派遣国の横顔

日系社会

世界各国の発展に貢献してきた日系人
拡大する日系社会を通じた国際協力の時代へ

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日系社会青年海外協力隊・日系社会海外協力隊・日系社会シニア海外協力隊の派遣実績

派遣開始:1986年2月
(ブラジル・アルゼンチンの海外開発青年事業)
派遣隊員累計:2,269人
※2026年8月31日現在
出典:国際協力機構(JICA)

お話を伺ったのは
小原 学さん
小原 学 さん

JICA国際協力専門員(日系社会連携)。JICAボリビア事務所に計7年間勤務。2018~22年にボリビア事務所長、22~25年に中南米部長を務めた後、25年に海外移住資料館副館長を経験し、同年より現職。26年6~11月にかけ、同資料館で企画展「日本人移住と共創の原点 ─共に挑んだ戦後移住者とJICA─」を企画・運営。移住者や日系人が国際協力にも貢献してきたことを紹介。

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ボリビアの日系移住地・オキナワ市でのエイサーの演舞。近年は日系ルーツではないボリビア人がエイサーを習うことも増えているという(関連:P24「公開!私の派遣国生活」)

   “日系人”とは、海外に移住して根を下ろした移住者とその子孫を指します。日本とは異なる社会や風土の中で困難を乗り越えて新生活を確立し、地域社会の発展にも貢献してきました。特に中南米各国には約310万人が暮らし、現地の経済や社会開発の重要な担い手として尊敬と信頼を得ており、日本に対する良好なイメージにもつながっています。

   戦後の海外移住は1952年に始まり、JICAはその前身時代からさまざまな移住政策の実施に関わりました。移住者数は1950年代後半をピークとして高度経済成長期を境に急減し増加は見込めない状況になりました。そのため、中南米の日系社会からの後継移住者のニーズに対し、85年に「海外開発青年事業」が発足。農業や医療、コンピュータ技術、日本語教育などの技能を持つ日本の青年が現地で活動する“体験移住”と位置付けられたもので、現在の日系社会青年海外協力隊などの前身の一つです。その後、事業目的は移住促進から日系社会支援へと移り、96年に日系社会青年ボランティアへと改編。2018年に現在の名称となりました。

   各国の日系社会で世代交代が進む中、組織の持続性を確保することが課題となっています。例えば日本からの移住が始まって120年近くが経過したブラジルでは、次世代を担う若手日系人の参加を促すとともに、日本語・日本文化に純粋な興味を持つ非日系ブラジル人たちへも開かれた社会になることが求められています。

   他方、パラグアイやドミニカ共和国といった戦後移住中心の国々では日本の伝統的価値観がより色濃く残り、赴任する隊員たちに対しては、日系の若い世代に日本的な精神性などを伝えることを期待される場面が多々あるでしょう。日系1世や2世のほうが隊員より日本の伝統に明るくてギャップを感じることもあるかもしれませんが、どの国の日系社会も隊員を温かく受け入れてくれますし、主な配属先となる日系団体からの要請内容は明確で、総じて活動しやすいはずです。

   日系社会青年海外協力隊などの枠組みでの派遣は、日系社会を活性化していくことが主な役割となります。ただ、一口に日系社会といっても、世代交代や非日系人層の新たな参画も含め、その在り方は時代と共に変化し広がりを持ってきています。隊員の皆さんには日系社会だけに視野を狭めず、その国・地域全体の発展にどのように貢献できるかも意識しながら活動し、日系社会と受け入れ国、日本をつなぐ橋渡し役となることを期待しています。

変わりゆく日系社会の中で試行錯誤を続けてきた日系隊員たち

親泊まゆみ(旧姓 下川)さん
親泊まゆみ
(旧姓 下川)さん

日系/パラグアイ/
児童教育(教諭)/
1997年度0次隊・福岡県出身

琉球大学で社会科教育を学び、3年時のアジア旅行で貧困層の子どもたちと出会ったことで、「海外で困っている子どもたちの役に立ちたい」と日系社会青年ボランティア(現 日系社会青年海外協力隊・日系社会海外協力隊)に参加。任期の3年間活動し、帰国後は「物質的に豊かでも、心の豊かさを失って困っているのは日本の子どもたちではないか」との思いで女子少年院の法務教官に。24年にわたり務めていて、現在は沖縄女子学園に勤務中。

任地の日本語学校の節目に立ち会い、
地域と共に“新しい学校”をつくった3年間

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ピラポ市の日系社会合同の大運動会。「パン食い競走のパンを朝から焼いてきてくれる人もいて、少し昔ながらの運動会に皆で楽しく取り組みました」

   親泊まゆみさんは1998年にパラグアイ南東部のピラポ市へ赴任し、児童教育(教諭)の職種で日系社会青年ボランティアとして活動した。ピラポ移住地は60年に同国4番目の日系移住地として原生林を開拓して造られたのが始まりで、331家族1,793人が入植し、8万4,000haもの広大な土地は大豆の一大生産地として発展。90年にはピラポ市としてパラグアイの行政に組み込まれ、非日系人の転入も増えた。

「移住地の皆さんは、天候が豊作・不作を左右する厳しい環境にある中で、ないものは工夫して作るたくましさがあり、味噌や豆腐から川魚のお刺し身までごちそうしてくれました。太鼓の保存会などで伝統文化を守る一方、テレレ(水出しのマテ茶)を回し飲んで和むパラグアイ文化も自然に取り入れていました」と親泊さんは当時を振り返る。

   配属されたのは移住者の子どものための日本語学校で、通ってくるのは小学1年生から中学3年生までの児童・生徒たち。平日はパラグアイの一般校へ行き、土曜日に日本語学校で日本の習慣や文化を学ぶ。親泊さんには、移住者が継承してきた教育を踏襲しながらも、2世や3世である子どもたちに合わせた現代的な日本式教育を体育・図工・音楽の実技科目を通じて行うことが求められた。

「日系の方たちは遠足や運動会などの学校行事を大切にし、入植祭、敬老の日や成人式なども盛大に行います。まずは移住地に溶け込むため、行事のお手伝いや婦人会の書道教室、さらには移住地内のラジオのDJまで、頼まれたことは何でも引き受けました」

   当時、ピラポ市内には4つの日本語学校があったが、出稼ぎなどによる子どもと指導者の減少で廃校・統合が決まっており、その支援も活動の柱だった。1年目は4校のうちの1つ、富美村日本語学校で活動した親泊さんだったが、配慮したのは、アイデンティティと地域への思いに寄り添うこと。「廃校は大きな喪失感を伴う出来事です。だからこそ子どもたちが自分のルーツを誇れるような廃校式にしたいと思いました」と振り返る。また、日本への出稼ぎから戻った2世の若者から聞いた、「パラグアイではハポネス(日本人)と呼ばれ、日本に行けばパラグアイ人と呼ばれる。自分は一体何者なんだろう」との悩みも印象に残っていた。

「私から見れば、2つの国の文化を知っていることは、移住地で育ったからこそ得た素晴らしい持ち味です。『みんなすごいんだよ、あなたはあなたでいい。自分のルーツを誇りにしよう』と授業で繰り返し伝えました」

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富美村日本語学校の廃校制作で描いた壁画「未来へ」と、当時の中学生たち

   廃校式でもそうした思いを盛り込んだ歌を合唱。廃校後の建物を地域で活用する提案をし、生徒たちと壁画を描いてきれいに整えた。そして、1校に統合されたピラポ日本語学校での新しい学校づくりでは地域と共にある学校という点を大切にしようと校歌を作った。

「町を流れるピラポ川など地域の風物が盛り込まれ、皆が親しめる歌詞と歌いやすいメロディを移住地の方が作ってくれました。私が詩を補作し、同期隊員が編曲しました」

   統合後は、日々の活動を通じて4地区の生徒・教員を一つにまとめていった。特に印象に残るのは市の日系社会全体での運動会で、「パン食い競走や、婦人会の人たちが衣装や小物を手作りした仮装競走などを皆で楽しみました」と親泊さん。また、「“今の日本”が分かるものを取り入れたい」という教員の要望に応え、J-POPの曲や童謡に振り付けをし、生徒らに踊ってもらった。これが好評を博し、当時移住地で作られた『ピラポ音頭』の振り付けを頼まれることにもなった。現在もさまざまな行事で踊り継がれる音頭だ。

   最後の1年は、パラグアイの森林減少の問題を知ったことを機に環境教育にも注力し、身近な廃材を再利用するリサイクル工作を紹介すると、創意工夫の精神に富んだ子どもたちの心に響いた。「人形を作って劇をやろう」とアイデアを膨らませて実行する子もおり、子どもの日には、古いビニールと新聞紙で作った大きなこいのぼりを、移住地で保存されてきたこいのぼりと一緒に泳がせてお祝いもした。

「元々あるものと自分たちが作ったものを融合させて楽しむ姿に、彼らの心の豊かさやたくましさを感じました」

   移住地での3年間で生きる力や生活を楽しむスキルを学んだ親泊さん。当時、日本で少年犯罪が凶悪化しているとのニュースに触れ、「今、救うべきなのは日本の子どもたちではないか」と考えるようになり、帰国以来、少年院の法務教官として働いている。

Text=工藤美和 写真提供=親泊まゆみさん