
ニカラグア経済・社会面で各種の課題を抱える低中所得国
女性のエンパワーメントなどに隊員が貢献
| 面積 | 130,370㎢(北海道と九州を合わせた広さ) |
|---|---|
| 人口 | 691万人(2024年、世界銀行) |
| 首都 | マナグア |
| 民族 | 混血70%、ヨーロッパ系17%、 アフリカ系9%、先住民族4% |
| 言語 | スペイン語 |
| 宗教 | 憲法上宗教の自由を保障。 カトリック、プロテスタントなど |
※2026年2月6日現在
出典:外務省ホームページ
派遣取極締結日:1991年7月16日
派遣取極締結地:マナグア
派遣開始:1991年8月
派遣隊員累計:695人
※2026年5月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)
JICAニカラグア事務所ナショナルスタッフ(NS)。現地の民間企業を経て、2017年4月より現職。ボランティア担当として、特に保健医療・環境・障害者支援分野のプログラムオフィサーを務める。26年1月には、 「ボランティア事業担当NS向け本邦研修」で来日。隊員が暮らしてきた背景や高度に発展した日本の文化の理解に役立ったという。
中米に位置するニカラグアは、豊かな自然と温かな人々に恵まれた国です。この国への協力隊派遣は1991年の開始から約35年に及び、累計派遣人数は700人近くに上ります。以前は小学校教育など学校教育分野のニーズが特に高かったのですが、2018年以降の政治情勢の変化やコロナ禍を経て要請が多様化。現在(26年5月時点)は青少年活動、観光、日本語教育、保健医療、野球、コミュニティ開発など、さまざまな分野で19人の隊員が活動しています。
ニカラグア隊員が関わる分野として特色があるテーマの1つは、若年妊娠や妊産婦・新生児の死亡リスクといった社会課題です。そこで助産師や保健師などの隊員が、思春期世代や妊婦への啓発を含めて地道な活動を続けてきました。一方的に専門知識を伝えるのではなく、この国の社会・文化を理解しようとする隊員の姿勢に、受け入れ機関からも感謝の声を受けています。また、国民的スポーツである野球についても長年にわたってニーズがあり、1991年の初代派遣隊員の1人も野球職種の方でした。その活動や、帰国後も続く関わりをきっかけに、読売ジャイアンツのニカラグア訪問など日本との新たなつながりも生まれています。
隊員の生活は原則的に現地の家庭でのホームステイで、言葉も文化も違う中で多くの隊員が初めは戸惑います。ただ、半年後にはよりリラックスした様子を見せるようになり、1年後には完全に“ニカラグア人化”していく姿をナショナルスタッフとして目にしてきました。
今年2月に帰国したある隊員は民族舞踊のグループに参加し、仲間と練習を重ねながらコミュニティに溶け込んでいきました。ニカラグアでは「Cómo está?(元気?)」と聞かれると「Bien, gracias a Dios(神様のおかげで元気です)」と答えるのが典型的な挨拶なのですが、私が彼女の任地を訪ねた時、自然にその表現で挨拶してくれたのは印象的です。
政治に関連する発言などでは配慮を要する場面もありますが、相手を尊重して思いを丁寧に伝える姿勢があれば、ニカラグアの人々は隊員の皆さんを家族同然に迎え入れてくれるはずです。日々スペイン語を話し、食卓を共に囲んだりもして、人と人のコミュニケーションを大切にしながら活動してほしいと思います。
ニカラグア/村落開発普及員/
1997年度1次隊・千葉県出身
津田塾大学学芸学部の国際関係学科を卒業後、ウェールズ大学スウォンジー校で国際開発学修士号取得。協力隊員としてニカラグアへ赴任し、帰国後、カリフォルニア総合研究所大学院社会人類学科で博士号取得。ユニセフや国際協力銀行、JICAでの勤務、JICA研究所研究員、横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院准教授などを経て、2026年より名古屋大学国際開発研究科准教授。専門は国際開発学、社会人類学、コミュニティデザイン(ラテンアメリカ・日本)。
佐藤 峰さんにとって、ニカラグアは“想定外”の国だった。大学で国際協力を学び、イギリスの大学院では女性へのマイクロファイナンスを研究した。国際開発の道へ進むには現場経験が必要だと感じて協力隊に応募したが、中南米に特別な関心があったわけではなく、希望していた赴任先はバングラデシュなどだった。当時のニカラグアは、約10年にもわたる内戦が終わってまだ数年しかたっておらず、戦闘の余波や地雷への不安が残っていた。ニカラグアへの派遣が決まると周囲からも心配されたが、えり好みせず赴任することにしたという。
任地は、首都マナグアから離れた中部山岳地帯のボアコ市。人よりも牛が多いといわれるような、のどかな山間の町だった。朝晩は涼しく、地元で採れた新鮮な野菜やトウモロコシ、豆、牛乳、チーズなどが食卓に並ぶ一方、水道の水は1日に数時間しか出なかった。周辺の村落への道は未舗装で雨期にはぬかるみ、場所によっては馬などに乗らなければならない。「初めて馬の背で山道を進んだ時は不安しかありませんでした」と振り返る佐藤さん。乗り方も分からない中、身をもって山岳地帯での移動の厳しさを学んだ。
当時、内戦の爪痕はそこかしこにあり、脚に障害を負った元兵士や、若くして亡くなった家族の遺影がある家などが佐藤さんの印象に残っている。社会主義への政治的な連想を避けるため、「コミュニティ」という言葉にも慎重になる場面もあったという。
配属先であるボアコ市役所からの要請は、「60ほどの村落を回り、地域を対象にした活動を行う」とざっくりとしたものだった。しかも要請を出した市長はすでに退任し、当初予定されていたカウンターパート(以下、CP)も不在。新しく来た担当者とも活動の方向性が合わず、佐藤さんは半年ほど村や市役所の様子を観察しながら、自分にできることを探した。当時はインターネットも携帯電話もなく、情報収集は紙の資料と対面のつながりが頼りだった。
自由に利用できる交通手段が乏しいため、歩いて行ける範囲の村に絞って巡回することにし、時には現地で活動するNGOの車やゴミ収集車に便乗。そんな中で転機になったのは、近隣のサンタ・イネス村のリーダーが佐藤さんを訪ねてきたことだ。村がなんとか歩いて通える範囲にあったので、そこを拠点に住民と参加型調査を行い、課題の優先順位や村にある資源についてまとめてもらった。その上で、フィンランドの国際協力団体からもらった資料を参考にして、目的や活動、村が提供できるものをまとめる簡単な企画書の書き方を学んでもらった。
「市役所で見ていると、村の人がただ『何とかしてください』と紙1枚程度の陳情書を携えて来ても、取り合ってもらえていませんでした。それを見て、一方的に要求するだけではなく、希望や条件を整理して交渉することが大事だと思ったのです。隊員はいずれいなくなるので、物を残すより、知恵やノウハウを残すほうが少しは役に立てると考えました」
目的や背景を明確にし、「村からはこれを提供するから、こういう支援を求めます…」と市役所や保健所などと交渉する。中には字が十分に書けない人もおり、村の学校の教員にも加わってもらって活動に取り組んだ。結果として、村が馬を出す代わりに看護師が巡回に来てくれるようになったり、植林に必要な苗木をもらうことができるようになったりと少しずつ変化が表れた。そうした成功の積み重ねは、やがて草の根無償資金協力による小さな診療所の建設プロジェクトへとつながっていった。
だが、任期後半の1998年、ハリケーン・ミッチが中米各国を襲い、甚大な被害をもたらした。各地で道が寸断され、佐藤さん自身も一時、任地へ戻れなくなった。活動どころではない状況の中、協力隊OVらに呼び掛けて復興支援基金を立ち上げ、被災した地域にトタンなどの資材を届けた。
佐藤さんが帰国する時、村の人たちはわら半紙につづった詩の束を贈ってくれた。ニカラグアでは韻を踏んだ詩で思いを表現する文化があり、詩の束を通じて一人一人が言葉を尽くして感謝を伝えてくれたのだ。「よそ者ではなく隣人として認めてもらえた気がして、とてもうれしかったです」。
草の根無償資金協力によりできた診療所を見たのは、佐藤さんが隊員としての任期を終えた後、2002年にJICA長期専門家としてニカラグアに戻った時だ。予想外に関わることとなったニカラグアとの縁は今も続き、ラテンアメリカは佐藤さんの研究と実践を支える大切な土台になっている。
「現地の人と関わる中で、五感で感じた事柄を元に考えることや、目の前の人をありのままに理解しようとする姿勢が強くなりました。外から何かを与えられるのではなく、人々が自らの力を感じ、資源を発見して働きかけていくプロセスに伴走させてもらえた経験は、私の国際協力の原点です」
Text=秋山真由美 写真提供=マイラ・カレロさん、JICAニカラグア事務所、佐藤 峰さん