってもらった。保存結果を比較するため、重曹による防カビ・防腐処理の方法や保存箱の素材などサンプルの条件をさまざまに設定した。川尻さんは2週間に一度、保存状況を見にいき、保存開始から3カ月後の今年3月に結果を調べる。どのような結果が出るのか予測はつかないが、報告書にまとめて配属先に残すつもりだ。

活動の舞台裏

人々の絆を深める祭りと踊り

   多民族、多宗教のネパールにはたくさんの祭りがあり、家族や親戚、友人と過ごす。ネパール最大の祭りであるダサインでは約15日間の期間中、職場や学校が休みになり、人々は全国から帰省して集まる。

   キルティプールで伝統的なダンスを習った小口聡美さんは、ダンスの背景にある祭りや文化について教えてくれた教室の仲間が、何でも話せる大切な友人になった。年に一度のキルティプールジャトラという祭りでは集落でも有名な踊り手であるカウンターパートの父親に誘われ、山車と共に集落を踊り歩いた。「『ダンス良かったね、自分も昔習っていたんだよ』と人々が話しかけてくれて、集落での人間関係が広がっていきました」。

   ティハール(光の祭り)が自分にとって印象的だったと語るのは飯塚健一郎さん。「家の内外にろうそくをともし、バイティカという儀式で女性が男性のおでこに印をつけます。その儀式を経た後、私はホームステイ先の家族の一員として受け入れられ、今まで入れなかった台所で一緒に食事をするようになりました。精神的なつながりを大切にする人々なのです」。

派遣国の横顔
ティハールが行われている期間は街中にも多くのろうそくがともる
派遣国の横顔
伝統的な衣装を身にまとって踊る小口さん

Text=工藤美和 写真提供=ご協力いただいた各位