杢尾 雪絵(もくお ゆきえ)さん シニア海外ボランティア

セカンドライフとしての選択。剣道七段の腕を活かして、シニア海外ボランティアへ。

協力隊参加前は、日本で建築事務所に勤務していた杢尾さん。
海外での経験は帰国後のキャリアアップにも繋がるだろうと、青年海外協力隊に参加することを決意し、
1987年に都市計画の協力隊員としてフィジーへ赴任しました。
しかしフィジーで目にした社会問題や国際開発に問題意識を持った彼女は、国際協力の道へ足を踏み出すことに。
一から学び直す道を選び、今はユニセフのキルギス代表として様々な問題を解決すべく奔走しています。
協力隊に参加するきっかけとは、そして、今の仕事につくまでの心境の変化とは。
女性として母として、世界の一線で働く彼女の過去と今を追います。

都市再開発計画の仕事に打ち込んでいた20代。偶然の出会いが、私と国際協力を繋げてくれました。

国際協力に関心が薄かった私に、協力隊の存在を教えてくれたのは、大学卒業後に勤務していた建築事務所。スタッフが協力隊訓練所の建築コンペに参加する機会があり、青年海外協力隊の資料を手にしたことがきっかけでした。就職して、4年目のことです。

当時は仕事の知識や技術が徐々に身についてきた頃で、都市再開発計画の業務にもやりがいを感じていました。将来も都市計画の専門家として働くつもりでいたのですが、当時は女性というだけでクライアントに頼りなく思われることもあり、少し壁にぶち当たっていたことも事実。そんな時に協力隊のことを知り「自分の持っている知識を活かして技術協力をしつつ、海外で経験を積んで戻ってくれば、今後のキャリアアップに繋がるかもしれない」と思ったのです。

決めたら迷わないタイプの私はすぐに応募し、都市計画隊員としてフィジーに赴任することに。都市開発省・都市計画局に配属され、都市部の開発調査や企画、環境問題に関する調査などをすることになりました。

現状調査を担当した場所のひとつに、首都であるスバ郊外のラミ(Lami)町がありました。観光地のイメージが強いフィジーですが、観光資源の少ない首都はあまり観光客が足を運ばないエリアです。首都にも関わらず廃棄物処理施設が整っておらず、広場にゴミが山積みに捨てられているような状態でした。そのほかにも、農村から都市部に出てきて住むところがないといったホームレス世帯の住居問題を通して、この国が抱える経済格差や地域間格差にも直面しました。

また私が赴任した1987年は、総選挙でインド系の勢力が強まり、危機感を覚えたフィジー軍が1970年の建国以来、初めてクーデターを起こした年でした。フィジーは複合民族社会で、先住民族のフィジー人とインド人の割合が半々の国。クーデター直後の12月に赴任したこともあり、「こういう世界もあるのか」と様々な現実を肌で感じ、さらに現地でいろいろな人の話を聞いているうちに、もともと持っていたフィジーのイメージとは違う実態が見えてきました。

言語の壁により、活動が思うようにいかないときもフィジーの持つ寛容さが、私の気持ちを楽にしてくれました。

フィジーの抱える問題を一つひとつ把握しながら、なんとか解決に向けて動きたいと思う中で、私の前に立ちはだかったのは言語の壁でした。都市計画の仕事は看護師や自動車整備士のような技術職と違い、読み、書き、交渉がメインです。公用語は英語ですが、フィジー人やインド人の他に同僚にはオーストラリア人もいましたし、日本人が学校で習うアメリカ英語とは違ってみんな訛りが強い。そのような事情もあり、赴任して半年くらいまでは、現地の人々が何を言っているのかほとんどわかりませんでした。現地調査の結果を書類にまとめて提出することはできても、口頭で交渉をすることが難しく、それがずっと歯がゆかったのを覚えています。

しかしある時、気付いたのです。「私の英語力の低さを気にしている人は誰もいない」と。「英語ができないから、この人に仕事はさせられない」という雰囲気が皆無なのです。それほど、フィジー人もインド人も非常に寛容で楽観的。それに加えて、フィジーには様々な人種の方が住んでいます。中国、アメリカ、そしてヨーロッパ。それぞれがまったく違うアクセントで英語を話すため、少し発音が変わっていても誰も気にしません。自分の英語の発音を気にするのは日本人の特徴かもしれないとその時に思いました。このように、フィジーに身を置くことは、多方面から母国を省みるきっかけにもなったのです。

例えば、私が日本にいた時は、締め切りに追われて徹夜をするなど、かなりのスピード感の中で仕事をしていました。フィジーでも、日本と同じペースで活動が進まないと「こんなことではいけない」と焦燥感を感じることがあったのですが、そんな私を咎めるフィジー人はいませんでした。そのようなフィジー人の寛容さに救われて気持ちが楽になり、より一層活動に打ち込めるようにもなりました。

写真上:イシククル地方学校訪問/写真下:カラコル市内の学校訪問

JPO※1の選考の際に活きた、フィジーでの経験。当時培った精神力も、今の仕事に活きています。

フィジーに行く前は「経験を積んだら帰国し、元いた会社に戻って仕事をしよう」と考えていました。しかしいざ任期終了が近づくと、自分の知識のなさ、語学力の低さのために、目の前で起こっている社会問題を解決に導けなかったことが心残りに思えてきたのです。もう少し貢献できることがあるのではないかと思い、国際開発の先進国である欧米の大学院に進学し、一から勉強し直して見識を深めようと決断しました。

任期終了後は帰国して、留学の準備をする毎日。そんな時、国連ボランティア募集の知らせを聞き、「数ヶ月であればいい経験になるかもしれない」と、イラクとトルコの国境にある難民キャンプへ行くことにしたのです。そこでの仕事は、湾岸戦争によりサダム・フセイン政権に締め出されたクルド人を、イラクに帰還させるためのサポートでした。難民キャンプでは多くの人の実情を目の当たりにし、国際支援の難しさも実感しましたが、実践的な活動は貴重な経験となりました。

修士号取得後は、社会的弱者を守る役割を担うユニセフで働きたい気持ちが強くなっていたため、JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)としてユニセフ勤務を希望。その選考の際には、協力隊での実践経験が高く評価されたと思います。ユニセフで仕事を始めてからも、協力隊経験を通じて養った順応性や柔軟性が役立ちました。些細なことでは萎縮しないたくましさが、きっと身についていたのでしょう。

ジャララバード市内の青少年センターで、青少年育成事業に参加する若者たちと

そのままユニセフの正規職員になり、コソボ、モンテネグロの事務所長、タジキスタン、ウクライナの代表を経て、現在はキルギスの代表として子どもの権利を守る活動しています。国の発展に貢献できる青少年育成のための活動をしたり、すべての子どもが平等に教育や福祉を受けられるように政府に提言をしたり、というのが具体的な仕事内容です。さらに社会孤児対策や家庭内暴力・校内暴力による被害者支援まで、仕事の内容は多岐に渡ります。

今、世界情勢は混沌としています。私が派遣されてきた国々でも紛争が行われていました。それだけ世の中には、政情の不安定な国が多いということです。そしてその裏には、貧困や経済格差があります。子どもが貧困下で教育を受けずに育つと、安定した職に就くことが難しくなり、また次の世代に貧困が受け継がれてしまう。「そんな負の連鎖を断ち切るために、子どもたちの置かれている環境を整えなければ」という思いに突き動かされ、ユニセフで仕事を始めて20年が経ちます。

※1 JPO(Junior Professional Officer)
国際公務員を志望する日本の若者に国際機関での勤務の機会を与えることにより、国際公務員に必要とされる経験と 知見を養うことを目的として、日本政府の費用負担により最長2年間国際機関に派遣される 非正規の専門職員

妻として、母として、ユニセフ職員として。大変ですが、キャリアと家庭の両立は十分可能です。

ウクライナの代表を勤めていた頃のこと。施設に送られるたくさんの子どもをなんとかしたいという思いで、当時の副首相にお会いしたことがありました。中所得国で、開発も進んでいて、国連機関の重みがあまりない国だったのですが、副首相は私に「子どものことに関してはまったくわからないから、どういう政策にしたらいいか案を持ってきてくれ」と言ってくれたのです。そこから1年かけて、私は副首相と一緒にウクライナの児童福祉政策を作りました。それが完成し、副首相が言ってくれたのは「あなたのおかげで、子どもの権利についてよくわかった」ということ。政策作りの過程で社会問題に気づいた彼は、自らファミリーホーム(経験豊かな養育者が子どもを迎え入れて養育する住居)を立ち上げたそうです。それを聞いた時は、本当に嬉しかったですね。

このウクライナでの出来事は、娘を出産して現場に復帰した後の話です。私は45歳で結婚し、幸運にも47歳で子どもを授かることができました。夫の協力のもと、出産経験を経て、今まで知らなかったことをたくさん学ばせてもらったと思っています。女性だと出産するかキャリアを積むかで悩む方も多いかもしれませんが、出産によって少しくらい遅れを取っても、長い目で見ればマイナスにはなりません。むしろ家庭を築くことによるプラスのことの方が多いので、キャリア確立だけに焦点を絞る必要はないと思います。

また国際協力の分野では「女性だから」「男性だから」という差別はありません。だから、社会進出したい女性にとっての可能性は無限。その一方で、家庭でも従来の男女別役割を超えた共同生活をしていくことが大切です。勤務地も数年で移動しますし、それなりの覚悟も必要でしょう。しかしパートナーとお互いに理解と寛容性を持って取り組めば、育児とキャリアの両立は十分可能です。

私にとっては、平和からはまだほど遠いこの地球で、少しでも世の中の不平等や不公平を減らすために貢献しているという気持ちがこの仕事のやりがいになっています。そう思えるようになったのも、協力隊経験があったから。協力隊は今の私の原点です。協力隊にチャレンジする方には、現地の人との協働の中で、また自分と向き合う時間の中で、多くのことを感じ、新しい自分を見つけてくれたらと思います。

写真上:ユニセフの子どもの権利啓蒙活動イベントに親子で参加/写真:2015年のお正月の家族写真。休暇中は仕事を離れて家族との時間を大切に
世界は広い。一歩踏み出すことで見える未来もあります。

JICAボランティアで得たもの

今の仕事につながる気づきと世界への扉

美しく平和な南の島の観光地、フィジー。その裏にある経済格差などの社会問題を目の当たりにし、国際協力の道で生きていこうと思うきっかけを得ました。またフィジーの人々の寛容さに触れ「英語ができない」などの劣等感を消してもらったことで、自信を持っていい仕事をしようと前向きな気持ちになれたことにも感謝しています。

差別のない世の中になってほしい、というのが今の私の願いです。フィジーに行くまでは、世の中にどんな差別がどれくらいあるのか知りませんでした。「自分の持っている技術をフィジーで活かすんだ」と、一方的に何かを教えるつもりで旅立った私に、フィジーは多くのことを教えてくれたのです。

一歩踏み出すことで、必ず、次の扉は開きます

世界は広いです。日本にいては到底知りえない顔もたくさん持っています。
私は「石橋が壊れていても渡るタイプ」ですが、次の扉を慎重に迷う方もいらっしゃると思います。でも一歩踏み出すことで、新たな扉は自然と開くはずです。少なくとも、私はそうでした。その次に何があるか、あらかじめ知っていて何かをしてきたというより「とりあえずやってみる」。それで、新しい世界に出会ってきました。今キルギスで協力隊の方とお話をする機会もありますが、皆さん、とても頑張っていらっしゃいます。若い方々が、そうして自分と向き合いながら、世界をもっとよい方向に導いて行ってくれたら嬉しいです。

UNICEF Kyrgyzstan

[2015年11月掲載]