派遣国の横顔

タイ王国タイ王国

発展に伴い多様化・高度化する協力隊へのニーズ
互いに学び合うパートナーとしての姿勢が大切

タイ王国

タイの基礎知識

面積約51万㎢
人口6,605万人(2025年)
首都バンコク
民族大多数がタイ族。その他、華人、マレー族など
言語タイ語
宗教仏教94%、イスラム教5%

※2026年1月21日現在
出典:外務省ホームページ

派遣実績

派遣取極締結日:1981年1月19日
派遣取極締結地:バンコク
派遣開始:1981年7月
派遣隊員累計:1,186人
※2026年9月30日現在
出典:国際協力機構(JICA)

タイ王国
お話を伺ったのは
宮下和正さん
宮下和正 さん

JICAタイ事務所・企画調査員(ボランティア事業)。大学時代にスペイン語を専攻し、中米への語学留学やボランティアを経験。卒業後は民間企業に就職し、東京、チリで勤務。その後、世界各地を回り、多様な文化や価値観に触れタイでの勤務も経験。2014年からJICA駒ヶ根訓練所で語学調整員を務めた後、エルサルバドル、ブラジルのJICA事務所を経て、23年10月より現職。

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ワットスタット寺院に鎮座するシーサカヤムニー仏像。「タイでは仏教を尊重することも大切。隊員は『タンブン』(布施や寄進など徳を積む行為)や仏教行事に触れる機会も多いでしょう」(宮下さん)

   タイへの協力隊派遣は1981年に始まりました。当初は、農業や畜産といった1次産業、自動車整備、電気・電子機器など製造・技術分野に関わる要請が中心でした。その後、タイの都市化や教育水準の向上に伴い、現在は、産業人材育成、地域振興、環境・気候変動対策、高齢化対策・社会的弱者支援の4分野を中心に、中等教育現場(中学・高校)でのプログラミング教育や、高等教育現場(大学)でのアニメーション制作など、デジタル分野のニーズも増えています。

   タイの公立中等学校(日本の中学・高校に相当)では日本語が第2外国語の選択肢の1つとなっており、日本語教育はニーズの高い職種です。実際には日本語学習に関心がある生徒ばかりとは限りませんが、そうした環境こそ隊員の工夫が生きるところ。多くの日本語教育隊員が、日本文化やアニメなどを取り入れた授業を通じて、生徒の興味を引き出しながら活動しています。

   一方、公衆衛生や保健医療など、タイ独自の方法が確立されている分野もあります。そうした現場では、“イコールパートナー”として、互いの知識や経験を分かち合う姿勢が大切です。発展した都市を目にして「タイに支援は必要ないのでは」と感じる隊員もいますが、都市と地方の格差は大きく、大都市を含め、各地域が抱える課題もさまざまです。自身の知識や経験を一方的に伝えるだけではなく、タイの文化や価値観を学び、その経験を帰国後の社会還元につなげることにも意義があります。

   タイ人がよく使う「マイペンライ」という言葉には、「大丈夫」「気にしない」といった意味があります。予定の変更や突然の依頼にも臨機応変に対応するのが、タイのやり方です。隊員は、心に余裕を持って相手の考え方や進め方を受け止めることで、信頼関係を築きやすくなると思います。

   私がタイの魅力だと感じるところは、人々の穏やかさです。高齢者や子どもに優しく、人とのつながりが強く、かつての日本にも似た居心地の良さがあります。現地の暮らしや考え方を知り、学ばせてもらう。その意識を持つことで、タイで過ごす時間はより有意義なものになると思います。

日本語やプログラミング教育の場で、
高齢者支援を学ぶ大学で、タイ人の優しさに触れつつ活動

伊藤あゆみさん
伊藤あゆみさん

タイ/日本語教師/
2006年度3次隊・三重県出身

大学卒業後、通信制の学習塾に勤務し、講習で生徒に対面で教える楽しさを知る一方、海外に住みたい思いもあり、日本語教師を志す。養成講座を受講中に資格取得やボランティアとして日本語を教える経験をし、協力隊に応募。派遣までの半年間ほどは中国に渡り日本語教師の経験を積んだ。タイでの活動中に出会ったタイ人男性と結婚し、現在もシーラチャに住み、私立病院で通訳として勤める傍ら、タイ人へ日本語を教えている。

カウンターパート不在の中、1人で授業を継続
日本語や日本文化への興味を引き出した

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シーラチャ日本祭りで「さくらさくら」を歌う生徒たちと琴を弾く伊藤さん(左)。「普段は合唱を恥ずかしがるシャイな年頃の生徒たちが、大きな声で一生懸命に歌ってくれて、その姿を見てとてもかわいく感じました」

   伊藤あゆみさんは、2007年3月、タイ東部チョンブリ県シーラチャ郡にある公立の中高一貫校、スラサクウィッタヤコム校に日本語教師隊員として配属された。シーラチャは海辺の地方都市で、1990年代以降に日系企業が多数進出し、工業地帯として発展してきた。日系企業は地域住民の働き口にもなっていて、日本語を身に付けておくことは就職の選択肢を増やすことにもつながる。

   配属先では02年から第2外国語として日本語の授業を開始。2・3年生(日本の中学2・3年生に相当)は選択科目、4~6年生(日本の高校生に相当)は文系の必修科目となっていた。伊藤さんには、カウンターパート(以下、CP)であるタイ人日本語教員と共に生徒への授業を行うことに加え、CPの日本語能力向上と教授法の指導が求められていた。

   しかし、授業計画の必要性に対する意識の違いや、お互いの忙しさもあり、CPとの意思疎通はなかなかうまくいかなかった。やがて伊藤さんは、「ここは日本とは違う」と受け止め、あらゆる状況に対応できるように複数の授業案を用意するようにした。「タイでよく聞かれる『マイペンライ』は、計画通りにいかなくても『大丈夫だよ』という意味。その価値観を受け入れたら、肩の荷が下りた気がしました」。

   ところがその後、CPが体調を崩して入院。見舞いに行くと、CPは伊藤さんの手を握り、「アユミがいてくれてよかった」と言い、07年12月に亡くなった。後任は置かれず、結果的に伊藤さんは残りの任期1年4カ月間、1人で授業を担うことになった。

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伊藤さんは、駐在員家族の日本人が多く住むという地域の特色を生かし、さまざまな日本文化を披露してもらった。写真は茶道体験を行った時の様子

   しかし、生徒には授業以前の課題もあった。配属先は郊外にある小規模校で、経済的に余裕がある家庭の生徒は少なく、中には放課後にアルバイトをしている子もいた。学力レベルは総じて高くなく、大学進学を目指す生徒は3年時が終わると別の学校へ進学するパターンが多かった。伊藤さんが担当した生徒たちは、授業中の私語や立ち歩きが多く、教科書やノートを持たずに来ることも珍しくなかった。そこで伊藤さんは、まず学習に臨む姿勢を育てるため、必要な持ち物を一覧にして教室に貼り、持参できた生徒には丸を付けた。クラスメイトからこっそり借りてやり過ごそうとする生徒もいたため、一人一人確認することを続けるうちに、道具を持ってくる習慣が定着していった。

   授業では、アニメキャラクターを描いたお面をかぶって会話をしたり、平仮名を当てるカルタをするなど、楽しみながら学べるように工夫した。また、生徒同士が日本語を話す時間も増やした。「生徒はつまらなければ態度に出すし、楽しければ笑顔になる。反応がとても素直なのです」。

   日本語を学ぶ動機付けや生徒の視野を広げるため、日本人との交流も取り入れた。任地には日系企業の駐在員家族が多く暮らしていて、そうした日本人を学校に招き、浴衣の着付けや茶道体験などを行ってもらい、生徒たちが日本文化に触れる機会をつくった。最終学年の6年生には、日本人家庭で1泊するホームステイも実施。約10人の生徒がそれぞれ別の家庭で娯楽や食事を共にし、日本の食べ物や作法に触れ、親交を深めた。「“相手と話したい”と思うことが語学に取り組む基本です。ホームステイをしたことで、『もっと日本語を勉強したい』と言ってくれた生徒もいました」。

   生徒たちの成長を感じたのが、07年12月に開催された「シーラチャ日本祭り」だった。伊藤さんに祭りで琴を演奏してほしいとの依頼が来たことを発端に、良い機会だから生徒たちも出演させてほしいと主催側に頼み、4年生約20人が祭りの舞台で日本の歌「さくらさくら」を披露した。

   事前練習では、来ない生徒もいる一方、「ちゃんと来ないとだめじゃないか」と伊藤さんの代わりに叱ってくれる生徒もいた。祭り当日のリハーサルでは、緊張と恥ずかしさからほとんど声が出なかったが、本番直前に「先生、向こうでもう一度、練習しよう」と生徒自ら声を上げた。本番では大きな声で歌い、盛大な拍手をもらった。田舎の公立学校の生徒として「君たちは勉強ができない」と言われ続けてきた彼らが、自発的に練習し、最後までやり遂げた瞬間だった。

   伊藤さんは2年間の活動を振り返り、「とても充実した2年間でした。皆が外国人の私を温かく受け入れてくれ、CPを亡くした時も、同僚たちが『アユミ、大丈夫?』と気遣ってくれました。私が何かを残したというより、与えてもらったもののほうが大きかったです」と話す。

   現在もシーラチャに住む伊藤さんは、最近、かつての生徒と偶然に再会した。その生徒は「大学で日本語を専攻し、地元のホテルで日本語を生かして働いています」と報告してくれた。CP不在の中、1人で懸命に続けた授業や日本文化紹介が、“種”として生徒の心に残ったのかもしれない。

Text=秋山真由美 写真提供=宮下和正さん、伊藤あゆみさん