日系/ドミニカ共和国/
コミュニティ開発/
2016年度1次隊・山口県出身
小学校から大学までハンドボールに打ち込む。高校の体育教員になるも指導の行き詰まりを感じ、ハンドボールの本場・スペインで語学留学と選手活動を経験。帰国後、中学校教員として働く中で海外での教育・文化継承に関心を持ち、日系社会青年ボランティアに応募。帰国後はJICA中南米部に3年余り勤務した後、犬猫の高度医療を専門とする動物病院で経営企画などに携わる。
藤井寛之さんがドミニカ共和国の首都サントドミンゴの日系人協会に赴任したのは、同国への日本人の移住開始から60年たった2016年。協会は日本語学校の運営や入植記念式典、文化行事などを通じて国内の日系人の結束を図り、日本語・日本文化を次世代に伝えることなどを主目的としていた。ただ、協会の運営は70代後半を中心とする1世が主体で、将来を見据えた担い手育成が課題だった。行事のたびに遠くの移住地からも泊まりがけの参加者が来るほど結束のある日系社会だが、仕事などを理由に40~50代の2世の関わりが減りつつあり、藤井さんには協会業務の支援に加え、日系行事への2世の参画推進が期待された。
赴任当初、コミュニティ開発という職種名が理解されづらいと感じた藤井さんは、日本語学校の体育授業や高齢者向けの健康教室を担当して「先生」という立場をつくり、1世のほか、日本語学校に通う3世、その保護者の2世など各世代と自然に交流。すると、2世が日系社会から遠のいていたのは1世との価値観の違いに理由があると分かってきた。
「こうすれば行事を早く実施でき、楽しくなるのでは」と改善案を出す2世に対し、移住者として日系社会を支えてきた経験から貢献度や実績を重視する1世は、これまでのやり方や移住当時から受け継がれてきた慣習を大切にしていた。
「平行線だと感じました。それぞれの価値観の違いを否定せず、思いが重なる部分を探したい。まず1世の本音を知ろうと地方の移住地などに通うようになりました」
同国への日本人移住では1956年から3年で249家族1,319人が入植したが、政変や過酷な自然環境などから農業による定住は困難を極めた。開拓精神と日本人としての誇りを保ちながら、東洋野菜の普及などドミニカ共和国社会に貢献したものの、後には移住地での農業経営が難しくなり、都市部で農業以外の仕事に就く決断をする人も増えた。
「1世が大切にしてきた歴史と誇り、思いを知り、それらを尊重しながら、2世にもより関わりやすい形を作る必要があると感じました。そのために1世と2世が共に愛情を注ぐ孫・子どもであり、日系社会の未来を担う3世の子たちを中心として協力をお願いできないかと考えました」
任期1年目の終盤、藤井さんは日本語学校で米作りと日本食の課外授業を企画。1世の農地で田植えや稲刈りをし、育てた米や梅干しを使ったおにぎり作りを通じて、移住の歴史を学ぶ内容だ。当時の協会副会長で篤農家の日高武昭さんに協力を仰ぐと、わざわざ馬を借りて水田の代掻きをし、苗も育てて日本式の田植えができるよう用意してくれた。授業には保護者である2世や、それまで行事の準備や運営に関わる機会の少なかった非日系人配偶者らも含めて約80人が集まった。3世に田植えを教える1世の姿を見て、2世も自然に水田に入り手伝った。授業後、日高さんは藤井さんに「ずっと子どもたちに日本の農業を伝えたかったけれど、できなかった。そのことに気付いてくれてありがとう」と涙ながらに思いを吐露したという。
この日を境に、藤井さんは「日系社会のことを真剣に考えてくれる人」と認知され、他方で2世に対する1世の雰囲気も変わってきた。藤井さんは、今度は2世の本音を聞く場を設けようと、以前行っていたバレーボールを再開したいという2世男性と「おやじの会」を結成。活動許可を協会から取り、毎週練習で集まった。
1世・2世双方の要望を聞いて協会と調整することを重ねていき、任期2年目には首都で初の日系バレーボール大会を開催。全世代120人以上が参加して盛り上がり、日系社会に新しい風が吹き始めた。卓球部も立ち上げたほか、盆踊りの練習には非日系の配偶者も参加するようになり、新たに七夕祭りも始めるなど行事をアップデート。世代や性別などの垣根を越えて集まる催しが増えていった。
2世たちの活動を定着させてほしいという協会の要望から、藤井さんは任期を延長。2回目のバレーボール大会では広告費を集め、協会やJICAからの予算に頼らない自主運営を実施した。任期終了後にはバレーボールや卓球の活動から新チームが誕生し、中南米日系社会で2年ごとに開催されるスポーツ大会「Confraternidad Deportiva Internacional Nikkei」にも参加した。藤井さんの活動は、現地の日系社会が再びつながり、世代や地域を越えた新たな交流を広げる確かな足掛かりになった。
日系/ブラジル/
コミュニティ開発/
2024年度1次隊・千葉県出身
大学卒業後、お茶の小売りメーカーに就職。日本茶検定を取得し、販売促進イベントの企画などの経験を積む。海外での買い付け業務を希望していたがコロナ禍で機会を得られず、広告代理店に転職。海外で仕事をしたいと考えていた時に協力隊の要請書でお茶を生かした観光開発を行うという内容を見て、お茶の知識と経験を生かしたいと応募した。
日本人のブラジル移住は1908年から始まり、農業・工業移住を通じて現在約270万人という世界最大の日系人コミュニティが形成されている。西岡里佳子さんはコミュニティ開発隊員として2024年からサンパウロ州南部のレジストロ市に赴任し、レジストロ日伯文化協会で地域のエコツアー開発とお茶の商品開発を行った。
同市とその周辺はブラジルで最初期の日系移住地として知られ、1913年から日本人が原生林を開拓して造り上げた町である。市内ハポーザ地区の山間には築100年以上の家屋が保存され、畳を作るためのイグサ加工場、日系人が建てたコミュニティ会館など日系移住の歴史や文化を感じられる場所も残る。また、同市を含むリベイラ川流域はブラジル政府から環境保護地域に指定されており、かつて同地で栄えた紅茶産業はコスト高や為替の問題から衰退したが、残った生産者がヤシやレモンの木とチャノキを混植して行うアグロフォレストリーで注目される。配属先は、ハポーザ地区の茶栽培や地域の自然に触れつつ移民史も学ぶことのできるエコツーリズムの企画を進めてきた。
日本でお茶に関わる仕事を経験した西岡さんは、そうした背景に興味を持ち、特産品を生かした観光開発をするという要請に応募して派遣されることとなった。着任すると「日本人が来たよ」と配属先に家族のように温かく迎えられ、先輩隊員が築いた人脈を基に、旅行会社や市観光協議会と連携し活動を始めた。
歴史が古い移住地の場合、戦前移住者の子孫が6世、7世になる一方、戦後に移住した1世も健在だ。さらに市内は非日系の住民も増え、ハポーザ地区にもある日系文化協会の会長や役員を非日系人が務めるようになるなど、関係者の世代やバックグラウンドは多種多様。日系人の団体から地域コミュニティ全体の団体へと変容しつつある。赴任後半年から1年は、地域の人々と信頼関係を築くための交流とフィールド調査に費やした西岡さん。特に観光開発には地域の協力が不可欠なので、カウンターパートで観光の熱心な推進役である80代の日系人とハポーザ地区に通った。
「日系の方たちは個人によって温度差はあっても『頑張ってみよう』と賛成してくれるのですが、非日系の方たちの協力を得るまでには時間がかかりました」
例えば、ツアーの一環で日本文化体験として流しそうめんを提案したところ、普段は自然に日系の文化行事に参加している非日系の人たちだが、「本当にそんなことがやれるの?私たちはできない」と言いだした。「自分たちが全く知らない日本の行事をやろうと言われて困惑したようでした」。
それでも西岡さんは根気強く話し合いを重ね、パイロットツアー実施にこぎ着けた。ツアーに否定的な非日系の人たちには「見守るだけでいいから」と同行してもらった。パイロットツアーには、ルーツである日本の文化を知りたいという日本語学校の生徒と保護者、民謡の会の人たち40人ほどを招いた。流しそうめんはもちろん、農村体験やハポーザ地区巡りも非常に楽しんで帰った。「その成功を見て、非日系の人たちも『できるんだ』と分かってくれ、その後はとても協力的になりました。最初の実績をつくるまでが大変でした」。
西岡さんは念願だったお茶の商品開発も進めた。数少ない日系のお茶農家と協力し、アグロフォレストリーの手法で栽培した茶葉を使い、日本の製法を参考にした釜炒り茶作りに挑戦した。釜炒り茶は、煎茶を作る蒸し製法に比べ技術習得が容易で味が安定しやすいことから導入した。
「完成したお茶は、ほうじ茶を思わせる香ばしい風味が特徴です。日系人にはどこか懐かしく、非日系ブラジル人にも親しみやすい味わいです」
日本語学校や地域のイベントでは日本文化の一環として急須を使ったお茶の入れ方を紹介した。「日本式の入れ方を知らない人が多く、やかんに茶葉を入れて沸かしていたので、伝統的なやり方のお茶を味わってもらいました」。非日系人には、暑い気候に合わせてアイスティーにし、地元産のレモンや蜂蜜も加えて提供すると好評だった。地域のイベントや日系社会の行事などで販売し、収益を地域活動に還元する仕組みも残した。西岡さんは派遣前までブラジルにこれほどの日系社会が息づいている実感がなく、行ってみて驚いた。任地での2年間を経て、今度は日本に暮らすブラジル人コミュニティを訪ね、新たな交流を始めたいと考えている。
ブラジルでは、南米最大級のアニメフェスティバル「Anime Friends」が毎年開催され20万人以上を集めるのをはじめ、J-POPやゲームなど日本のポップカルチャーが人気だ。近年は日系の若者たちがSNSなどで日本のポップカルチャーに触れ、それらを取り入れたイベントを企画・運営するなど日本文化の発信役として存在感を高めている。
こうした日本文化への関心は、日系人に限られたものではない。西岡里佳子さんが日系人の少ない北部の都市レシフェで日伯文化協会を訪ねると、非日系人の若者が日本語学校に通い、教師としても活動し、イベントを行っていた。
「彼らは日本文化を純粋に“好きなカルチャー”として楽しんでいて、J-POPとK-POPを区別せず、タイなども含めたアジアの音楽やアニメをまとめて好きなんだなという印象でした」
『鬼滅の刃』などのアニメ作品やJ-POPをきっかけに日本語を学び始める人も増えている。「ONE OK ROCKやAdoなど日本のアーティストがブラジルで公演した時は、日系ではない若者が多数来場していて、流ちょうな日本語を話すので驚きました」
他方、活動の中では日系社会の役職者と仕事をする機会の多かった西岡さんは、同世代とのつながりを見つけることに少し苦労したという。「そこで文化協会の青年会に参加して、太鼓や三味線を教わりました。むしろ皆さんのほうが日本文化に詳しくて、逆に教えてもらいながら仲良くなりました」と振り返る。こうした若い世代の活動は、日系・非日系の枠を超えて日本文化を愛する多様な人々をつなぎ、ブラジル社会に新しい交流の場を生み出している。
Text=工藤美和 写真提供=藤井寛之さん、西岡里佳子さん、中村佑麻さん