Special Interview! 小川 登志夫(おがわ としお)さん 青年海外協力隊

青年海外協力隊事務局長としてJICAのボランティア事業を取り仕切る小川さんに、これまでの歩みと、隊員OBの事務局長としての事業展望を聞きました

牛が大好きで、日本で酪農家になる前に海外で牛を飼ってみたい、
と青年海外協力隊に応募し、大学卒業直後にガーナに向かった小川さん。
帰国後にたまたまJICAの仕事に関わったことをきっかけに、進路が大きく変わります。
現在、青年海外協力隊事務局長(※)としてJICAのボランティア事業を取り仕切る小川さんに、
これまでの歩みと、隊員OBの事務局長(※)としての事業展望を聞きました。

都会嫌いな東京っ子、牛と出会う。

子どもの頃は学校が休みになるたび、母方の田舎の秋田で野山を駆け回っていました。牛の良さに目覚めたのは、中学生のとき。親戚の酪農家のところで見た牛がすごく可愛くて、好きになりました。 高校進学を考えたとき、生まれ育った都会が嫌いだから東京を出たいと思ったんです。それには全寮制の高校に行くしかなく、なおかつ牛の勉強もしたかったので、全寮制の普通科で牛を飼える学校を探して山形の高校に。「畜産部」の部活で牛を飼い、将来は北海道で酪農家になりたいと思うようになりました。なぜ北海道かって?やっぱり憧れがあるじゃない、広い大地と青い空と白樺って。 酪農家になるのに大学の勉強は必要ないと思ったけれど、親に頼まれて大学に進学。北海道で酪農の実学を学べる酪農学園大学の研究室で牛と羊を飼い、近所の酪農家で朝晩搾乳のバイトをしました。毎朝5時に起き、一通り乳搾りが終わってから大学に行く毎日。研究とバイト以外は、山形で鍛えたスキーぐらい。雪の匂いを嗅ぐとわくわくして、とにかく山に行こうよって、車にスキー板を乗せて出かけたものでした。

協力隊は入植前のワンステップ

卒業したらすぐ入植するつもりでしたから、周りが就職活動や大学院進学の準備をする中、僕は入植の相談をしに農協に行きました。離農で空いた土地と牛舎を譲り受ける方法を聞いたら、融資や補助もあるけれど、まずは自己資金が500万円ないと無理だと。ハードルが高いなと思っていたら、研究室の友達に、自分は大学院に行ってから青年海外協力隊に行く、お前も協力隊に行ったらいいんじゃないかと言われました。協力隊を知ったのはそのときです。

最近は、開発を勉強してNGOや大学の活動で途上国に行き、次は協力隊で途上国の開発のために何かしたいと協力隊に応募する人が多いけれど、僕は違いました。協力隊に参加すると帰国後の活動資金としてある程度のお金が貯まる制度があります。海外も見てみたいし、向こうの牛の飼育ができたらいい経験になる。加えてお金も貯まるのならこんなにいいことはないと思い、大学4年の秋、青年海外協力隊に「家畜飼育」という職種で応募し、合格しました。

大学卒業後、北海道の畜産試験場で技術補完研修を受けました。要請内容が「牛の人工授精」で、人工授精は免許があっても実務経験がないと難しいので、2ヶ月間の実務経験を積み、その後、昭和57年度3次隊候補生として訓練所に入りました。

100人ぐらいの同期が全員一緒に訓練を受け、最初は広尾訓練所の14人部屋。狭い部屋に二段ベッドが並んでいるだけの部屋で1ヶ月過ごし、残り2ヶ月ちょっとは駒ヶ根訓練所に。訓練が100日以上あった時代でした。語学訓練の英語はそれなりに大変だったけれど、あとは楽しかった思い出ばかりです。

協力隊員時代、任地の人たちと

畜産試験場の場長に

1983年1月にガーナに到着。とにかく蒸し暑かった!予定していた配属先に住居の空きがなく、もう一人の畜産隊員の任地に一緒に行くことに。居候みたいで、早く移りたかったですね。1年後に本来の任地、タクワに移りました。

タクワの畜産試験場に着いたらスタッフが一人もいなくて、僕が場長になっちゃった。いたのは羊飼いや大工などのワーカーだけ。毎朝出勤してきた彼らに、今日はなにやるぞって指示を出すのが僕の役目でした。

おかしかったのが、「牛の人工授精」の要請だったのに、配属先の試験場には羊しかいなかったこと。人工授精に不可欠な電気もありませんでした。今そういう話があると、要請内容と違うじゃないかとJICAが批判されるけど、要請と違っていても、やることは他にたくさんあるから、色々と工夫してやるのがボランティアだと思っていました。

タクワの町はほとんど停電だったのに、山の上の金山公社にはいつも電気が煌々と輝いていました。それなら金山から試験場に電気を引いてもらおうと思い、金山公社のトップの人に会いに行きました。よくこんな若造に会ってくれたなと思いますが、日本からボランティアで来たんだ、ガーナ政府の要請で来たけど電気がないのでここの電気を分けてもらえないか、と話したら、「わかった」って。すぐに電柱をポンポン立て始めて、一ヶ月ぐらいで電線が引かれました。何でもやってみるものだなと感動しましたね。

試験場の羊。ガーナでは放し飼いが基本

試験場の羊は乾季の栄養状態が悪かったので、乾季中の飼料を確保しようと日本から牧草の種を取り寄せて試験栽培をしたのですが、全然育たず大失敗。いくら乾燥に強い熱帯性の種子とはいえ、それなりに雨が降る日本の夏と、全く水のないガーナの乾季は違います。良く考えれば、水がなくても育つ草が現地にはあって、だから放し飼いの羊や牛も、よほどのことがない限り死なないわけです。日本の草を試す時間があったら、在来の草の収量を増やす、乾季用に調整して保管する、そういう工夫をすれば良かった。なんて無駄でバカなことをやったんだろうと反省しました。でも若いとそういう発想になるのかなと思います。インターネットはもちろんありませんが、電話も通じなくて、自分や周りの隊員の持っている情報だけで試行錯誤していました。

つらいことはあまりなくて、楽しかったですね。食べものもバナナとイモで別によかったし、日本食が食べたいともそんなに思いませんでした。水道もなくて井戸水を汲んでいました。でも、みんな朝早く汲むから、僕が起きる頃にはもう水が残っていなくて、泥水しかないの。その泥水をバケツに汲み、一日置いて泥を沈殿させて、上澄みを使っていました。当然風呂にも入れないから、バケツ半分ぐらいで水浴びをして、雨季になって夕方にスコールが降ると、外に出て洗いましたね。

世界で一番優しいガーナ人

週末に露天マーケットで買い物をして、両手にバナナやイモを持って歩いていたら、後ろから若い女性が来て、重たいでしょ、一つ持ってあげる、とパッと荷物を持ってくれました。絶対これは裏があるに違いないと思い、身構えながら一緒に歩いていたら、道が分かれるところで彼女が、私はこっち、じゃあね、と。ポンと荷物を返されました。なんて優しい人なんだろう!と感激しましたね。ガーナ人ってほんと優しいんですよ。裏のない優しさにすごく驚いたし、嬉しかったですね。世界中で一番優しいのはガーナ人だと僕は今でも思っています。

任地には外国人がほとんどいなかったから、みんなが声をかけてくれました。こどもたちは、「外人が、野菜を食べろと言ってるよ、ドンドンドン」っていう、こどもが外国人を見ると必ず歌う現地の歌でわいわいはやし立てられました。言葉は、仕事では英語を使っていて、チュイ語(現地の言葉)を近くの高校の先生に数か月ぐらい習い、街での買い物やおしゃべりができるようになりました。

セネガル協力隊派遣35周年記念式典でのスピーチ

帰国後は酪農家でなくケニアへ、そしてJICAへ

酪農家になりたい気持ちは帰国後も変わりませんでしたが、酪農の状況は悪くなっていました。政府が北海道の酪農の大規模化を急速に進めていて、機械化と大規模化には融資するけれど、それ以外の酪農家には融資をしない、つまり辞めていくしかない状態。小規模酪農家が切り捨てられる中で、新たに酪農を始めるのに躊躇していました。これからどうしようかなと思っていたとき、ガーナでお世話になったJICAの駐在員で、帰国して協力隊事務局にいた人に、事務局の仕事の手伝いを頼まれました。短期間ならいいですよと協力隊の募集と選考の仕事をして数ヶ月経った頃、今度はケニアのジョモケニヤッタ農工大学というJICAのプロジェクトの調整員(専門家)の話が来ました。数年規模の話になるし、今の妻とも付き合い始めていたから、さすがに迷いましたが、酪農もいいタイミングではないし、せっかくだからと引き受け、結婚して3年間ケニアに行きました。

ケニアから戻っても酪農の状況は変わりませんでした。通算5年以上アフリカにいて、自分がなにかできたとか、なにかを変えられたとは全然思わなかったけれど、それでも仕事を通して笑顔が増えていくというか、人が喜んでいる顔を見るとすごく嬉しくて、この仕事もいいなと思い、社会人採用を受けてJICAに入りました。でも、妻が酪農家になるのを嫌がったのが実は大きかった。もし妻が「いいね、酪農やろう!」と言っていたら、僕はここにいなかったね。

協力隊をこう変えたい

活動を始めたけど自分のやり方が通用しない、現場に受け入れられないと悩む協力隊員は多いと思います。そこがうまく行かないと、何のために来たのだろうと悩み続け、生活も楽しめず、輪が広がって行かない時期が続いてしまいます。

でもJICAには途上国の課題を解決するアプローチや、成功事例、失敗事例が山ほどあります。それを整理し、悩める隊員にタイムリーに提供すれば、「1年間かけて現地に馴染めばいいよ」と言っていたのが、半年で馴染めるかもしれず、そうすれば残りの1年半をより有効に使えるわけですよね。一人で四苦八苦して2年間努力するのもいいけれども、もっと早く立ち上げができて、その結果、より成果を出すことができたなら、本人の満足感にも次のキャリアパスにも繋がる経験になると思うのです。

そのため、2016年4月に青年海外協力隊事務局の体制を国別から課題別に変えました。課題面のアドバイスや過去の事例をいつでも提供できるようにするのが隊員にとってベストだと思い、それを進めてきたし、今も進めているというのが一番大きいですね。

もう一点、協力隊の応募者が減っているのは、参加しにくい部分があるからだと思っていて、もっと参加しやすいシンプルな制度にしたいのです。スピードが求められる時代に、派遣されるのは応募から1年後、1年半後、という制度は合っていません。参加したいタイミングで常時応募できて、直近の訓練に参加して出発という仕組みに変えていかないと、これからは厳しいと思っています。また、大学生を中心とした短期ボランティアを積極的に増やしています。短期ボランティアに行った大学生が長期の協力隊に応募することも増えていて、そういう機会を増やすことが大事だと思っています。

これから参加したい人、帰ってきた人へのメッセージ

これから協力隊に参加したい方へ

心配があってもまずはチャレンジしてください。海外で自分の視野を広げる経験をするには、NGOや留学など様々な機会があるので、自分に合う方法を選べばいいと思います。その中で、2年間の協力隊は長いと思うかもしれませんが、現地にどっぷりと浸かることで得られる経験は、その後の人生にとっても、かけがえのないものになります。是非、積極的に挑戦してほしいですね。

自分だけではなく、現地の人にも必ず何か残せる!まずはチャレンジ!
OB・OGの方へ

これができなかった、もっとこうしたら良かったというモヤモヤした気持ちを、ほとんどの隊員が持って帰って来ると思います。帰国後すぐにでも、5年後10年後でもいいので、その気持ちを取り出して振り返ってください。どうしてあのときああだったんだろう、あれができなかったんだろうと考えてください。

僕のガーナでの経験を紹介します。昼になると同僚がみんな帰ってしまいます。5時までいなきゃだめでしょうとうるさく言っているのになぜだろうと一緒について行ったら、河原や野原の一角に勝手に畑を作って農作業をしていました。理由を聞くと、彼らのお給料はびっくりするほど少なかったんですね。食料を自給し、生活の糧を稼がないと家族を養えないのです。公務員としての仕事時間を守ることより、家族をきちんと食べさせていく方が人間として大事です。なんてナンセンスなことを言っていたのかと後悔して、それからは、昼までの時間の中で何を変えていこうか、という活動をしたのだけど、やっぱりずっとモヤモヤしていて、帰国後もよく思い出し、あのとき本当はどうしたら良かったのかと考えていました。そして、畜産試験場の空き地を解放すればよかったと気づきました。勤務時間中も職場の横で畑作業ができて、急な事態にも対応できる。畑ももっと広く取れて農機具も使えるから、生活も豊かになりますよね。

こんな具合に、当時できなかったことを思い返し、何ができたのか考えるプロセスが大事。思い返して次に繋げていけば、どんな仕事をしていても発想の柔軟性を持って進んでいけると思います。いつだって問題や課題はあり、解決できないと思っても、なにかしらの突破口があるものです。

もう一つ、2年間で何を残したかとみんな考えるけれど、全く違う文化と環境の中で、人間関係もないところから始めて2年間で成果を出すのは、ものすごく大変なこと。とかく帰って来た瞬間に、できた、できない、と判断しがちですが、協力隊員は関わった人たちにいろんなものを残しています。例えば日本人は約束を守る、規則も守る、礼儀正しい、整理整頓もする。そういう基本的な日本人の道徳観や基本動作は日本が発展した原動力だと高く評価されています。本人はもういないから気づかないけれども、後ろ姿で残したものがたくさんあるのです。僕も出張に行くと、ミスターなんとかは元気か、うん十年前にここにいた日本人だ、彼にこうしてもらった、これを教わったって言われたりする。その人は自分の子どもや周りの人にもそういう話をしてくれているわけで、それってやろうと思ってもできない成果ですよね。

※役職は当時のもの
[2016年12月掲載]