富山県

自治体連携
【連携開始】 2015年7月
【派遣国】 ブラジル
【協力分野】 日本語教育
【派遣形態】 県教職員を1名ずつ11カ月間~1年8カ月間派遣
【累計派遣】 計2名(~2020年度)

明治43年に始まる県内出身者のブラジルへの移住以来、サンパウロ州と密接な交流活動を展開してきた富山県。JICAとの連携を担当する生活環境文化部 国際課の吉田徹課長とブラジルに派遣された中村健太郎氏にお話を伺った。

※文章内の制度名、派遣名称は派遣当時のものです。​

吉田 徹 氏

生活環境文化部国際課長

吉田 徹

県の親善事業にJICA連携制度を活用

昭和2年に本県出身移住者がサンパウロ州ミランドポリス市第三アリアンサ地区に入植し、通称「富山村」を建設しました。本県では、日伯親善事業の一環として、昭和53年度より同地区に教師を派遣し、本県出身者子弟に対し日本語及び日本語文化に関する教育を行うとともに、現地村民との交流推進を図ってきました。2015年度にJICA日系社会青年ボランティア(現JICA日系社会青年海外協力隊)事業の趣旨に賛同し、日本語指導教員の現地派遣にJICA連携制度を活用することとしました。派遣する教員は、県教育委員会を通じて各学校から募集し、県での面接選考の後、JICAへ推薦します。JICAによる派遣前訓練で、現地公用語のポルトガル語をはじめ、日本語教授法や海外協力活動の基礎、日系社会の歴史、安全管理等について派遣予定の教員がしっかりと学ぶことが出来るので、大変ありがたく感じています。また、派遣中もサンパウロのJICA事務所に邦人スタッフが常駐しているなど、現地の相談体制が整っており、頼りになると感じました。特に派遣した中村先生からは、現地でサソリに刺された際に、JICA事務所の医療スタッフに対応いただきありがたかったと聞いています。

JICA海外協力隊の経験を富山県民へ還元

  • 県内の高校生にブラジルでの活動を紹介する中村健太郎先生

  • 富山県教育委員会へ帰国表敬として活動報告を行う、帰国隊員

中村先生から、毎月、メールにて活動報告書と学校で配布している「アリアンサ日本語学校だより」を送ってもらい、毎月の活動状況や健康・生活の状況を確認するとともに必要に応じて教材等を現地に送っています。「アリアンサ日本語学校だより」は県のホームページや富山県南米協会が発行している広報誌にも掲載し、アリアンサ日本語学校の活動を広く紹介しています。県とサンパウロ州の友好提携周年時などの際には、県職員や県議会議員がアリアンサ日本語学校を訪問し、活動中の教員を激励しています。日本語指導教員の派遣については、第三アリアンサ地区における日本語及び日本文化に関する教育に貢献するとともに、帰国後は第三アリアンサ地区での経験を県内の学校現場で生徒たちに伝えることで、日系社会や異なる文化に対する理解の促進につながるものと期待しています。また、派遣した教員にはブラジル日系社会の歴史や移民の苦労、彼らの故郷に対する思い等も広く周知してもらいたいと思っています。JICA海外協力隊は、経験の教育現場への還元、本県の国際理解や多文化共生の推進に大きな役割を果たすなど、意義の大きいものと考えています。新型コロナウイルス感染拡大の影響で現在はブラジルへの協力隊員派遣が中断されていますが、派遣再開の見通しが立てば、引き続きJICAと連携し教員派遣を進めていきたいと思っています。

※このインタビューは2020年12月に行われたものです。

中村 健太郎 氏

中村 健太郎

派遣国
ブラジル
派遣職種
日本語教育

移住事業・日系社会を学ぶなら「JICA横浜」

高校時代の研修旅行で東京に行き、「JICA地球ひろば」を訪れた時にJICA海外協力隊を知りました。また、大学時代には、ザンビアへ柔道を教えに短期派遣された先輩もいて、協力隊への関心が高まりました。
その後、教員になり、授業や課外活動で多忙な日々を送る中、その実現はほぼ諦めていたのですが、ある日、富山県がJICA連携でブラジルへの教員現職派遣を公募していることを知り、かつての思いが蘇って応募しました。合宿形式で行われた派遣前訓練では、ポルトガル語の研修が役に立ったのは勿論のこと、ボランティアの意義というものを考えさせられる契機でした。また、訓練が行われたJICA横浜センターには移住資料館が併設されていて素晴らしい環境でした。ブラジル日系社会の歴史と現状を学び、それが今の日本人にどう関わっているのかを考えることができたことは、社会科の教員としても非常に有意義でした。

本当は苦労も多い現地での活動

派遣されたのは、ブラジルのサンパウロ州ミランドポリス郡第三アリアンサ地区の日本語学校。学校敷地内の倉庫を改修した建物が住居でした。市街地までは40km近く離れており、車がないと動けない地区で、自家用車を所持できない協力隊員は授業で必要な物も簡単に手に入れられません。常に誰かの手助けを必要とすることが大変でした。電気事情も良くなく、特に雨季は停電が多く、ネットもつながらず、停電の中授業をすることもありました。通常は独りで日本語学校の運営や授業を行っていたので、身近に相談できる人はいませんでした。近隣の学校に派遣されていた他の海外協力隊員や他の自治体から派遣されてきていた日本人達との会合や触れ合いが、大きな心の糧でした。
夜、サソリに刺された時のショックと恐怖は今でも忘れられない。深夜の出来事だったため、周囲に助けを求めることができず、自分で病院には行けません。JICA事務所の健康管理担当者に電話をして適切な指示をいただいたことで、気持ちがかなり落ち着いたことを覚えています。

地球の裏側にあるもうひとつの「富山」

かつて日本語学校には60名近くの子供たちがいたようですが、現在は高齢化や少子化で計8名しかいません。今後もその数が大きく伸びる可能性は低いと言われていますが、保護者や地域住民の方々の協力・サポートは手厚く、日本語学校に対する強い思いを村コミュニティが共有しています。日本語を教えられなかった時代もあり、それを乗り越え、日本語学校を作り、祖父母も父母も日本語学校で学んだという人が多くいます。日本から派遣される日本語教員は2年くらいで変わってしまうので、林間学校や日本語によるお話発表会等の学校行事は、保護者や地域の方々が積極的に協力・サポートしてくれています。第3アリアンサ地区は通称富山村と呼ばれ、富山県から教員が来て日本語を教え、富山県人会には富山にルーツを持つ人、仕事・研修で富山に行った経験のある日系人もおられ、富山弁を話す方もおられます。日本の地球の反対側で富山県を感じられたのは貴重な経験でした。
また、学校行事以外にも村の集まりが年に何度もありました。母の日、父の日、クリスマス、新年等々、皆で食事の用意をし、飾りつけをする。さらには、村の運営資金を集めるために、昼食会やうどん会を開いて他の地域から人を集め、お金を集めることもしていました。みんなで和気あいあい住民同士の繋がりを大切にしていこうということから始まったようでした。

帰国後の社会還元は「自然体」で

こうした体験から、帰国後は、自分も近所づきあいや町内会活動にもっと積極的に参加し、人とのつながりを大切にしていきたいと感じるようになりました。ブラジルのゆったりして互いを尊重し「今を楽しもう」という姿勢を秩序を大切にする日本の教育にも取り入れたいとは思うものの、実際には難しいとも感じます。生徒にとっても、自分が担当するクラスや授業の時だけ「ブラジル・スタイル」になることには戸惑いがあるはずです。ただ、私自身の中ではモノの見方が確かに変わったと思うので、それが自然に出て、結果的に幾許かでも周囲に影響を与えられれば良いかなと思っているところです。
大上段に振りかぶった国際理解教育でなくても、日ごろの授業を通じて自身の経験を生徒に伝えることもできると思います。富山市立山室中学校において今の私が担当している社会科の授業では、南アメリカ州や民族の話が出て来るし、中学二年の歴史では移民の話もテーマとなります。そうした機会に今回の実体験から、ブラジルと日本との関わり、日系移民の歴史や現在の状況、日本との違い、そして、富山県との関りなどを伝えていければと思っています。

※このインタビューは2020年12月に行われたものです。